だけどそれからの毎日は本当に幸せだった。幸せで幸せで、どうしようもないくらいだった。四時間でやれる約束を、これでもかとやり通した。そうして、ついに念願だった四年前の世界へと行けることにもなった。

 そこでの日常は、全て私の望んだものだった。

 学生時代を過ごした忌々しい部屋で、私は目覚めた。だが、あの悍ましい暴力も、罵倒も何もかもがない。全てが理想的で、完璧な世界。そこには私達を苦しめる存在はいない。

 身支度を整えてから、優太くんの家へと向かう。彼の家の前に立った時、体が芯から震えたのが分かった。

 朝から優太くんの家に行き、一緒に朝食を食べる。その後は一緒に登校して、一緒に帰って、少し遊んで帰る。

 四年前までは、これが普通だった。いつしか、それが私の普通じゃなくなった。私はこの当たり前をずーっと待っていた。その当たり前を、やっと、取り戻せた。

 その日私達は、あの横断歩道を乗り越えた。あの忌々しい過去を、運命を乗り越えたんだ。これから私達はどこまででも行けると、そう、思っていた。

 だが、私には一つだけどうしようもない問題があった。

 私はしっかりと四時間のルールを守っていた。でも、私の脳にはダメージが蓄積されていた。千代田さんの判断で、日に日に仮想世界に居られる時間が短くなっていく。

 最大の問題は、夏祭りの日にあった。

 今私が仮想世界で活動していられる時間は約二時間。夏祭りに行くとなると、確実にその時間を超えてしまう。

 私はなんとしてでも夏祭りに行きたかった。失われたお守りを、何としてでも手に入れたい。彼と一緒に花火を見たい。でも、夏祭りに行ったら優太くんの世界に行けなくなるかもしれない。私は今、妥協案として二時間だけ優太くんの世界に行ける状態なのだ。

 夏祭りは諦めるしかないかもしれない。だが、優太くんはいつまで生きられるのか分からない状態なのだ。いつ容態が悪化してもおかしくない。

 私はどうしたらいいのだろうか。次に時間を超えてしまったら、私はもう優太くんの世界に入れないだろう。そんなのは嫌だった。この生活を、手放したくない。そんな風に、悩んでいた矢先の出来事だった。

☆★☆★☆★

 私はその日、いつも通り優太くんの眠る病室に向かった。部屋に入ると、千代田さんが不安そうな顔でパソコンをいじっている。ここ最近の千代田さんは、毎日何かに怯えているように見える。

「あの、大丈夫ですか?」

 相当疲れているのか、それとも思い悩んでいるのか、千代田さんは私が病室に来た事にも気づいていないようだ。

「ああ、来夏さんか」

 私は、千代田さんの意見が聞きたかった。わがままを言って、夏祭りに行っていいのか。

 それについて千代田さんに話すと、彼女は難しい顔をして頷いた。

「そうか……」

 意外にも、彼女はすぐに否定しなかった。「ダメだ」とすぐに却下されるものだと思っていたから、私は少し驚いてしまう。

「本来なら、私はそれを止める立場にいるんだと思う」

 彼女は優太くんに視線を向けながら、ゆっくりと口を開いた。

「正直、ずっと悩んでいたんだ。でも、これはもう、来夏さんに話しておいた方がいいかもしれない」

 言って、千代田さんは私を見た。

 冷たい空気が病室を満たす。静電気が起こりそうなくらい、空気が張り詰めていた。

「越生くんの、体調が良くないんだ」

 千代田さんは一度瞳を伏せてから、もう一度私を見た。

「それ、どういうことですか?」

 体調が良くないって、どう体調が良くないのだろう。

「だから、もしかすると……」

 千代田さんは一度言葉を区切って、何かを決意したように口を引き締めた。

「死んじゃうかもしれないってことだよ」

 頭が、真っ白になった。それは覚悟していたことだった。だけど、いざそう言われると、何も考えられない。脳の配線が切れたみたいに、目の前が真っ暗になって、頭の中はノイズでいっぱいだった。

