その日の夜は、最悪だった。僕は一晩中魘されていた。魘され続けた。右側頭部がすり潰されるかのような痛みが襲ってくる。いつもの幻聴も、今日ははっきりと聞こえた。
ピー、ピー、という機械音。泣き叫んでいる女の声。必死に謝っている女性の声。そうして、僕は気が付いた。この時、泣いていたのは来夏だ。そして、必死に謝っているのは天の声だ。それに気が付いた時、僕の意識は暗闇へと落ちて行った。
次の日、最悪な気分で目覚めると元の世界に戻っていた。そこにあったのは、孤独な部屋だった。
来夏と共に歩んで行く筈だった過去の世界は、跡形も無く消えていた。
それに気がついた時、胸にぽっかりと穴が空いたような喪失感が襲ってきた。それなのに、なぜかまだ胸が暖かい。昨日までの日々が、遠い昔のように、輝きを放っている。
ソファに蹲って、いつも通り興味もクソもない番組を垂れ流し続けた。
来夏はどうなったのだろう。無事なのだろうか。本当に、それが気になって仕方ない。今すぐに彼女の家に行って彼女の無事を確かめたい。
身支度を整えて、家を出ようとした。だが、体が動かなかった。本当に、彼女の家に行って良いのだろうか。
彼女は、過去の世界で家に入られる事を拒んでいた。私を置いて行ってと、懇願していた。
そう思うと、体が止まってしまう。行っちゃダメだ。結局僕は、リビングに引き返していた。
それから僕は来夏を待ち続けた。またいつものように会いに来てくれるのを待った。それでも、来夏はやって来なかった。次の日も、その次の日も、一週間経っても、二週間経っても、来夏は僕の前に現れてくれなかった。
それでも僕は、ひたすら彼女を待ち続けた。
それから僕は、来夏が居なくなった悲しみを埋め合わせるため、彼女がいた時と同じ行動を取ることにした。
一人でカラオケに行ってクライナーを何本も飲んだ。結局フラフラになってなんとか家の前まで辿り着いたものの、鍵が上手く刺さなくて家には入れなかった。空が白み始めた頃、ようやく目を覚まして家に入った。
電車とタクシーを駆使して、一人で川に向かった。体調管理をしっかりしていたので熱を出すこともなく、しっかりバーベキューもやったのだが、何一つ心に残らなかった。
一人で電車に乗って、映画の舞台となった神社に足を運んだ。人の目も気にせず一人で映画のシーンを再現した。遠くのベンチにスマホを置いて録画もしていた。周りにいた奴らは僕を凄い目で見ていた。でも、そんなのどうでも良かった。
遊園地にも行った。山登りもした。海にも向かった。最後まで来夏と行けなかった温泉旅行にも行った。
それらをやり尽くして、ようやく、来夏がいた日々をなぞっても虚しいだけだと気づいた。それからはずっと、家に引きこもって、孤独な生活を送っていた。
来夏が蘇る前の日々に戻っただけだというのに、心は乾いていく一方だった。
頭痛も日に日に増して行く。最近では、頭痛の時間も伸びてきた。一度頭痛の発作が始まると、一時間は痛みが引かない。痛みも強く激しくなっており、症状は着々と進行していた。
僕はもう一度、来夏と会えるのだろうか。来夏は、僕の元に帰って来てくれるのだろうか。それとも、来夏は既に何らかの目的を達成して、僕の前から姿を消してしまったのだろうか。
☆★☆★☆★
来夏が来なくなって、二ヶ月が経とうとしていた。もう九月も終わりに差し掛かっている。夏の暑さはその勢いを弱め、秋が色濃く顔を出し始めた。
来夏のいなくなった世界は、酷く寒かった。毎日が凍えるようだった。
この段階になって、ようやく確信した。諦める気になった。夢から覚めたんだ。僕はもう、来夏から見捨てられた。後は終わりを待つだけなんだ。
そう思うと、楽になった。頭痛による悩みも一気に吹き飛んだ。もう、人生なんてどうでも良い。これから先の人生、良いことなんて一つもないから。僕は人生の最後に夢を見て、幸せを感じた。最高の幕切れじゃないか。良くやった。これで良いじゃないか。納得しろよ。納得……しろよ。
