一瞬の浮遊感があり、真っ暗な世界を永遠に落下して行くような感覚があった。どこまでもどこまでも落ちて行くと思ったところで、突然、機械音がした。気がつくと、ベッドの上に眠っていた。

 ヘッドギアを外して立ち上がる。そこは、見知らぬ一室だった。部屋中には、優太くんの病室と同じ機器が置かれている。

「おーい。こっちこっち」

 声の方に振り向くと、そこには巨大なディスプレイに映る千代田さんの姿があった。

 ディスプレイの向こう側にベッドで眠る私が見える。今、立っている私は本物の私ではない。

 本当に仮想世界に入ったんだという実感が、ひしひしと湧いてきた。現実世界の私は眠っていて、今ここにいる私は夢を見ているに過ぎない。本当にリアルな世界に、感動すら覚えた。

「そうだ。越生くんは今、駅前の居酒屋で蓮田さんと飲んでるよ。会いたいなら、そっち方面に向かうのもありかもしれない」
「あ、ありがとうございます」

 千代田さんに居酒屋の名前を教えてもらい、私はすぐにスマホでその場所を調べた。

 家から居酒屋までの経路を確認してから、私は家を出た。この時点で、千代田さんと連絡は取れなくなる。何か用があるなら、ベルを鳴らす必要があるのだ。

 私は居酒屋に向かう途中でスーパーに寄って買い物をした。優太くんと一緒に、私の誕生日を祝いたかった。一緒に、久しぶりにケーキを食べたい。ケーキの材料を買ってから、私は居酒屋へと向かった。

 だが、二人で飲んでいる彼らの邪魔をする気にはなれなかった。蓮田さんの気持ちを考えれば、尚更居酒屋に行くことは躊躇われた。私は少し歩いて家の近くにまで戻ることにした。道の端に、用水路が流れている。その用水路を見て、時間を潰そう。街灯の灯りに照らされて、水面が光っている。小さな魚の群れが、光に向かって泳いでいた。

 こういう用水路を見ると、いつか優太くんと一緒に見たコイ達を思い出す。都会の用水路に、コイなんて泳いでいない。早くあの頃をやり直したい。そう、思った時だ。

 私の前に、優太くんが立っていた。優太くんは欄干に肘を乗せて、用水路を眺めている。

 体が震えた。胸がなんだかくすぐったくて、油断したら涙さえ流してしまいそうだった。

 私は目一杯の笑顔を作って、彼に近づいて行った。久しぶりに見せる顔は、やっぱり笑顔が良い。一番可愛い顔を、見てもらいたい。

 優太くんに一歩近づく度に、私の胸は高鳴った。

 私は、この時をずーっと待っていた。ずっと、ずーーーっと優太くんに会いたかった。彼の隣を歩きたい。彼とお喋りしたい。彼に抱きしめてもらいたい。今までずっと焦がれていた場所が、もう、目の前にある。

 私は優太くんの手に、自分の手のひらを重ねた。彼の手は、ゴツゴツしていて大きい。私の心臓はどきどきと暴れまわっていた。勇気を振り絞って「優太くん」と、あの頃と同じ声で呼ぶ。

 名前を呼ばれた優太くんは動揺しているようだった。彼は私の手を見てから、私の方を見る。

 優太くんと、目が合った。優太くんは私を見て、目を見開く。彼の瞳に、私が映っている。そう思うだけで、なんだか今までの全てが報われた気がした。私は凄く嬉しくて、精一杯の笑顔で彼を見た。

「やっとだ。やっと、会えたね」

 私はこの時を、ずっと待ち望んでいた。私の夢がやっと叶うと、そう、思っていた。

 でも、現実は非情だった。優太くんは荒い呼吸のまま、私の手を振り払った。

 咄嗟に「きゃっ」と叫んでしまう。

 頭の中が、真っ白になった。



 ――私は今、優太くんに拒絶された?



 じわじわと、現実が脳に染み込む。そう思うと、悲しくて悲しくてたまらない。覚悟していたはずなのに、その悲しみは私の身体中を駆け回り、心を汚していく。

「優太くん……」

 気づいた時には、縋り付くように彼の名前を呼んでいた。

 優太くんは、怯えたような目で私を見ている。

 辞めて。そんな目で、私を見ないで。私は優太くんに向かって手を伸ばした。彼は更に顔を歪めて、再び私の手を振り払った。そのまま、優太くんは私に背を向けて逃げるように走り出した。

 私は、しばらくその場に立ち尽くしていた。もう、泣き叫んでしまいたかった。

 これは、千代田さんに忠告されていたことだ。死んだ人間がいきなり現れるんだ。拒絶されるかもしれないよ。と、千代田さんには言われていた。

 でも、私は夢を見ていた。優太くんなら、私を受け入れてくれるんじゃないかと、期待していた。現実は、非情だというのに。

 初めから私がいる仮想世界を作れば良かったのか。偽物の安達来夏が優太くんと過ごして、私がその体を一瞬だけ乗っ取る。そう思ったが、やっぱりそれは嫌だ。彼の隣にいるのは、本物の私が良い。それに、偽物の安達来夏にもそれは悪い気がした。偽物だとしても、彼女の優太くんに対する気持ちは私と変わらないだろうから、それを乗っ取ってしまうのは申し訳なかった。

 優太くんに拒絶されたのは悲しい。今までの全部が否定されたような虚無感があった。でも、優太くんと会えた。彼が、私を見てくれた。諦めるには、まだ早い。死ぬ程の思いで、私はここまで来たんだ。

 私は絶対に、失われた時間を取り戻したい。今は、これで良い。

 震える拳を握りしめて、彼のマンションへと向かった。

 その後、私は結局マンションから追い出された。優太くんは私を偽物か何かだと勘違いしているようで、私に対して憎悪の眼差しを向けていた。彼に詰め寄られているうちに、私は泣いてしまった。彼が扉を閉めた後、私はこぼれ落ちる涙を止めることができなかった。その日は結局、そのまま自室に戻って、仮想世界から出た。

 現実に戻ると、和かな表情の千代田さんに声をかけられた。

「どうだった? 久しぶりに話せたかい?」

 何と返したらいいか分からなくて、私は無言でかぶりを振った。

 千代田さんは全てを察したのか、声を詰まらせた。ヘッドギアを外しながら、ベッドに眠る優太くんに視線を送る。彼のその姿を見ると、再び涙がこみ上げて来た。優太くんに拒絶されるのが、あんなに辛いとは思わなかった。暴力よりも、何よりも、悲しかった。

 だけどこれは当然の報いなのかもしれない。優太くんを地獄へ突き落としたのは、私なのだから。あの事故は、私のせいなのだから。

 でも、そうだとしても、私は優太くんの隣を歩きたい。彼と他愛もないお話がしたい。彼を抱きしめたい。彼に抱きしめてもらいたい。こんなところで、諦めるわけにはいなかった。

「あの、来夏さん……」
「ごめんなさい……ちょっと、そっとしておいてください……」

 ごめんなさい千代田さん。今は、誰とも話したくない。それだけ、ショックが大きかった。

 私は涙を拭ってから、病室を後にした。