「どうして……ですか?」

 かろうじて出た言葉が、それだった。

「この前検査してみたんだが、原因は分からない。ただ、脳に異常が起こっているんだ」

 言いながら、千代田さんは右側頭部を指差した。

「越生くんは右側頭部を損傷している。そこに激しい痛みがあるらしいんだ」

 千代田さんの説明によると、優太くんは時々、酷い頭痛に悩んでいるという。

「このまま、脳の状態が一気に悪化してしまう可能性は大いにある」

 千代田さんは両手で顔を覆ってから、言った。

「私は、君を応援したい。越生くんが来年まで生きていられる保証はない。いや、生きている可能性は低いのかもしれない。そうなると、夏祭りには、一生いけない」

 どうしようもない現実が私の前にそびえ立っていた。

「どうするか凄く悩んだ。来夏さんが越生くんを夏祭りに誘ったのは、知っていたから」

 だから結局、千代田さんは私が夏祭りに行くことを許してくれた。「これが最後になるかもしれないから」と彼女は言っていた。その言葉は、ずしりと、鉛のように私にのしかかった。

「でも、もし、だ。次に前回のBBQ並みのダメージが確認された場合、仮想世界に入れなくなると思って貰いたい」

 千代田さんは私を真っ直ぐ見た。やっと手に入れた優太くんとの日常を、壊したくはなかった。でも、だけど、彼と夏祭りに行きたい。このチャンスを逃したら、一生行けないかもしれない。お守りを、取り戻せなくなる。そう思うと、このチャンスを逃すわけには行かないと思った。

「大丈夫です」
「そっか……分かったよ」

☆★☆★☆★

 そうして私は結局、夏祭りの途中で倒れてしまった。倒れた瞬間、私は精一杯の力でベルを押した。家の前まで優太くんに送って貰った私は、急遽仮想世界に入って来てくれた千代田さんに回収された。

 私の脳へのダメージは既に許容範囲を超えており、私は仮想世界に入ることを禁じられた。

 千代田さんはとても申し訳なさそうに私を見ていたが、彼女を責める気にはなれなかった。元々、わがままを言ったのは私なのだ。

 それよりも、優太くんの命がもうすぐ尽きてしまうかもしれないという事実が私の心を打ちのめした。

 それからの日々は、地獄だった。一度天国を知ってしまった分、地獄はより一層激しさを増して私に襲いかかってきた。

 千代田さんから聞いた話によると、優太くんの容態は日に日に悪化しているという。

 私は病室に向かって、優太くんの手を握り締めた。眠り続ける彼の耳元に口を近づけて、語りかける。

「優太くん起きてよ。私の人生はつまらないよ。私の心はカラカラに干上がってるからね。君がいないと、本当にダメなんだ。
 そっちもつまらないよね。またすぐにそっちに行くから。それまでは死んじゃダメだよ。ずっと、死んじゃダメだよ。
 私達の人生は始まったばっかりだもんね。まだまだこれから、思い出を沢山作ろうね。私、まだまだやりたいことが山のようにあるんだよ。
 四年前の約束だけじゃない。私、最近では未来のことも考えるようにしてるんだ。優太くんと共に歩む予定の未来のこと。私には沢山の夢があるの。だからその時、優太くんが隣にいてね。
 だから生きてて。ずーっと生きててね。死ぬのなんて許さないからね。
 嫌だからね。これから私だけが年老いていくのなんて、絶対に嫌だからね。私と優太くんは一緒に生きて、一緒に死んでいくんだから。先に死ぬのだけは、絶対にダメだから」

 優太くんはすーすーと寝息を立てて眠っていた。眠り続けていた。

「お願い……起きてよ……お願いだから、私の前から消えないで……」

 私の言葉は、優太くんには届いていない。彼は安からな顔で、眠っている。

 私はそのままふらふらとした足取りで病室から出た。そのまま、仕事に向かった。

 ここ数ヶ月は休職していたのだが、案外体が覚えていた。仕事をしている間はまだ楽だった。何も考えなくていいから。一層のこと、このまま死んでしまおうかと思った。

 家に帰ってから、食事を取る。なんの味もしない。味のない粘土を食べているかのような気分だった。体と精神は疲れ切っているというのに、眠れない。目を瞑ると、どうしても優太くんのことを考えてしまう。眠れないから、外に出た。夏の終わりの空は酷いくらいに綺麗だった。優太くんと一緒にこの空を見たいと思った。