その時だった。ふいに、蓮田の顔が浮かんだ。
――俺のことは気にせず、最後くらい幸せになれよ。
――もしも夢から覚めたのなら、また話し相手になってやるぜ。そん時は、電話しろや。少しはお前の希望になってやる。
今の僕の状況を彼に伝えたら、あいつは何と言うだろうか。僕を笑い飛ばすだろうか。ようやくこっちに戻って来たなと受け入れてくれるだろうか。
蓮田に電話しよう。そう、思った。
お前はなんて間抜けな奴なんだ。幸せになった分、余計に辛いだろ。俺はそこまで予想してたんだぜ。そんな風に嘲笑してくれる蓮田の姿を簡単に想像できる。
スマホを取って、彼に電話をかけた。だが、蓮田は出なかった。――おかけになった電話は――というアナウンスが流れるだけだ。用事かと思い、数分後にもう一度電話をかける。だが、出ない。おかしいと思い、その後も何度か電話をかけた。一時間後も、二時間後も、深夜も、翌日も、蓮田は電話に出なかった。
――俺達は長く生きすぎたんだよ。
――夢から覚めたのなら電話しろや。そん時はお前の希望になってやる。
蓮田の言葉を思い出す。その瞬間、最悪の想像が脳内を駆け巡った。
夢から覚めたら僕の希望になってやる。その言葉の真の意味が、分かったかもしれない。
僕は慌ててネットを開き、あるワードを打ち込んだ。蓮田がそれをやりそうな場所。それは、一つしかない。
――これは俺と凪沙の二人で福寿岬ってとこに行った時に撮った写真なんだけどよ、俺達にも幸せな時は確かにあったんだよな。
震える手で、検索を押す。ドクン、ドクン、と心臓が暴れ狂っていた。
一番上に表示された見出しを見て、体が固まった。
【福寿岬近郊の海岸にて、男性の水死体発見】
ああ、やっぱり。記事には、身元不明の男性で、年齢は十代後半から二十段前半だと記載されていた。これはもう、蓮田だ。あいつに違いない。
蓮田は、きっと――僕に勇気を与えてくれようとしていたんだ。
あいつは僕がここまでたどり着くことを予期していた。そうして、僕に自殺の勇気をくれようとしていたんだ。それが、蓮田の言っていた希望という言葉の意味。
「ははっ」
乾いた笑いが溢れた。全身から力が抜けて、ソファに沈み込む。
「あー……」
記事は、七月の下旬に投稿されていた。僕がちょうど、来夏と楽しんでいた頃だ。僕が蓮田のことを忘れて来夏とのうのうと楽しんでいる間、あいつは自分の人生を終わらせた。
「分かったよ」
分かったよ。蓮田。
「僕もすぐに、後を追うよ」
来夏のいなくなった人生に意味なんてあるのだろうか。彼女がいなくなった世界で、いつも僕はそれについて考えていた。
「でも蓮田。少しだけだ。少しだけでいい。僕に時間をくれ」
来夏が生き返った理由。天の声の正体。過去の世界。死ぬ前に知りたいことはいくつもあった。その真実を暴いてから、僕は君の後を追う。どうせこのまま待っていたって、来夏は帰って来ない。
その真実を確かめないわけにはいかなかった。
僕はフラフラと立ち上がり、身支度を整えて外に出た。来夏に、会いたい。
向かいのマンションに行き、彼女の部屋の前に立つ。来夏の家には、彼女の正体に関する何かがあるのだろう。
死んだ来夏が生き返った方法が、そのトリックの核心が、そこにある筈だ。そして、それには天の声が一枚噛んでいる。彼女の正体もそこにある筈なのだ。思えば、来夏の住所はここではなかった。この部屋に、絶対に何かがある。
もう、夢を見るのは終わりだ。来夏は死んでいる。現実を、受け入れないといけない。
僕は意を決して、インターホンを押した。返事はない。今度はコン、コン、とノックをする。返事はない。ガチャリと扉を揺らす。鍵はしまっていた。
冷静に考えて彼女がここにいるわけがない。最後に来夏がいたのはいつなのだろうか。
