次の日も、私は優太くんに拒絶された。それでも、千代田さんに彼の居場所を聞いて、彼の元に向かうのを辞めようとは思えなかった。例え拒絶されたとしても、彼といる時間があるだけ良い。優太くんが私の前に立っている。優太くんが私を見てる。彼と、お喋りできている。そう思い込むことで、なんとか理性を保っていた。でも、そう言い聞かせるのも辛かった。辛くて辛くて、仕方なかった。
カラオケの夜のことだ。酔った勢いで、優太くんが私を振り払った。その拳が、私の頬に当たった。その瞬間、私の中で優太くんと母の彼氏とが重なってしまった。その瞬間、涙が溢れてきた。嫌だった。最悪だった。よりにもよって、優太くんとあの男とを重ねてしまったことが、何よりも嫌だった。
優太くんは、私を叩いたことを後悔しているように見えた。だけど、彼は私のことをきつく睨みつけている。それから先の記憶は、曖昧だ。彼に何か酷いことを言われたような気がするが、頭が真っ白になっていた私は何も覚えていなかった。不幸中の幸いだと、本気で思う。
それでも諦めずに次の日も彼の家に向かった。酔っ払って二日酔いになっているであろう彼が心配だったからだ。インターホンを押したが、彼は出てきてくれなかった。もう、完全に拒絶されてしまったのかもしれない。声をかけても、中から何の返事もない。私は一度家に戻ってから、二日酔いに効きそうな料理を作った。久しぶりの料理すぎて、何度か指先を切ってしまう。でも、そんなの気にしていられない。近くのコンビニでゼリー飲料などを買ってから、もう一度インターホンを押した。でも、また無視されたらどうしようと思うと、指が震えてしまう。怖くて、ボタンを押せない。結局私は、床にご飯を置いて帰ってしまった。
一時間ほど時間を潰してから、私はもう一度優太くんの家に向かった。アパートの階段を登っている間、ずっと怖かった。もし、料理に手をつけていなかったらどうしよう。食べていて欲しい。勇気を振り絞って彼の家の前まで行った。結局、料理は手を付けられずに玄関の前に置かれたままだった。震える手を抑えつけ、私はもう一度インターホンを押した。中から返事が返ってくることは、なかった。
私はなんとか自室に帰って、仮想世界から出た。千代田さんは私を心配そうに見つめている。彼女から優太くんのことを聞くことはできる。でも、怖くて聞くことができなかった。彼が私をどんな風に思っているのかなんて、決まりきっているからだ。
その日の夕方、もう一度私は仮想世界に入り、彼の家に向かった。彼の分の夕飯を作り、もう一度インターホンを押す。返事は、もちろんなかった。ドアの前に夕飯を置き、私は自室に戻り仮想世界から出た。
現実世界に戻ると、私は泣いていた。眠りながら、涙を流していた。
「これは……どういうことなんだ……」
その時だ。千代田さんの掠れた声が聞こえた。彼女はパソコンの前に座り、頭を抱えながら画面を凝視していた。
一体、どうしたのだろう。だが、今の私に人のことを気にする余裕などなかった。彼に嫌われている。彼に憎まれている。これ以上、その状況に耐えなければならないのが辛かった。
私は涙を拭うこともせずに、ヘッドギアを外してベッドから降りた。今も眠り続ける優太くんに視線を向けた。彼は今、夢の中で何を思っているのだろうか。そんなの知りたくもない。どうせ、どうやったら私が諦めるのかを必死に考えているんだ。そう思うと、更に悲しい。
そんな私の様子に気が付いたのか、千代田さんが振り返った。
「来夏さん」
彼女の顔を見て、私は更に泣いた。堤防が決壊したかのように、涙は全く止まってくれない。
最初は、優太くんに手を振り払われた。次は頬を打たれた。最後には、視界にすら入れてもらえなかった。それら全てが、私の脳内を覆い尽くして離れてくれない。
まだたった三回しか彼のところに行っていない。たった三回、彼に拒絶されただけだ。だが、私にとってそれは「だけ」などではない。
その三回の拒絶が、私にとっては死ぬことよりも辛いのだ。
「千代田さん……私、苦しいです……これ以上彼から憎まれるのは、恨まれるのは、嫌です……耐えられません」
これは千代田さんから忠告されていたことだ。私はそれでも頑張るつもりでいた。だけど、ここまで苦しいなんて、予想していなかった。
「私、今まで頑張ってきました。優太くんに会う為に、死ぬ程の思いをしてここまで来ました。でも、その結果がこれですよ……私、もう嫌だ。もう、限界なんです……これ以上彼からあの眼差しで睨まれるのは、辛いんです」
今まで散々辛い思いをしてきた。頑張って、頑張って、頑張り続けてきた。
その結果が、これだ。もう無理だ。もう限界だ。私はもう、これ以上傷付きたくない。
「もう、私、諦めてもいいです……」
そんな私のことを、千代田さんは不安そうな表情で見ていた。彼女は一度手のひらで顔を覆った後に、パソコン画面に視線を移す。そこで眉間に皺を寄せ、もう一度私を見た。
「来夏さん。私は貴女が頑張っていることを知ってる。その努力は、私の想像をはるかに超えるものだという事も理解してるよ」
千代田さんは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべてから、続けた。
「その上で、言わせてもらうよ。まだ、頑張って。諦めるのは、まだ早いよ」
「でも……」
「でも、じゃないんだよ」
千代田さんは声を張り上げた。
「医師から聞いたでしょう? 越生さんは、いつ容態が悪化してもおかしくない状態なんだよ。厳しいことを言うようだけど、『エモーション』を使った患者が死んだ例が、今までに何件もあったのを知っているだろう?
