「ねえ、サイダーの音って、聞いてるだけで涼しくなるよね」

 高校からの帰り道。汗で首にへばり付いた髪を耳にかけながら、来夏は言った。ふわりと、シャンプーの香りが漂う。

 瞬間、どきっとした。肩辺りまで伸びた髪も、二重のまぶたも、細い体も、全てがいつもの来夏と変わらない。でも、仕草一つでここまで魅力が増えるから驚きだ。

「そうなの? 僕にも聞かせてよ」

 その日は湿気が多く蒸し暑い一日だった。僕は胸にへばりついたワイシャツをパタパタと動かして、生ぬるい風を体へと送る。

「いいよ」

 彼女は持っていた缶を僕の耳元に近づけた。しゅわしゅわぱちぱちと、缶の中で炭酸が弾けている。だけど僕には、その涼しさが分からなかった。これを一気に飲み干して、炭酸が喉を刺激する瞬間を想像した方が涼しそうだ。

「どう? 涼しいでしょ?」

 来夏は首を傾げながら、にへへと笑っている。何と答えたもんかと、少し悩んだ。思考を巡らせながら視線を上に向けると、厚く灰色に染まった雲がこちらに迫ってきていた。遥か向こうの空では、雲の切れ間から美しい青空が覗いている。通り雨だろうか。

「ちょっと僕には分からないな。多分飲んだ方が普通に涼しい」

 迷った挙句、正直に答えた。

「えー?」

 来夏は困ったように目を細めた後、ニヤッと笑う。

優太(ゆうた)くんには分からないか。さては君、理系だな? 風鈴の音を聞いて涼しくなれないタイプだ」
「僕の現代文の成績は5だよ。テストも98点だった」
「その2点は?」
「漢字ミス」
「ダサいね」
「だろ」
「いくら現代文の成績が良くたって、サイダーの音で涼しくなれないようなら文系とは呼べないんだよ」

 来夏はケラケラ笑いながら、僕を小突いた。それは紛れもなく暴論だった。それじゃあ世の中から大半の文系は消えてしまう。

「はあ。本当、優太くんと一緒にいると楽しいなあ……」

 その時、一瞬だけ来夏の表情から笑顔が消えた。

「こんな時間が、ずっと続けばいいのにね」

 彼女は陰鬱な空を見上げている。その横顔は、雨に溶けてしまいそうなくらい儚く見えた。

「どうしたの?」
「へ? 別に何でもないけど?」

 嘘だ。絶対に何かを隠しているという確信があった。僕は直感的に彼女の腕に視線を移す。

「な、何?」

 彼女は一瞬だけ表情を強張らせて、右腕を隠すようにさすった。だが、すぐに笑顔を貼り付ける。

「もー。優太くんは心配性だなあ」

 首筋に浮かんだ汗を拭いながら、彼女は無理したように笑っている。

 彼女の汗の量は、人よりも多い。それは多分、彼女が夏だろうと長袖のワイシャツを着ているからだろう。彼女は絶対に半袖の服を着たがらない。それには訳があって、その訳を知っているからこそ、僕は彼女を放っておく事ができない。

 僕が彼女をじっと見つめていると、来夏は気まずそうに視線をそらし「本当に大丈夫だから……」と弱々しくこぼした。

 その時、一瞬視界が白んで、内臓を揺らすような音が轟いた。

「あ、雨だ」

 彼女は咄嗟に両腕を隠す。

「傘、持ってる?」

 僕がそう聞くと、彼女はちろりと舌を出しながら「忘れちゃった」と答えた。その笑顔にちらりと陰りが見えたのを、僕は見逃さなかった。いや、見逃せなかったのだと思う。

「結構降ってきたね」

 ポツポツとアスファルトに黒い斑点が増していく。空が激しく嘶き始めて、気が付けば雷雨になっていた。

 慌ててバッグを漁ったが、僕も傘を持っていなかった。僕達は小走りで近くのバス停まで向かい、雨宿りする事にした。

 バス停の軒下に着く頃には雨でぐっちょりと濡れていて、ワイシャツがぴったりと肌に貼りついて気持ち悪かった。

「あはは……降られちゃったね」

 来夏は両腕を抱き締めるようにベンチに座り込んだ。水をふんだんに含んだワイシャツから、彼女の素肌が透けている。それが彼女にとってどれだけ辛いことか、僕には分かる。

「そんなに見つめないでよ。欲情しちゃった?」
「そんな訳ないだろ」
「まあ、そうだよね……私なんかの体でさ」

 彼女は酷く悲しそうに笑った。

「いや、そういう訳じゃないんだけどさ……」
「なんだよ。やっぱりすけべじゃん」

 来夏はんべーっと舌を出してから、すぐに俯いてしまった。

「腕と背中は、見ないでよね。今、透けちゃってるから」

 普通の女の子ならここで下着とか気にするんだろうけどね、と来夏はおどけて笑う。その笑顔が、あんまりにも寂しそうだったから、思わず彼女を抱き締めたくなった。なっただけで、行動には移せない。