近隣住民から情報を得ようと思い、隣の部屋のインターホンを押した。
「はい」と今度は比較的すぐに返事があった。
「すみません、お隣さんのことで伺いたいことがあるんですけど、少しお時間大丈夫でしょうか?」
出来るだけ怪しさを無くそうと明るい声を出したが、返って怪しく見えてしまったかもしれない。
「はあ、まあ、良いですよ」
隣人は一瞬間を開けたが、快く了承してくれた。しばらくして、ガチャリと扉が開く。
中から出てきたのは、眼鏡をかけた痩身の男だった。歳は、多分僕より少し上。社会人なりたて、といったところだろうか。
「お隣さんって、左隣の方ですか?」
「いや」
来夏の部屋は右隣だ。彼が言ってるのは来夏のことじゃない。
「ごめんなさい、そっちじゃないです。右隣の方、なんですけど」
僕がそう言うと、彼は訝しげに眉をひそめた。
「右隣の方ですか。あー、えーっと、何を聞きたいんでしたっけ?」
彼は不安気な表情で、来夏の部屋を見ている。
「あの、どうかしたんですか?」
彼のその表情が気になってしまい、つい聞いてしまう。
「いや、まさか右隣の方だとは思わなかったんですよ」
「この部屋が、どうかしたんですか?」
彼は言いづらそうに頭をボリボリかいた後、口を開いた。
「いや、あの、なんか気味が悪いんですよね、こっちの部屋は」
「気味が悪い?」
予想外の返答に、思わず聞き返してしまう。
「具体的には、どういう風に気味が悪いんですか?」
「一応、隣には人が住んでることになってるんです。家から出て行く音も、家に帰る音も、時々聞こえてきますから」
彼の説明によると、このマンションの壁はかなり薄く、生活する際の音が丸聞こえなのだそうだ。
「でもね、家に入ってから、音が殆ど聞こえないんですよ。生活音が、まるでない」
幽霊が住んでいるのかと思いましたよ、と彼は苦笑いで言った。
「冗談ですけどね」と彼は笑っているが、僕としては笑いごとではなかった。
幽霊かと思っただと。来夏は死んでいる。もしかすると、本当に来夏の幽霊が。そこまで考えていた僕の思考を、目の前にいる彼が潰した。
「いや、待ってください。一度だけ、料理を作っているような音は聞こえましたね。後は、誰かとの話し声とかも、時々聞こえてたような」
もしかするとそれは、僕が二日酔いで死にかけている時に作ってくれた料理のことかもしれない。話声に関しては分からなかった。
「あの、生活音ってのはどれくらいはっきりと聞こえてくるんですか?」
生活音がほとんど無いなんて言うが、壁の厚さ次第でいくらでも変わってくる。
「あー、左隣の人の音はかなり聞こえますからね。具体的には、こちらが静かにしていれば冷蔵庫の開け閉めくらいも聞こえますよ。風呂の音とかも聞えるくらいですから」
「それすら聞こえないと」
「ええ、そうですね」
そこまでの音が聞こえないとすると、来夏は部屋で過ごしていないことになる。だが、彼の言い分だと、彼女が部屋に入った後も音は無いという。つまり、来夏は部屋に入っていながら、外に出ることもなく、無音状態で過ごしているということだ。そんなこと、不可能だ。
「あの、もう一度聞きますけど、部屋に入ってからも音は聞こえないんですよね」
「ええ、そうですね。厳密には、不思議な音が聞こえた直後から、何も音がしなくなるんです」
「不思議な音?」
僕がそう聞くと、彼は頷いた。
「ピー、ピー、っていう機械の作動音とか、定期的に聞こえてましたよ。その音がすると、数分後には外に出て行きます。後、帰ってきた後もその音がしますね。その音が無くなると、まるで部屋に誰もいないかのように何の音もしないんです。初めはビビりましたよ。幽霊なんじゃないかって思いましたからね」
彼が話し終えた、その時だった。来夏の部屋からモーターの回転音が、聞こえてきた。