もし、明日越生さんが死んでしまったら、君はどうする?」
彼女の言葉に、私は押し黙ってしまった。
「来夏さん。諦めるという選択をするのは簡単じゃない。今まで積み上げてきたものを、全て壊してしまうんだから、簡単なわけがない。だからこそ、そんな道を選ぼうとしてる来夏さんの辛さは、分かるよ」
彼女の声は、とても優しい。千代田さんは私の肩をギュッと掴んで、柔らかな笑みを浮かべた。
「でも、諦める勇気があるなら、挑戦し続ける勇気だってあるはずだよ」
その言葉は不思議な暖かさを含んでいて、私の脳に染み渡る。まるで、その暖かさが血液に乗って全身を巡っているかのようだった。そのくらい、暖かかった。
私はもう一度、ベッドで眠る優太くんを見た。
優太くんは、いつ死ぬか分からない。ここで諦めたら、私は一生後悔する。だって私は、彼とこの四年間をやり直したくてここまで頑張って来たんだから。
「千代田さん……ありがとうございます……」
私は今、とんでもない過ちを犯すところだった。まだだ。諦めるには、まだ早い。ここで諦めるのは、四年前頑張ってきた私への冒涜だ。
胸に残った微かな勇気を感じながら、私は病室を後にした。
☆★☆★☆★
翌日、私は、本当に幸せな気持ちに包まれていた。彼が始めて自分からドアを開けてくれたからだ。たったそれだけのことなのに、涙が溢れて止まらなかった。本当はこんな姿を見せたい訳じゃないのに。涙は止まらない。今日はなんだか素晴らしい日になる気がする。その時、私にはそんな予感があった。
でも結局、物事は思った通りに進んでくれない。
優太くんに腕の傷を指摘された時、私の胸は張り裂けそうだった。アームウォーマーに視線を落としながら、腕に刻まれた生々しい傷跡を思い出す。できれば、これには触れないで欲しかった。
「腕を出しれば、偽物だって確定してたんだけどな」
優太くんは試すように私を見ている。
「酷いね。この傷を見せれば私が本物の来夏だって信じてくれる? だったら、見してあげてもいいよ」
本当は、絶対に見せたくなんかなかった。他の誰でもない、優太くんだからこそ、この傷跡は見せたくなかった。でも、それで信じてくれるのなら。それで昔のように戻ってくれるのなら。そう思い、彼を見た。
優太くんは、自分の発言を後悔しているようだった。彼は目を伏せて、苦しそうに眉を寄せている。
「いや、やっぱりいいよ。それを見たくらいで本物だと決めつけることはできない」
彼は絞り出したようなか細い声で呟いた。
「そっか」
これ以上この話題を引っ張りたくないと思い、勢いよく立ち上がった。
無理に明るい声を出して、話題をそらす。川で遊んでいる最中、私はずっと楽しもうと思っていた。これで優太くんと会うのは最後かもしれない。彼はいつこの世からいなくなるか分からないから。この瞬間を脳に刻みつけようと、必死になって遊んだ。
隣にいる優太くんが楽しんでくれているのかは分からない。でも、私は凄く楽しかった。BBQの最中、優太くんは周りにいる人達を眺めていた。彼はとても羨ましそうな顔をして、彼らを見ていた。なんだかそれが悔しくて、私は彼にサイダーを渡した。ずっとクーラーボックスの中に浸っていたサイダーはキンキンに冷えていて、指先がきゅっと引き締まる。
「なあ、なんでそんなに僕に優しくできるんだ」
突然、彼がそんなことを聞いてきた。
「僕は君に沢山の酷いことをしてきた。昔の来夏だって、僕がここまで酷いことをしていれば離れていったはずだ。なのにどうして、僕に構うんだ」
彼は心底分からないとでも言いたげな表情で私を見ていた。そんなの理由は一つに決まってる。
「私はただ、話せる時に優太くんと話していたい。いつか話せなくなる時が来るから。だから、内容はなんだっていいんだ。君の声が聞こえれば、なんだって」
優太くんがいつ消えるのかは分からない。だから、この時間を大切に胸に刻んでおこうと、そう、思った。
☆★☆★☆★
事件が起きたのは、その少し後のことだ。優太くんが、いきなり倒れた。体から魂が抜けたように、ふらりと、私の視界から消えた。
「ちょっと優太くん! 大丈夫!?」
一瞬、最悪の事態を想像した。優太くんの容態が悪化したのかもしれない。慌てて彼に駆け寄って、コンロの角に腕を引っ掛けてしまった。ビリッと音を立てて、アームウォーマーが破れた。誰にも見られたくない腕の傷が、露わになる。
「あっ」
気がついた時には、もう遅かった。周りにいた人々が、近づいて来る。彼らは私の腕の傷を見て、目を見開いていた。