 彼女の体には、生々しい傷跡がいくつもある。

「また、殴られたの?」

 その問いかけに、彼女は目を細めながら頷いた。

「それだけ?」

 一瞬の沈黙の後、彼女は口を開く。

「後は、煙草かな」

 その言葉を聞いた時、腹の内側が震えた。きっと今、彼女の右腕には赤黒い円形の傷跡が色濃く残っているのだろう。

 彼女は日常的に、母親とその彼氏から虐待を受けている。僕は奴らのことが許せなかった。

「僕、行ってくるよ」

 自分にできる事などたかが知れている。だが、動かずにはいられなかった。

「辞めて!」

 来夏が叫んだ。

「行かないで優太くん」

 ぎゅっと、彼女が僕のワイシャツを掴んでいる。

「行ったらまた、優太くんが……」

 前に一度、来夏の家に乗り込んだ事がある。その時、僕は無すべもなく男に殴り倒され、家から放り出された。僕は弱い男だから、彼から一度殴られただけで足が震えて何もできなかった。そんな自分が大嫌いだった。

「それに……また優太くんが私の家に来たら……」

 僕が来夏の家から追い出された後、彼女は酷い暴力を受けたらしい。「誰にも言うなって言っただろ」と叫ばれ、何度も何度も殴られたという。

「そっか……そうだよな……」

 走り出そうとしていた足が、止まってしまった。こんな風に動きを止めてしまう自分が、女の子一人救えない自分が、本当に情け無かった。

 勇気が出る薬なんてものがこの世にあったなら、僕は喜んでそれを服用しているだろう。そんな事を考えてしまうくらいには、僕は臆病な人間だ。

「今回はいったい、何が原因で暴力を振るわれたんだ」

 質問した後で、その問いかけがいかに無駄なものかと気づいた。虐待をする奴に、理屈を求めてはいけない。どんな理由があろうとも、暴力を振るう事は許されないんだ。

「優太くん……ごめんね……」

 その時、突然来夏が謝った。彼女の声が震えていたから、僕は思わず顔を上げてしまった。来夏の瞳は赤く腫れている。頬を伝って落ちた涙が、雨水と一緒に弾けて消えた。

「どうしたのさ……なんで来夏が謝るんだ」
「ごめんね。ごめんねえ……」

 ついに来夏は両手で目を覆って泣きじゃくり出した。彼女の両腕を見てはいけない気がして、また視線をそらしてしまう。

「あのね、今年の夏休み、どこにも行けないかも知れないの……」

 しゃっくり混じりの声で、彼女は懸命に言葉を紡いでいく。

 彼女の視線は、僕のカバンに送られていた。正確には、カバンに付けられたお揃いのお守りに。

 ごめんね、ごめんねえ、と彼女は再び泣きじゃくってしまった。

 今年、僕と来夏はいっぱい出かけようと約束していた。海や川、山登りに温泉街。昔好きだった映画の撮影地なんかにも行く筈だった。その為に二人でアルバイトをして、お金を貯めていたんだ。彼女は夏休みに出かけるのを凄く楽しみにしていた。なのにいったい、何があったというのだろうか。

「バイトしてお金だっていっぱい溜めたじゃないか」

 そこまで言って、気が付いた。

「まさか……」

 嫌な想像が、脳裏をよぎる。来夏は辿々しく話し始めた。

「お母さんの彼氏なんだけど、ギャンブルに狂ってるんだ」

 彼女のその言葉を聞いて、僕の想像が現実味を帯び始める。

「私が夏休みの為に貯めてたお金なんだけどね。全部、あの人が勝手に使ってた……」

 呆然としている僕を見上げて、来夏は薄く微笑んだ。

「お金の管理はちゃんとしてた筈なんだけどね……私が学校行ってる間に、部屋を荒らしたみたいでさ……」

 彼女がどんどんと崩れていくように見えた。輪郭が曖昧になって、今にも溶けて無くなってしまいそうだった。

「暗証番号は、どうしたの? なんでバレたの?」
「優太くんの誕生日。私のじゃ危ないと思ったから、優太くんの誕生日にしたの。だから多分、お母さんも一枚噛んでるんだと思う」