「あ、この音です」
ピ、ピ、ピーという甲高い機械音が鳴っている。その音には確実に聞き覚えがある。最近、ずっと聞いていた音だ。忘れるわけがない。あの幻聴の際に、ずっと鳴っている不思議な機械音。
「多分、そのうち出て来ますよ」
どくどくと心臓が暴れている。もう、目の前に来夏の真相があるのかもしれない。後一歩のところまで来てしまった。
機械音が止み、ガチャッと扉の開く音がした。
「今のはリビングから出た音ですね。もうすぐ家から出て来ると思います」
彼に言われ、僕は来夏の部屋の前に立った。覚悟を決めて、来夏を待つ。
ゆっくりと、来夏の部屋の扉が開けられた。
「来夏」
「ゆ、優太くん……」
中から出て来た来夏は、目を丸くして僕を見ていた。
「僕、色々と聞いたよ。君の家のこと。君はいったい、どこから来ているの?」
確実に、今さっきまで来夏はこの部屋にいなかった。それは、生活音が証明している。あの機械音の直後から彼女はこの部屋に現れた。
「それは、教えられないかな」
来夏は俯いたまま、儚い笑みを浮かべている。
「ごめん。でも、もうここまで来たら進まないといけないよ」
彼女の正体まで、あと一歩だ。どんな現実が待ち受けていたとしても、受け入れるしかない。僕はもう、充分に夢を見た。失われた日々も取り戻した。そろそろ、前に進まないといけない。
僕は前に一歩踏み出した。僕の前に、両手を広げた来夏が立ち塞がっている。僕は彼女をゆっくりと押し退けて、部屋に入った。
僕の後ろで、来夏は顔を覆っている。
「行かないでください!」
脳内に、天の声のつんざくような叫び声が響き渡る。
「これは貴方のためなんです! 知らない方が良い現実だって、あるんですよ!」
彼女は叫び続けているが、止まる気はない。廊下を越えて、リビングに続く扉を開ける。
「ああ……」
天の声は、絶望に近い声を漏らしていた。
リビングに広がる光景を見て、僕は息を呑んだ。
リビングの至る所に大きなコンピュータ機器が置かれていた。一メートル近くの高さがある長方形の機会が、五つほど並んでおり、そこからいくつものケーブルが伸びている。伸びたケーブルは、壁に掛けられた大型ディスプレイと、部屋の端にあるベットに繋がっていた。
そのディスプレイに映し出された映像を見て、思わず声が出た。
「何だよこれ」
そのディスプレイには、横たわる来夏の姿が映し出されていた。彼女は頭に禍々しいヘッドギアのような物を付けて、眠っている。
来夏は今、後ろにいるはずだ。じゃあ、この画面に映った来夏はいったい何だっていうんだ。
彼女が眠っているのは、白い部屋だった。その病室のような部屋には、リビングと同じ機会が置かれ、ケーブルが伸びている。伸びたケーブルは、来夏の付けているヘッドギアに繋がっていた。
彼女の前には椅子に座った女性がおり、パソコン画面を見たまま額を抑えていた。
「だから私は越生くんの近所に住むのは辞めようと言ったんだ」
椅子に座った女性の口が動く。すると、脳内に天の声が響いた。
分からない。何が何なのか、さっぱり分からない。あそこに座ってる女性が、天の声なのか。
そこまで考えて、いつかの会話を思い出した。蓮田を誘って飲みに行った、あの時。確かあいつは、水槽の脳について話していた。水槽の脳――僕達が見ている今この瞬間は、全て水槽に浮かんだ脳が見ている夢に過ぎないという思考実験。
もし、来夏が死んでいなかったら。四年前、事故にあった来夏が一命を取り留めていたら。
彼女は事故後に何かしらの障害を負ってしまい、満足に暮らせなくなったのかもしれない。もしくは、寝たきり状態に陥ったのかもしれない。
ディスプレイの中にいる来夏が付けているヘッドギアに、どんな効果があるのか。もしかすると、それは水槽の脳に近いものなんじゃないのか。
今僕がいるこの世界は、来夏が見ている(機会によって見せられている)夢に過ぎない。