私は逃げるように優太くんを背負った。彼の体はストーブのように熱い。
「来夏、腕が」
彼は掠れた声で、私の心配をしてくれた。良かった。彼は、まだ生きている。
私は従業員にコテージを借りて、彼をベッドに寝かせた。
その瞬間、安心してしまったのだろう。ズキッと、右側頭部が痛み出した。頭が、圧迫されるように痛い。私が仮想世界に入ってから、もう十時間以上経っていた。
――私の権限で時間の制限をかけたりするから。場合によっては、仮想世界に行く事を禁止する事もあるからね。
本当なら、今すぐ帰らないといけない。今すぐに帰ったとしても、遅いくらいだ。
辛そうに眠っている優太くんを見る。彼を置いて帰るなんて、出来るわけがない。もしものことがあったらどうしよう。そう思うと、動くことなんてできなかった。
でも、もし優太くんの世界に来ることを禁じられたとしたら。やっと、やっと優太くんと少しだけ心を通わせられたと思ったのに。
私は、究極の選択を迫られているのかもしれない。ダメだった。優太くんを置いて帰るなんて選択を、選べるはずがなかった。私は彼に解熱剤を飲ませてから、彼の頭の上にひたすらおしぼりを乗せた。
頭は割れるように痛く、まぶたを縫い付けるような眠気も取れない。それでも、私は必死になって彼の看病をした。
☆★☆★☆★
ズキッと痛む頭痛で目が覚めた。どうやら私は眠っていたようだ。優太くんの容態はどうなっているのだろう。視線を彷徨わせたところで、気がついた。私の手が、暖かい。下に視線を向けると、なぜか優太くんが私の手を握っていた。彼は空いた手で、目元を覆っている。
「ごめん、ごめんな、来夏……」
優太くんは、私の名前を呼びながら泣いていた。胸が、じわりと暖かくなっていく。彼の声が、私の頭に染み込む。それだけで、頭痛が和らいだような気がした。
――私は、優太くんに嫌われてなんかなかった。
そう思うだけで、どんなに嬉しいか。
私も寝たふりをしたまま、静かに泣いた。目尻からつーっと涙が溢れる。それは頬を伝って、彼の手に落ちた。彼はもう、眠っているらしかった。
☆★☆★☆★
優太くんの容態が安定したのを確認してから、書き置きを残してコテージから出た。頭痛が酷く意識は朦朧としていた。千代田さんから貰った緊急用のベルを使い、彼女に助けを求める。
私は近くのベンチに座ってぐったりと休んでいた。虫の鳴き声と、川の流れる音だけが聞こえる。近くの川に目を向けると、月がクラゲのように水面に浮かんでいた。酷い頭痛は治らなかったが、それだけで少し元気が出る。
ベルを鳴らすと、深夜だというのに、彼女は慌てて駆けつけてくれた。
「全く。十時間経っても出てこないから、めちゃくちゃ心配したよ」
彼女は怒りたそうな表情をしていたが、私の容体を見て言葉をグッと飲み込んでいた。
「少し待ってな。今すぐ帰るから」
彼女の背中は、とても頼もしかった。そんな彼女に連れられ、なんとか仮想世界から抜け出す。ベッドから這い上がると、脳を締め付けられるような鈍い痛みが襲って来る。
「ああいう時は、もっと早くベルを鳴らしていいんだからね」
ヘッドギアを外しながら、千代田さんが唇を尖らせていた。彼女はベッドギアを付けてわざわざ仮想世界にまで来てくれたのだ。
千代田さんに小言を言われてしまった。でも、そんなのは気にならなかった。頭痛だって、どうでも良かった。それ以上に、私の心はとても満たされていた。優太くんが、私の手を握ってくれていた。私の為に、涙を流してくれていた。その事実が、たまらなく嬉しい。勇気を出して良かったと、本当に思った。
だけど、心の片隅に、小さく暗雲が立ち込めていた。
――私の権限で時間の制限をかけたりするから。場合によっては、仮想世界に行く事を禁止することもあるからね。
私は、仮想世界に行くことを禁じられてしまうのだろうか。
そんな私の思考を見透かしたように、千代田さんに名前を呼ばれた。視線だけを彼女の方に向けると、千代田さんはパソコン画面を見ていた。
「今記録を確認したよ。六時間。六時間オーバーだ」
彼女は額に手を当てて、俯いている。私はたまらず聞いてしまった。
「私、これからどうなるんでしょうか。もしかして、もう……これ以上……仮想世界には……」
「いや、それは検査をしてみないと分からない。とにかく、検査結果が出るまでお預けだ」
「そう……ですか……分かりました」
それから少し彼女と話してから私は病室を後にした。扉を閉める瞬間、優太くんの寝顔が視界に入る。大丈夫。きっとすぐに、優太くんに会えるはずだ。だって、今日は上手くいったんだから。大丈夫に決まってる。
