「ここはね、夢の世界なんだよ」

 来夏は目を細めながら僕に近づいて来た。

「あの日、あの時、事故に遭ったのは私じゃなくて、優太くんだったんだ」

 ごめんね、と来夏は苦しそうに笑った。

「事故に遭ったのは来夏じゃなくて、僕だった」

 口に出すことで、噛み砕かれた現実が脳に染み込む。

 その瞬間、失われていた記憶が、濁流のように押し寄せてきた。

 そうだ。確かに僕はあの時、あのバス停の軒下で『エモーション』を服用した。

 いつか役に立つだろうと『エモーション』は発売されてすぐの頃に買っていた。だが、その危険性が分かってから使わないようにしていたのだ。それが、あの日バッグの底に眠っていた。

 目の前で泣き噦る来夏を助けたい。でも、僕には彼女を助け出す勇気がない。だから僕は、思わず『エモーション』を飲んでしまった。気を付ければ大丈夫だと思っていた。だけど、結果として車に轢かれてしまった。

「そうだよ。だから、ここは夢の世界なんだ。現実の世界では、優太くんは眠ったままなの」
「じゃあ、来夏は?」
「私はこの通り、普通に生活しているよ」

 その瞬間、僕は来夏に抱き付いた。「わっ」と彼女は驚いたように小さく叫ぶ。

「良かった……本当に良かった」

 来夏が無事で、本当に良かった。事故に遭ったのが僕で本当に良かった。

「良くないよ。私のせいで、優太くんはずーっと眠ったままなんだ。それは、許されないことだよ」
「そんなの……どうだっていいよ。来夏が無事なら、なんだっていい」
「そっか……でも、本当にごめんね」

 来夏はぎゅっと僕を強く抱きしめた。

 抱きしめる力を緩めて、彼女の顔を見る。目と鼻の先に、来夏の顔がある。

「私ね、本当に辛かった。罪を償わなきゃって、ずっと思ってた」
「僕だって辛かった。それに、罪を償いたいのは僕の方だ」
「どうして?」

 意味が分からないとでも言いたげに、来夏は首を傾げる。

「ごめんね。信じてあげられなくて、僕は君に、酷いことを沢山した。僕だって、その罪を償わないといけない」
「なんだ。そんなの、どうでもいいよ。優太くんと一緒にいられれば、なんだっていいよ」
「そっか……でも、本当にごめん」

 僕がそう言うと、来夏はふふっと笑った。

「どうしたの?」
「なんか、二人して謝ってばっかりだなって思って」
「確かにそうだね」

 そう言って僕たちは、二人で笑い合った。

 来夏が目の前にいる。来夏が僕を見て笑ってくれている。来夏が僕の腕の中にいる。その現実が、信じられなかった。

 その時だ。「んんっ」という咳払いの音が聞こえてきた。音の方に視線を向けると、そこにはディスプレイに映し出された女性の姿があった。

「お取り込み中、すみませんね」

 それは聞き慣れた女性の声だ。

「初めまして、と言うのは少し変ですかね。私は、越生くんのことをずっと見ていました」
「ああ……何となく、さっきから気付いてましたよ」

 彼女の正体は天の声で間違いない。

「そうですか、では申し遅れました。私の名前は千代田と言います。この世界の管理をしておりました」

 千代田は一度視線を下げてから、頭を下げた。

「その、色々と黙っていて申し訳なかったです」
「いや、そんな風に頭を下げないでください。それは、僕を思ってのことだったんでしょう?」

 自分の住んでいる世界が夢の中だったと気が付いた時、普通の人間はどんな反応をするだろうか。恐らく、僕のように安心する人間の方が少ない。

「一応そうですけど、他にも謝らなくてはならないそとが沢山あるんですよ」
「なんですか?」
「来夏さんの頭痛は、私のせいなんです。私の監督不足が原因なんですよ」
「違いますよ。あれは私が無理言って……」

 来夏がすかさず言うが、千代田はゆっくりと首を横に振る。千代田の話によると、来夏は脳に負担をかけ過ぎたらしい。

「あれか、夏祭りの夜のことですね」
「そうなんです。後は、コテージの夜もそうですね」

 なるほどなと思った。頭痛を我慢しながら書いたから、筆跡が乱れていたのか。

 ディスプレイの前で「私の方が悪い」と二人がわちゃわちゃと騒ぎ始める。だが、コテージの日は僕が頭痛を起こしたのが一番の原因だ。それを言おうとしたところで、思い出した。一番大切なことを、聞いていない。