そうだとしたら、過去にタイムスリップしたという事実にも説明がつく。夢の世界なら、なんだって自由だ。機械が、思いのままにしてくれる。
「見ちゃったんだね」
振り返ると、来夏が立っていた。彼女は、悲しそうな顔で僕を見ている。
ここが夢の世界だというのなら、僕という存在は――
「来夏は、これを隠そうとしてくれてたんだね」
彼女は本物の来夏だった。偽物などではなかった。だったら、僕は――――
「僕が夢の世界の住人だってことを、隠そうとしてくれてたんだよね」
そりゃあ、必死になって部屋に入れたがらないわけだ。過去の世界では、来夏の家が夢の世界に来るためのゲートの役割を果たしていたのだろう。
しかし、僕の予想とは裏腹に来夏はかぶりを振った。
「ううん。違うんだよ」
いったい、何が違うというのだろう。
「優太くんがそういう勘違いをしているっていうなら、本当のことを教えた方が良いのかな。多分、そっちの方がマシだから」
来夏は歩いて行って、ディスプレイの前に立った。
「ねえ、千代田さん。ちょっとだけ、立ってもらっても良いですか? 自分が夢の世界の住人って勘違いしてるくらいなら、本当のことを教えた方が良いと思うんです」
本当のことって、なんなんだ。僕の仮説は外れているのか。
「そう、かもしれないね」
千代田と呼ばれたのは、来夏の前に座っている女性だ。恐らく、天の声の名前だろう。
彼女は立ち上がって、画面から外れた。
天の声の先、そこには、もう一つベッドがあった。そこの上に寝かされている人物を見て、全身の毛が逆立つ。
そこには、僕が眠っていた。来夏と同じヘッドギアを付けられて、彼女と同じように眠っている。
「あのね、この世界と私の世界とで、決定的に違う事があるんだよ」
来夏は瞳を伏せている。彼女は、とても苦しそうに言葉を絞り出す。
「四年前の、あの時。本当に事故にあったのは、私じゃないの」
ぶくぶくと音を立てて過去の記憶が蘇る。
そうだ。思い出した。僕はあの時、勇気を植え付けようと〈エモーション〉を――――
そして、あの事件が起きたんだ。
「本当の世界で事故にあったのは、優太くんだったんだ」
ピー、ピー、という機械音。泣き叫んでいる女の声。必死に謝っている女性の声。そうして、僕は気が付いた。この時、泣いていたのは来夏だ。そして、必死に謝っているのは天の声だ。それに気が付いた時、僕の意識は暗闇へと落ちて行った。
次の日、最悪な気分で目覚めると元の世界に戻っていた。そこにあったのは、孤独な部屋だった。
来夏と共に歩んで行く筈だった過去の世界は、跡形も無く消えていた。
それに気がついた時、胸にぽっかりと穴が空いたような喪失感が襲ってきた。それなのに、なぜかまだ胸が暖かい。昨日までの日々が、遠い昔のように、輝きを放っている。
ソファに蹲って、いつも通り興味もクソもない番組を垂れ流し続けた。
来夏はどうなったのだろう。無事なのだろうか。本当に、それが気になって仕方ない。今すぐに彼女の家に行って彼女の無事を確かめたい。
身支度を整えて、家を出ようとした。だが、体が動かなかった。本当に、彼女の家に行って良いのだろうか。
彼女は、過去の世界で家に入られる事を拒んでいた。私を置いて行ってと、懇願していた。
そう思うと、体が止まってしまう。行っちゃダメだ。結局僕は、リビングに引き返していた。
それから僕は来夏を待ち続けた。またいつものように会いに来てくれるのを待った。それでも、来夏はやって来なかった。次の日も、その次の日も、一週間経っても、二週間経っても、来夏は僕の前に現れてくれなかった。
それでも僕は、ひたすら彼女を待ち続けた。
それから僕は、来夏が居なくなった悲しみを埋め合わせるため、彼女がいた時と同じ行動を取ることにした。