☆★☆★☆★
それから五日後に検査をすることになった。検査結果が出たのは、その翌日だった。私は祈るような気持ちで、病院に向かい、待合室で待った。この一週間、生きた心地がしなかった。私の番号が呼ばれ、診察室へと向かう。検査結果を聞くまでの間、ああ、これがきっと判決を言い渡される被告の気分なんだなあ、と訳の分からないことを考えていた。そうでもしないと、心が持たない。
結果から言うと、私の脳には少しばかりダメージが残っていた。
担当した医師が言うには「安静にしていれば治るでしょう。一ヶ月ほど、時間を置いてください」との事だった。
頭の中が真っ白になった。後一ヶ月。その間、私は優太くんに会うことが出来ない。そんなの嫌だった。そんなのは信じたくなかった。
私はふらふらした足取りで千代田さんの元へ向かった。病室に入ると、千代田さんは難しい顔をしてパソコンを眺めていた。だが、すぐに私に気が付き、私の表情を見て察してくれたのだろう。彼女は無言でそっと背中を撫でてくれた。
私は千代田さんに検査結果の紙を渡してから、優太くんのベッドに顔を埋めた。そうして、彼の手を握って泣いた。声を押し殺して泣いた。
「千代田さん……私、もう二度と優太くんに会えないかもしれない……」
そう思うと、身体中が震えた。怖くて怖くてたまらない。後一ヶ月。私達にどけだけの時間が残されているのかも分からない。そんな状況で、一ヶ月もの時間を無駄に過ごす事は、地獄に等しかった。
「来夏さん……私から君に……提案がある」
千代田さんの声は、震えていた。
「なんですか?」
「正直に言うよ。正直に言うとね、私は君に肩入れをしている。やっと、君達の関係が良い方へ転がり始めたんだ。それを、こんなところで……」
ベッドから顔を上げると、彼女は険しい顔つきで、検査結果を握り締めていた。
「この検査結果から推測するに、一ヶ月は安静にしないといけない。だけど、そうじゃない方法もあるんだ」
彼女の熱のこもった声が、私の鼓膜を叩いた。瞬間、全身が熱く燃えたかのような感覚があった。
「それ! 詳しく聞かせてください!!」
私がそう叫ぶと、千代田さんは指を四本立てた。
「四時間。一日四時間だ」
彼女の透き通るような声が、病室に響いた。
「仮想世界に入ることによって生じる負担を減らしていく。そういうアプローチの仕方も、この検査結果なら出来なくもない」
だが、彼女は不安そうな表情で私を見た。
「だけどこれにはリスクもあるんだ。少しずつ、脳にダメージが蓄積されていく。入っていられる時間も、どんどん減っていくだろう」
次に千代田さんは指を二つ立てた。
「だから来夏さんには選択肢が二つある。一つ目が、一ヶ月間安静にしていること。二つ目が、一日四時間というルールを守って越生くんに会うこと。二つ目だけど、これは君の脳の状態によって時間がどんどん減っていく可能性がある。最終的には、一時間や三十分程度になってしまうかもしれない」
千代田さんは一度息を吸ってから続けた。
「その代わり、一つ目を選べば一ヶ月休む代わりにまた前のような生活を送れる」
その選択は私にとって究極のものだった。時間が減っていくのなら、優太くんと共に出来ることが限られてくる。だが、今の流れを手放すことも出来なかった。そして何よりも私は、あの夏祭りに行きたかった。今を逃せば、次にいつ夏祭りに行けるのか分からない。もしかしたら、もう永遠に夏祭りには行けないかもしれない。それだけは、嫌だった。お守りを、何としてでも手に入れたかった。どうしても、花火を優太くんと一緒に見たかった。
「わ、分かりました。四時間……四時間で良いです」
そうして私は破滅への道を進んで行く。
カラオケの夜のことだ。酔った勢いで、優太くんが私を振り払った。その拳が、私の頬に当たった。その瞬間、私の中で優太くんと母の彼氏とが重なってしまった。その瞬間、涙が溢れてきた。嫌だった。最悪だった。よりにもよって、優太くんとあの男とを重ねてしまったことが、何よりも嫌だった。
優太くんは、私を叩いたことを後悔しているように見えた。だけど、彼は私のことをきつく睨みつけている。それから先の記憶は、曖昧だ。彼に何か酷いことを言われたような気がするが、頭が真っ白になっていた私は何も覚えていなかった。不幸中の幸いだと、本気で思う。