 来夏は幼い頃、家で僕の話をしていたという。その時、僕の誕生日について話した事があったらしい。そのことが、裏目に出た。

「私、バカだよね。自分でも呆れちゃう。だから、本当ごめんね。約束、守れなくなっちゃった」

 来夏の体は、震えていた。

 なんで来夏が謝る必要があるんだ。謝るのは来夏じゃない。

「夏休み、いっぱい約束してたのにね。あぁ……お守り、今年こそ買いたかったのになあ……」

 来夏は震える指先で、僕のお守りを優しく撫でた。

 僕達の暮らす街では、毎年夏祭りが開催される。昨年、一緒に行った夏祭りで貰ったお守り。当時まだ中学生だった来夏にはお金が無かった。だから、満足に夏祭りで遊ぶ事が出来なかった。僕が両親から貰ったお金で一緒に遊ぼうと言ったが、彼女はそれを頑なに拒否した。

 その時僕達は、会場近くの神社のベンチに座って花火が始まるのを待っていた。そんな僕達に気付いた巫女さんが、僕達にお守りをくれたんだ。

 だから僕達は約束していた。来年こそは、一緒にお守りを買いに行こうと。

「私、嫌だよ。もう嫌……」

 来夏の心は、 今にも壊れそうだった。一生懸命貯めたお金を奪われて、母親にも裏切られて、心も体もボロボロにされて、これ以上、来夏を傷付けたくない。このままじゃダメだと、今更ながら思った。

「お母さんの事……信じたかった……」

 来夏のその言葉が、決定打だった。今しかないと、直感が言っていた。

 僕は彼女の手を掴んで、立ち上がった。考えるよりも先に、体が動いていた。

 軒下から出ると、鋭い光に視界が白んだ。思わず閉じてしまった目を恐る恐る開けると、そこには青空が広がっていた。

「わあ、晴れたね」

 空一面を覆っていた分厚い雲なんてどこにもない。空は晴れ渡っていた。雨に洗われたアスファルトが白く輝いている。

「さあ来夏。今度こそ、行こっか」

 僕はもう一度彼女の手を掴んで歩き出した。はやる気持ちを抑えられず、だんだんと速度が上がっていく。最終的に、僕は走っていた。

「ちょ、ちょっと、優太くん。どうしたの?」

 走りながら、来夏が困ったような声を上げた。

「どうしたって、逃げるんだよ。もう、来夏がこんな生活を送る必要なんて無い」

「逃げるって言ったって、当てがあるの?」

 当てなんて全くなかった。でも、事態が今より悪化するとも思えなかった。というより、どうにかなると勝手に思っていた。人生、生きていれば何とかなる。だから、辛い事から逃げて何が悪いというのだろう。

 その時、「あっ」と彼女が声をあげた。

「お守りが落ちちゃった」

 僕のバッグに付いていた大切なお守り。それが、 横断歩道の上に落ちている。

「なんか不吉だね」

 言いながら、数歩戻って、来夏がお守りを拾う。その時、なんだか無性に嫌な予感がした。

「ありがとね。私、嬉しかったよ。逃げるって言ってくれて」

 彼女は横断歩道の上に立ったまま、お守りをギュッと握り締めた。

「いつか絶対、このお守りを買いに行こうね。私、これからまた頑張るから。それで今度こそ、沢山遊びに行こ!」

 赤く腫らした瞳で精一杯笑いながら、彼女は叫んだ。それが、来夏の最期の言葉になった。

 直後、鈍い音と共に赤い塊が僕の前を通り過ぎた。

 それは一瞬の出来事だった。

 来夏の体は空中に跳ね飛ばされており、頭から地面に落ちた。視線を横に向けると、バンパーがへこみ、フロントガラスにひびの入った赤いファミリーカーが停車している。ドライバーは青白い顔をしながら車から飛び出して、倒れる来夏に駆け寄った。

 一目で、助からない事は理解できた。彼女の体が、ひしゃげてあり得ない方向に曲がっていたから。血の海が広がって、僕のローファーを汚した。

 空は、びっくりするくらいに綺麗だった。雨が上がったばかりだからか、空の端には虹が架かっている。