一人でカラオケに行ってクライナーを何本も飲んだ。結局フラフラになってなんとか家の前まで辿り着いたものの、鍵が上手く刺さなくて家には入れなかった。空が白み始めた頃、ようやく目を覚まして家に入った。
電車とタクシーを駆使して、一人で川に向かった。体調管理をしっかりしていたので熱を出すこともなく、しっかりバーベキューもやったのだが、何一つ心に残らなかった。
一人で電車に乗って、映画の舞台となった神社に足を運んだ。人の目も気にせず一人で映画のシーンを再現した。遠くのベンチにスマホを置いて録画もしていた。周りにいた奴らは僕を凄い目で見ていた。でも、そんなのどうでも良かった。
遊園地にも行った。山登りもした。海にも向かった。最後まで来夏と行けなかった温泉旅行にも行った。
それらをやり尽くして、ようやく、来夏がいた日々をなぞっても虚しいだけだと気づいた。それからはずっと、家に引きこもって、孤独な生活を送っていた。
来夏が蘇る前の日々に戻っただけだというのに、心は乾いていく一方だった。
頭痛も日に日に増して行く。最近では、頭痛の時間も伸びてきた。一度頭痛の発作が始まると、一時間は痛みが引かない。痛みも強く激しくなっており、症状は着々と進行していた。
僕はもう一度、来夏と会えるのだろうか。来夏は、僕の元に帰って来てくれるのだろうか。それとも、来夏は既に何らかの目的を達成して、僕の前から姿を消してしまったのだろうか。
☆★☆★☆★
来夏が来なくなって、二ヶ月が経とうとしていた。もう九月も終わりに差し掛かっている。夏の暑さはその勢いを弱め、秋が色濃く顔を出し始めた。
来夏のいなくなった世界は、酷く寒かった。毎日が凍えるようだった。
この段階になって、ようやく確信した。諦める気になった。夢から覚めたんだ。僕はもう、来夏から見捨てられた。後は終わりを待つだけなんだ。
そう思うと、楽になった。頭痛による悩みも一気に吹き飛んだ。もう、人生なんてどうでも良い。これから先の人生、良いことなんて一つもないから。僕は人生の最後に夢を見て、幸せを感じた。最高の幕切れじゃないか。良くやった。これで良いじゃないか。納得しろよ。納得……しろよ。
その時だった。ふいに、蓮田の顔が浮かんだ。
――俺のことは気にせず、最後くらい幸せになれよ。
――もしも夢から覚めたのなら、また話し相手になってやるぜ。そん時は、電話しろや。少しはお前の希望になってやる。
今の僕の状況を彼に伝えたら、あいつは何と言うだろうか。僕を笑い飛ばすだろうか。ようやくこっちに戻って来たなと受け入れてくれるだろうか。
蓮田に電話しよう。そう、思った。
お前はなんて間抜けな奴なんだ。幸せになった分、余計に辛いだろ。俺はそこまで予想してたんだぜ。そんな風に嘲笑してくれる蓮田の姿を簡単に想像できる。
スマホを取って、彼に電話をかけた。だが、蓮田は出なかった。――おかけになった電話は――というアナウンスが流れるだけだ。用事かと思い、数分後にもう一度電話をかける。だが、出ない。おかしいと思い、その後も何度か電話をかけた。一時間後も、二時間後も、深夜も、翌日も、蓮田は電話に出なかった。
――俺達は長く生きすぎたんだよ。
――夢から覚めたのなら電話しろや。そん時はお前の希望になってやる。
蓮田の言葉を思い出す。その瞬間、最悪の想像が脳内を駆け巡った。
夢から覚めたら僕の希望になってやる。その言葉の真の意味が、分かったかもしれない。
僕は慌ててネットを開き、あるワードを打ち込んだ。蓮田がそれをやりそうな場所。それは、一つしかない。
――これは俺と凪沙の二人で福寿岬ってとこに行った時に撮った写真なんだけどよ、俺達にも幸せな時は確かにあったんだよな。
震える手で、検索を押す。ドクン、ドクン、と心臓が暴れ狂っていた。
一番上に表示された見出しを見て、体が固まった。
【福寿岬近郊の海岸にて、男性の水死体発見】