それでも諦めずに次の日も彼の家に向かった。酔っ払って二日酔いになっているであろう彼が心配だったからだ。インターホンを押したが、彼は出てきてくれなかった。もう、完全に拒絶されてしまったのかもしれない。声をかけても、中から何の返事もない。私は一度家に戻ってから、二日酔いに効きそうな料理を作った。久しぶりの料理すぎて、何度か指先を切ってしまう。でも、そんなの気にしていられない。近くのコンビニでゼリー飲料などを買ってから、もう一度インターホンを押した。でも、また無視されたらどうしようと思うと、指が震えてしまう。怖くて、ボタンを押せない。結局私は、床にご飯を置いて帰ってしまった。
一時間ほど時間を潰してから、私はもう一度優太くんの家に向かった。アパートの階段を登っている間、ずっと怖かった。もし、料理に手をつけていなかったらどうしよう。食べていて欲しい。勇気を振り絞って彼の家の前まで行った。結局、料理は手を付けられずに玄関の前に置かれたままだった。震える手を抑えつけ、私はもう一度インターホンを押した。中から返事が返ってくることは、なかった。
私はなんとか自室に帰って、仮想世界から出た。千代田さんは私を心配そうに見つめている。彼女から優太くんのことを聞くことはできる。でも、怖くて聞くことができなかった。彼が私をどんな風に思っているのかなんて、決まりきっているからだ。
その日の夕方、もう一度私は仮想世界に入り、彼の家に向かった。彼の分の夕飯を作り、もう一度インターホンを押す。返事は、もちろんなかった。ドアの前に夕飯を置き、私は自室に戻り仮想世界から出た。
現実世界に戻ると、私は泣いていた。眠りながら、涙を流していた。
「これは……どういうことなんだ……」
その時だ。千代田さんの掠れた声が聞こえた。彼女はパソコンの前に座り、頭を抱えながら画面を凝視していた。
一体、どうしたのだろう。だが、今の私に人のことを気にする余裕などなかった。彼に嫌われている。彼に憎まれている。これ以上、その状況に耐えなければならないのが辛かった。
私は涙を拭うこともせずに、ヘッドギアを外してベッドから降りた。今も眠り続ける優太くんに視線を向けた。彼は今、夢の中で何を思っているのだろうか。そんなの知りたくもない。どうせ、どうやったら私が諦めるのかを必死に考えているんだ。そう思うと、更に悲しい。
そんな私の様子に気が付いたのか、千代田さんが振り返った。
「来夏さん」
彼女の顔を見て、私は更に泣いた。堤防が決壊したかのように、涙は全く止まってくれない。
最初は、優太くんに手を振り払われた。次は頬を打たれた。最後には、視界にすら入れてもらえなかった。それら全てが、私の脳内を覆い尽くして離れてくれない。
まだたった三回しか彼のところに行っていない。たった三回、彼に拒絶されただけだ。だが、私にとってそれは「だけ」などではない。
その三回の拒絶が、私にとっては死ぬことよりも辛いのだ。
「千代田さん……私、苦しいです……これ以上彼から憎まれるのは、恨まれるのは、嫌です……耐えられません」
これは千代田さんから忠告されていたことだ。私はそれでも頑張るつもりでいた。だけど、ここまで苦しいなんて、予想していなかった。
「私、今まで頑張ってきました。優太くんに会う為に、死ぬ程の思いをしてここまで来ました。でも、その結果がこれですよ……私、もう嫌だ。もう、限界なんです……これ以上彼からあの眼差しで睨まれるのは、辛いんです」
今まで散々辛い思いをしてきた。頑張って、頑張って、頑張り続けてきた。
その結果が、これだ。もう無理だ。もう限界だ。私はもう、これ以上傷付きたくない。
「もう、私、諦めてもいいです……」
そんな私のことを、千代田さんは不安そうな表情で見ていた。彼女は一度手のひらで顔を覆った後に、パソコン画面に視線を移す。そこで眉間に皺を寄せ、もう一度私を見た。
「来夏さん。私は貴女が頑張っていることを知ってる。その努力は、私の想像をはるかに超えるものだという事も理解してるよ」
千代田さんは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべてから、続けた。
「その上で、言わせてもらうよ。まだ、頑張って。諦めるのは、まだ早いよ」
「でも……」
「でも、じゃないんだよ」
千代田さんは声を張り上げた。
「医師から聞いたでしょう? 越生さんは、いつ容態が悪化してもおかしくない状態なんだよ。厳しいことを言うようだけど、『エモーション』を使った患者が死んだ例が、今までに何件もあったのを知っているだろう?