 二時間ほど歩いて、度数の高い酒とタバコを買った。銘柄などは知らないので、一番体に悪いやつをくださいと頼んだ。

 家に戻って、酒を一気に飲み干した。そのまま、勢い良くタバコを吸う。その瞬間、脳が弾け飛んだかと思った。クッソ不味い。最低最悪な気分だったけど、最高だった。

 酩酊状態になった私は、もう一度外に出た。今の私は無敵だ。何が来ようが、誰が襲って来ようが、何も怖くない。完全にハイになっていた。

 暗闇の中、私はふらっふらになりながら歩いていた。

 その時だった。私の視界を、白一色が埋め尽くした。それが自動車だと気が付いた時には、もう遅かった。

 優太くんの最後と、私の最後が重なり合う。なんだか、とてもロマンチックなことのように感じた。

「危ない!!」

 耳をつんざくような叫び声が聞こえ、私の体は誰かによって引き寄せられた。車は私の目の前を通り過ぎて行く。

「何してるんですか!」

 私を助けたのは、初老の男だった。彼は汚れたツナギを着て、疲れたような顔をしている。

 なんで邪魔をするんだ。これでやっと、優太くんのところに行けるかもしれないと思ったのに。

「あれ、もしかして……安達、さんですか?」

 彼は私の顔を覗き込んでから、私の名前を呼んだ。

「そう、ですけど……」

 どうやらこの人は私のことを知っているらしい。

「だったら……なおさら間に合ってよかった」

 彼はしわの刻まれた顔を更に歪めて、胸に手を当てて息を吐いた。

 話を聞くと、彼は昔私と同じ工事現場で働いていた男らしい。一度も話したことがないから、思い出せなかった。

「最近、知り合いが死んだんですよ。しかも、自らの手で、命を絶った」

 彼の瞳には、確かな力が宿っていた。

「僕にはね、病気で亡くなった息子がいるんだ。まだ一歳にもなっていなかったのにね。だから、自分から命を絶つ奴が大嫌いなんだよ。安達さんのことは止められたけど、あいつのことは止められなかった」

 彼は私に視線を向けて「君も知っている人物だよ」と続けた。私の知っている自殺しそうな人物。酔った頭でも、すぐに思い浮かんだ。彼だ。彼しかいない。

「蓮田直人くんっていたろ。彼ね、自殺しちゃったんだ。崖から飛び降りて、水死体になって見つかった」

「そう、なんですね」

「ああ、だからどうしたってわけじゃないけど、くれぐれも……馬鹿な真似はしないでくれよ」

  そう言い残してから、彼は私の前から消えた。

 それからまた、私はおぼつかない足取り夜の街を歩いた。蓮田さんは、もうこの世界にはいない。彼の話していたことを思い出す。

 ああ、きっと、蓮田さんは昏睡状態に陥らなかったんだろうなと、勝手に彼の最後を想像した。

『エモーション』を使って脳に衝撃を受けても、昏睡状態に陥らない人もいる。彼はきっと、陥らない側の人間だったのだ。

 私達の世界に神様なんていないんだと、私は思った。夢なんてものは、叶わないから夢なのだ。

 それを悟った彼はきっと、この世界から逃げ出した。

 その時、脳内に電流が走ったかのような感覚があった。私はとんでもないことを思いついてしまった。脳が、完全に興奮している。私はすぐに家に帰ってベッドに潜り込んだ。だが、全く寝付けない。私は絶対に、この計画を遂行しなければならない。そうすればきっと、優太くんとずーっと一緒にいられる。そうして私は、時が来るのを待った。優太くんの容態が安定しますようにと祈りながら、ひたすらに、待ち続けた。

 そうしてついに、千代田さんから仮装世界に行く許可を貰った。明日から、優太くんに会いに行ける。実に二ヶ月ぶりの仮想世界だ。

「あの……今回は何時間ほど仮想世界に入れるのでしょうか」

 静かな病室で、私は千代田さんに声をかけた。それが、私にとって最も重要な事柄だった。

「そうだね。一応、五時間ってところかな」
「なるほど。かなり増えたんですね」
「ああ……前よりは三時間も増えたんだ。今度こそ、無茶な真似はしないでね」
「分かってますよ」

 この時、私の胸にはどす黒い感情が渦を巻いていた。早く優太くんに会いたい。一刻も早く、彼に会いたい。

 明日、私は計画を実行する。それが成功すれば、私は自由だ。優太くんと、ずっと一緒にいることができる。

 翌日、病室に向かいヘッドギアを付ける。久しぶりの仮想世界ということもあり、千代田さんと何度も何度も注意事項の確認を行った。その間、優太くんから目を離してしまったのがいけなかったのだろう。

 私が仮想世界に入った時には優太くんは確信に迫っていた。