ああ、やっぱり。記事には、身元不明の男性で、年齢は十代後半から二十段前半だと記載されていた。これはもう、蓮田だ。あいつに違いない。
蓮田は、きっと――僕に勇気を与えてくれようとしていたんだ。
あいつは僕がここまでたどり着くことを予期していた。そうして、僕に自殺の勇気をくれようとしていたんだ。それが、蓮田の言っていた希望という言葉の意味。
「ははっ」
乾いた笑いが溢れた。全身から力が抜けて、ソファに沈み込む。
「あー……」
記事は、七月の下旬に投稿されていた。僕がちょうど、来夏と楽しんでいた頃だ。僕が蓮田のことを忘れて来夏とのうのうと楽しんでいる間、あいつは自分の人生を終わらせた。
「分かったよ」
分かったよ。蓮田。
「僕もすぐに、後を追うよ」
来夏のいなくなった人生に意味なんてあるのだろうか。彼女がいなくなった世界で、いつも僕はそれについて考えていた。
「でも蓮田。少しだけだ。少しだけでいい。僕に時間をくれ」
来夏が生き返った理由。天の声の正体。過去の世界。死ぬ前に知りたいことはいくつもあった。その真実を暴いてから、僕は君の後を追う。どうせこのまま待っていたって、来夏は帰って来ない。
その真実を確かめないわけにはいかなかった。
僕はフラフラと立ち上がり、身支度を整えて外に出た。来夏に、会いたい。
向かいのマンションに行き、彼女の部屋の前に立つ。来夏の家には、彼女の正体に関する何かがあるのだろう。
死んだ来夏が生き返った方法が、そのトリックの核心が、そこにある筈だ。そして、それには天の声が一枚噛んでいる。彼女の正体もそこにある筈なのだ。思えば、来夏の住所はここではなかった。この部屋に、絶対に何かがある。
もう、夢を見るのは終わりだ。来夏は死んでいる。現実を、受け入れないといけない。
僕は意を決して、インターホンを押した。返事はない。今度はコン、コン、とノックをする。返事はない。ガチャリと扉を揺らす。鍵はしまっていた。
冷静に考えて彼女がここにいるわけがない。最後に来夏がいたのはいつなのだろうか。
近隣住民から情報を得ようと思い、隣の部屋のインターホンを押した。
「はい」と今度は比較的すぐに返事があった。
「すみません、お隣さんのことで伺いたいことがあるんですけど、少しお時間大丈夫でしょうか?」
出来るだけ怪しさを無くそうと明るい声を出したが、返って怪しく見えてしまったかもしれない。
「はあ、まあ、良いですよ」
隣人は一瞬間を開けたが、快く了承してくれた。しばらくして、ガチャリと扉が開く。
中から出てきたのは、眼鏡をかけた痩身の男だった。歳は、多分僕より少し上。社会人なりたて、といったところだろうか。
「お隣さんって、左隣の方ですか?」
「いや」
来夏の部屋は右隣だ。彼が言ってるのは来夏のことじゃない。
「ごめんなさい、そっちじゃないです。右隣の方、なんですけど」
僕がそう言うと、彼は訝しげに眉をひそめた。
「右隣の方ですか。あー、えーっと、何を聞きたいんでしたっけ?」
彼は不安気な表情で、来夏の部屋を見ている。
「あの、どうかしたんですか?」
彼のその表情が気になってしまい、つい聞いてしまう。
「いや、まさか右隣の方だとは思わなかったんですよ」
「この部屋が、どうかしたんですか?」
彼は言いづらそうに頭をボリボリかいた後、口を開いた。
「いや、あの、なんか気味が悪いんですよね、こっちの部屋は」
「気味が悪い?」
予想外の返答に、思わず聞き返してしまう。
「具体的には、どういう風に気味が悪いんですか?」
「一応、隣には人が住んでることになってるんです。家から出て行く音も、家に帰る音も、時々聞こえてきますから」
彼の説明によると、このマンションの壁はかなり薄く、生活する際の音が丸聞こえなのだそうだ。
「でもね、家に入ってから、音が殆ど聞こえないんですよ。生活音が、まるでない」