もし、明日越生さんが死んでしまったら、君はどうする?」
彼女の言葉に、私は押し黙ってしまった。
「来夏さん。諦めるという選択をするのは簡単じゃない。今まで積み上げてきたものを、全て壊してしまうんだから、簡単なわけがない。だからこそ、そんな道を選ぼうとしてる来夏さんの辛さは、分かるよ」
彼女の声は、とても優しい。千代田さんは私の肩をギュッと掴んで、柔らかな笑みを浮かべた。
「でも、諦める勇気があるなら、挑戦し続ける勇気だってあるはずだよ」
その言葉は不思議な暖かさを含んでいて、私の脳に染み渡る。まるで、その暖かさが血液に乗って全身を巡っているかのようだった。そのくらい、暖かかった。
私はもう一度、ベッドで眠る優太くんを見た。
優太くんは、いつ死ぬか分からない。ここで諦めたら、私は一生後悔する。だって私は、彼とこの四年間をやり直したくてここまで頑張って来たんだから。
「千代田さん……ありがとうございます……」
私は今、とんでもない過ちを犯すところだった。まだだ。諦めるには、まだ早い。ここで諦めるのは、四年前頑張ってきた私への冒涜だ。
胸に残った微かな勇気を感じながら、私は病室を後にした。
☆★☆★☆★
翌日、私は、本当に幸せな気持ちに包まれていた。彼が始めて自分からドアを開けてくれたからだ。たったそれだけのことなのに、涙が溢れて止まらなかった。本当はこんな姿を見せたい訳じゃないのに。涙は止まらない。今日はなんだか素晴らしい日になる気がする。その時、私にはそんな予感があった。
でも結局、物事は思った通りに進んでくれない。
優太くんに腕の傷を指摘された時、私の胸は張り裂けそうだった。アームウォーマーに視線を落としながら、腕に刻まれた生々しい傷跡を思い出す。できれば、これには触れないで欲しかった。
「腕を出しれば、偽物だって確定してたんだけどな」
優太くんは試すように私を見ている。
「酷いね。この傷を見せれば私が本物の来夏だって信じてくれる? だったら、見してあげてもいいよ」
本当は、絶対に見せたくなんかなかった。他の誰でもない、優太くんだからこそ、この傷跡は見せたくなかった。でも、それで信じてくれるのなら。それで昔のように戻ってくれるのなら。そう思い、彼を見た。
優太くんは、自分の発言を後悔しているようだった。彼は目を伏せて、苦しそうに眉を寄せている。
「いや、やっぱりいいよ。それを見たくらいで本物だと決めつけることはできない」
彼は絞り出したようなか細い声で呟いた。
「そっか」
これ以上この話題を引っ張りたくないと思い、勢いよく立ち上がった。
無理に明るい声を出して、話題をそらす。川で遊んでいる最中、私はずっと楽しもうと思っていた。これで優太くんと会うのは最後かもしれない。彼はいつこの世からいなくなるか分からないから。この瞬間を脳に刻みつけようと、必死になって遊んだ。
隣にいる優太くんが楽しんでくれているのかは分からない。でも、私は凄く楽しかった。BBQの最中、優太くんは周りにいる人達を眺めていた。彼はとても羨ましそうな顔をして、彼らを見ていた。なんだかそれが悔しくて、私は彼にサイダーを渡した。ずっとクーラーボックスの中に浸っていたサイダーはキンキンに冷えていて、指先がきゅっと引き締まる。
「なあ、なんでそんなに僕に優しくできるんだ」
突然、彼がそんなことを聞いてきた。
「僕は君に沢山の酷いことをしてきた。昔の来夏だって、僕がここまで酷いことをしていれば離れていったはずだ。なのにどうして、僕に構うんだ」
彼は心底分からないとでも言いたげな表情で私を見ていた。そんなの理由は一つに決まってる。
「私はただ、話せる時に優太くんと話していたい。いつか話せなくなる時が来るから。だから、内容はなんだっていいんだ。君の声が聞こえれば、なんだって」
優太くんがいつ消えるのかは分からない。だから、この時間を大切に胸に刻んでおこうと、そう、思った。
☆★☆★☆★
事件が起きたのは、その少し後のことだ。優太くんが、いきなり倒れた。体から魂が抜けたように、ふらりと、私の視界から消えた。
「ちょっと優太くん! 大丈夫!?」
一瞬、最悪の事態を想像した。優太くんの容態が悪化したのかもしれない。慌てて彼に駆け寄って、コンロの角に腕を引っ掛けてしまった。ビリッと音を立てて、アームウォーマーが破れた。誰にも見られたくない腕の傷が、露わになる。