「あの……すみません」

 僕の声に、二人が同様に振り返る。僕の表情を見て察したのか、千代田は険しい顔つきになった。

「僕の頭痛について、聞きたいんです」

 来夏は黙って僕を見た。千代田も鋭い目つきのまま、僕を見ている。

「千代田さん。あの、コテージの朝に言っていた言葉……あれって……」

 ――後悔のないように生きてくださいね。

 これはもう、僕が死ぬと言っているようなものだ。そしてその事実を、来夏は知っているのだろう。だからこそ、彼女は時間超過をしてまで仮想世界に入り込んできた。

 一瞬の沈黙。千代田はこめかみを抑えてから、言葉を選ぶようにして、重い口を開けた。

「詳しいことは、私にも分からないんですよ」

 千代田によると、僕の症状には前例がないらしい。『エモーション』を服用して亡くなったどの人間とも、異なる症状なのだと言う。

 神妙な表情のまま、彼女は続ける。

「ただ……」
「ただ?」
「覚悟はしておいたほうがいいでしょう、とだけ」
「そうですか。分かりました」

 前例はないが油断はできない。危険な状態だ、ということだろう。つまり、いつ死ぬか分からないということだ。

 結局、言いたいことはコテージの朝の時と同じだ。

「あの……本当にすみませんでした」

 千代田は再び僕に頭を下げた。

「いや、いいんですよ。実際、貴女は僕の為に沢山動いてくれました」

 地震や事故の発生を教えてくれた。宝くじの当選番号を教えてくれたこともあった。そして、来夏を好きになるように誘導してくれた。

「僕は貴女に感謝しているんですよ。こんなに素晴らしい世界を作ってくれたしね」

 千代田がこの世界を構築してくれなかったら、僕は来夏と再会できていなかった。過去の世界で、来夏と四年前をやり直すこともできなかった。ずっと真っ暗な世界で、無の時間を生きていたのだろう。

「そうですか。そう言っていただけると、私も嬉しいです」
「はい。最後にそれを伝えることができて、僕も嬉しいですよ」
「最後だなんて、そんな縁起でもないこと言わないでくださいよ」

 千代田さんが苦笑いで言うのと同時に、来夏が僕を小突いた。

「もう、本当にそんなこと言っちゃダメでしょ」
「あはは……ごめんごめん」

 笑って誤魔化したものの、本当に最後がいつになるのかは分からない。いつこの生活が終わるのかも分からない。後数時間後に、僕の命は尽きているのかもしれない。いつだって、その覚悟を持って生きていくべきだと、そう思った。

「では、私はお邪魔になるのでここら辺で消えさせていただきますね。仮想世界を覗き見るようないやらしい真似はしませんので、二人で、二人でしかできないことをお楽しみくださいませ」

 千代田は下品な笑みを浮かべた後、ディスプレイの電源を切った。

 来夏はそんな千代田を無視してすぐに僕の方へ向き直る。

「ねね、優太くん」
「どうしたの?」
「私さ、今日行きたい場所、決まってるんだよね」
「どこ?」
「温泉旅行! 四年前に約束した場所で、まだ行ったことがないのは温泉旅行くらいかなーって思ったからさ」

 確かに、まだ行ったことがないのは温泉旅行くらいだ。だが、温泉旅行に行けるのだろうか。僕達が温泉旅行に行けなかったのは、来夏の脳にダメージが蓄積されていたからだ。今回、彼女はどれくらいの時間活動できるのだろう。

「確かに行きたいね。そうすれば僕達は、過去を全部取り戻せる」
「でしょでしょ!! やっぱり、温泉旅行には何としてでも行かないとだよね」
「でもさ、来夏の脳は大丈夫なの? まだ仮想世界に入る時間の制限とか、かけられてるんじゃないの?」

 僕がそう言うと、来夏は一瞬だけふいっと目をそらした。だが、すぐにいつもの表情に戻る。それは、僕の勘違いだと言われればそう納得できる程度の変化だった。

「全然大丈夫だよ! 全く問題ない! だって、二ヶ月も休んだんだよ。最初の制限と同じだよ」
「それって、何時間なの?」

 来夏は一瞬溜めてから「じゃん!」と言って両手のひらを開いて見せた。

「十時間!! 日帰りで近場の温泉に行くんだったら余裕で行って帰って来れるよ!」
「確かに、十時間もあれば日帰り旅行だったら大丈夫か」
「でしょ!」

 僕が納得すると、来夏は嬉しそうに頷いた。そのまま彼女はとことこと部屋の外へと出た。バタンと音を立てて、扉が閉まる。

 僕はその音を聞いてから、彼女を追いかけて玄関から出た。するとそこには、僕が先ほどまで話していた来夏のお隣さんが呆然とした表情で立ち尽くしていた。

「あんたら、頭は大丈夫なのか?」

 そういえば、ここのマンションの壁は信じられないくらい薄いという話だった。この男はきっと、僕達の会話を聞いていたのだろう。

「僕達の頭は正常ですよ。今話していた内容が、この世界の真実です」

 僕がそう言うと、男性は気味の悪いものでも見たという表情で、部屋の中に消えていった。

 そんな彼の後ろ姿を見てから、僕は目を瞑った。そうして、もうこの世界にはいないたった一人の友人へと想いを馳せる。

 この世界はお前の願った通りの世界をしていたぞ。

 この世界に暮らしている大半の奴が、水槽の脳と同じような世界で、明るく楽しくハッピーに暮らしていた。僕達の世界にいる奴らは、揃いも揃ってみんな不幸だ。

 蓮田、良かったな。

 その時だ。

 ――良かったな。越生。

 蓮田の声が聞こえた気がした。

 ――お前はまだ、こっちには来るなよ。

 振り返ってみたが、そこには誰もいなかった。