「あっ」
気がついた時には、もう遅かった。周りにいた人々が、近づいて来る。彼らは私の腕の傷を見て、目を見開いていた。
私は逃げるように優太くんを背負った。彼の体はストーブのように熱い。
「来夏、腕が」
彼は掠れた声で、私の心配をしてくれた。良かった。彼は、まだ生きている。
私は従業員にコテージを借りて、彼をベッドに寝かせた。
その瞬間、安心してしまったのだろう。ズキッと、右側頭部が痛み出した。頭が、圧迫されるように痛い。私が仮想世界に入ってから、もう十時間以上経っていた。
――私の権限で時間の制限をかけたりするから。場合によっては、仮想世界に行く事を禁止する事もあるからね。
本当なら、今すぐ帰らないといけない。今すぐに帰ったとしても、遅いくらいだ。
辛そうに眠っている優太くんを見る。彼を置いて帰るなんて、出来るわけがない。もしものことがあったらどうしよう。そう思うと、動くことなんてできなかった。
でも、もし優太くんの世界に来ることを禁じられたとしたら。やっと、やっと優太くんと少しだけ心を通わせられたと思ったのに。
私は、究極の選択を迫られているのかもしれない。ダメだった。優太くんを置いて帰るなんて選択を、選べるはずがなかった。私は彼に解熱剤を飲ませてから、彼の頭の上にひたすらおしぼりを乗せた。
頭は割れるように痛く、まぶたを縫い付けるような眠気も取れない。それでも、私は必死になって彼の看病をした。
☆★☆★☆★
ズキッと痛む頭痛で目が覚めた。どうやら私は眠っていたようだ。優太くんの容態はどうなっているのだろう。視線を彷徨わせたところで、気がついた。私の手が、暖かい。下に視線を向けると、なぜか優太くんが私の手を握っていた。彼は空いた手で、目元を覆っている。
「ごめん、ごめんな、来夏……」
優太くんは、私の名前を呼びながら泣いていた。胸が、じわりと暖かくなっていく。彼の声が、私の頭に染み込む。それだけで、頭痛が和らいだような気がした。
――私は、優太くんに嫌われてなんかなかった。
そう思うだけで、どんなに嬉しいか。
私も寝たふりをしたまま、静かに泣いた。目尻からつーっと涙が溢れる。それは頬を伝って、彼の手に落ちた。彼はもう、眠っているらしかった。
☆★☆★☆★
優太くんの容態が安定したのを確認してから、書き置きを残してコテージから出た。頭痛が酷く意識は朦朧としていた。千代田さんから貰った緊急用のベルを使い、彼女に助けを求める。
私は近くのベンチに座ってぐったりと休んでいた。虫の鳴き声と、川の流れる音だけが聞こえる。近くの川に目を向けると、月がクラゲのように水面に浮かんでいた。酷い頭痛は治らなかったが、それだけで少し元気が出る。
ベルを鳴らすと、深夜だというのに、彼女は慌てて駆けつけてくれた。
「全く。十時間経っても出てこないから、めちゃくちゃ心配したよ」
彼女は怒りたそうな表情をしていたが、私の容体を見て言葉をグッと飲み込んでいた。
「少し待ってな。今すぐ帰るから」
彼女の背中は、とても頼もしかった。そんな彼女に連れられ、なんとか仮想世界から抜け出す。ベッドから這い上がると、脳を締め付けられるような鈍い痛みが襲って来る。
「ああいう時は、もっと早くベルを鳴らしていいんだからね」
ヘッドギアを外しながら、千代田さんが唇を尖らせていた。彼女はベッドギアを付けてわざわざ仮想世界にまで来てくれたのだ。
千代田さんに小言を言われてしまった。でも、そんなのは気にならなかった。頭痛だって、どうでも良かった。それ以上に、私の心はとても満たされていた。優太くんが、私の手を握ってくれていた。私の為に、涙を流してくれていた。その事実が、たまらなく嬉しい。勇気を出して良かったと、本当に思った。
だけど、心の片隅に、小さく暗雲が立ち込めていた。
――私の権限で時間の制限をかけたりするから。場合によっては、仮想世界に行く事を禁止することもあるからね。
私は、仮想世界に行くことを禁じられてしまうのだろうか。
そんな私の思考を見透かしたように、千代田さんに名前を呼ばれた。視線だけを彼女の方に向けると、千代田さんはパソコン画面を見ていた。
「今記録を確認したよ。六時間。六時間オーバーだ」
彼女は額に手を当てて、俯いている。私はたまらず聞いてしまった。
「私、これからどうなるんでしょうか。もしかして、もう……これ以上……仮想世界には……」
「いや、それは検査をしてみないと分からない。とにかく、検査結果が出るまでお預けだ」
「そう……ですか……分かりました」
それから少し彼女と話してから私は病室を後にした。扉を閉める瞬間、優太くんの寝顔が視界に入る。大丈夫。きっとすぐに、優太くんに会えるはずだ。だって、今日は上手くいったんだから。大丈夫に決まってる。
☆★☆★☆★
それから五日後に検査をすることになった。検査結果が出たのは、その翌日だった。私は祈るような気持ちで、病院に向かい、待合室で待った。この一週間、生きた心地がしなかった。私の番号が呼ばれ、診察室へと向かう。検査結果を聞くまでの間、ああ、これがきっと判決を言い渡される被告の気分なんだなあ、と訳の分からないことを考えていた。そうでもしないと、心が持たない。
結果から言うと、私の脳には少しばかりダメージが残っていた。
担当した医師が言うには「安静にしていれば治るでしょう。一ヶ月ほど、時間を置いてください」との事だった。
頭の中が真っ白になった。後一ヶ月。その間、私は優太くんに会うことが出来ない。そんなの嫌だった。そんなのは信じたくなかった。
私はふらふらした足取りで千代田さんの元へ向かった。病室に入ると、千代田さんは難しい顔をしてパソコンを眺めていた。だが、すぐに私に気が付き、私の表情を見て察してくれたのだろう。彼女は無言でそっと背中を撫でてくれた。
私は千代田さんに検査結果の紙を渡してから、優太くんのベッドに顔を埋めた。そうして、彼の手を握って泣いた。声を押し殺して泣いた。
「千代田さん……私、もう二度と優太くんに会えないかもしれない……」
そう思うと、身体中が震えた。怖くて怖くてたまらない。後一ヶ月。私達にどけだけの時間が残されているのかも分からない。そんな状況で、一ヶ月もの時間を無駄に過ごす事は、地獄に等しかった。
「来夏さん……私から君に……提案がある」
千代田さんの声は、震えていた。
「なんですか?」
「正直に言うよ。正直に言うとね、私は君に肩入れをしている。やっと、君達の関係が良い方へ転がり始めたんだ。それを、こんなところで……」
ベッドから顔を上げると、彼女は険しい顔つきで、検査結果を握り締めていた。
「この検査結果から推測するに、一ヶ月は安静にしないといけない。だけど、そうじゃない方法もあるんだ」
彼女の熱のこもった声が、私の鼓膜を叩いた。瞬間、全身が熱く燃えたかのような感覚があった。
「それ! 詳しく聞かせてください!!」
私がそう叫ぶと、千代田さんは指を四本立てた。
「四時間。一日四時間だ」
彼女の透き通るような声が、病室に響いた。
「仮想世界に入ることによって生じる負担を減らしていく。そういうアプローチの仕方も、この検査結果なら出来なくもない」
だが、彼女は不安そうな表情で私を見た。
「だけどこれにはリスクもあるんだ。少しずつ、脳にダメージが蓄積されていく。入っていられる時間も、どんどん減っていくだろう」
次に千代田さんは指を二つ立てた。
「だから来夏さんには選択肢が二つある。一つ目が、一ヶ月間安静にしていること。二つ目が、一日四時間というルールを守って越生くんに会うこと。二つ目だけど、これは君の脳の状態によって時間がどんどん減っていく可能性がある。最終的には、一時間や三十分程度になってしまうかもしれない」
千代田さんは一度息を吸ってから続けた。
「その代わり、一つ目を選べば一ヶ月休む代わりにまた前のような生活を送れる」
その選択は私にとって究極のものだった。時間が減っていくのなら、優太くんと共に出来ることが限られてくる。だが、今の流れを手放すことも出来なかった。そして何よりも私は、あの夏祭りに行きたかった。今を逃せば、次にいつ夏祭りに行けるのか分からない。もしかしたら、もう永遠に夏祭りには行けないかもしれない。それだけは、嫌だった。お守りを、何としてでも手に入れたかった。どうしても、花火を優太くんと一緒に見たかった。
「わ、分かりました。四時間……四時間で良いです」
そうして私は破滅への道を進んで行く。