幽霊が住んでいるのかと思いましたよ、と彼は苦笑いで言った。
「冗談ですけどね」と彼は笑っているが、僕としては笑いごとではなかった。
幽霊かと思っただと。来夏は死んでいる。もしかすると、本当に来夏の幽霊が。そこまで考えていた僕の思考を、目の前にいる彼が潰した。
「いや、待ってください。一度だけ、料理を作っているような音は聞こえましたね。後は、誰かとの話し声とかも、時々聞こえてたような」
もしかするとそれは、僕が二日酔いで死にかけている時に作ってくれた料理のことかもしれない。話声に関しては分からなかった。
「あの、生活音ってのはどれくらいはっきりと聞こえてくるんですか?」
生活音がほとんど無いなんて言うが、壁の厚さ次第でいくらでも変わってくる。
「あー、左隣の人の音はかなり聞こえますからね。具体的には、こちらが静かにしていれば冷蔵庫の開け閉めくらいも聞こえますよ。風呂の音とかも聞えるくらいですから」
「それすら聞こえないと」
「ええ、そうですね」
そこまでの音が聞こえないとすると、来夏は部屋で過ごしていないことになる。だが、彼の言い分だと、彼女が部屋に入った後も音は無いという。つまり、来夏は部屋に入っていながら、外に出ることもなく、無音状態で過ごしているということだ。そんなこと、不可能だ。
「あの、もう一度聞きますけど、部屋に入ってからも音は聞こえないんですよね」
「ええ、そうですね。厳密には、不思議な音が聞こえた直後から、何も音がしなくなるんです」
「不思議な音?」
僕がそう聞くと、彼は頷いた。
「ピー、ピー、っていう機械の作動音とか、定期的に聞こえてましたよ。その音がすると、数分後には外に出て行きます。後、帰ってきた後もその音がしますね。その音が無くなると、まるで部屋に誰もいないかのように何の音もしないんです。初めはビビりましたよ。幽霊なんじゃないかって思いましたからね」
彼が話し終えた、その時だった。来夏の部屋からモーターの回転音が、聞こえてきた。
「あ、この音です」
ピ、ピ、ピーという甲高い機械音が鳴っている。その音には確実に聞き覚えがある。最近、ずっと聞いていた音だ。忘れるわけがない。あの幻聴の際に、ずっと鳴っている不思議な機械音。
「多分、そのうち出て来ますよ」
どくどくと心臓が暴れている。もう、目の前に来夏の真相があるのかもしれない。後一歩のところまで来てしまった。
機械音が止み、ガチャッと扉の開く音がした。
「今のはリビングから出た音ですね。もうすぐ家から出て来ると思います」
彼に言われ、僕は来夏の部屋の前に立った。覚悟を決めて、来夏を待つ。
ゆっくりと、来夏の部屋の扉が開けられた。
「来夏」
「ゆ、優太くん……」
中から出て来た来夏は、目を丸くして僕を見ていた。
「僕、色々と聞いたよ。君の家のこと。君はいったい、どこから来ているの?」
確実に、今さっきまで来夏はこの部屋にいなかった。それは、生活音が証明している。あの機械音の直後から彼女はこの部屋に現れた。
「それは、教えられないかな」
来夏は俯いたまま、儚い笑みを浮かべている。
「ごめん。でも、もうここまで来たら進まないといけないよ」
彼女の正体まで、あと一歩だ。どんな現実が待ち受けていたとしても、受け入れるしかない。僕はもう、充分に夢を見た。失われた日々も取り戻した。そろそろ、前に進まないといけない。
僕は前に一歩踏み出した。僕の前に、両手を広げた来夏が立ち塞がっている。僕は彼女をゆっくりと押し退けて、部屋に入った。
僕の後ろで、来夏は顔を覆っている。
「行かないでください!」
脳内に、天の声のつんざくような叫び声が響き渡る。
「これは貴方のためなんです! 知らない方が良い現実だって、あるんですよ!」
彼女は叫び続けているが、止まる気はない。廊下を越えて、リビングに続く扉を開ける。
「ああ……」
天の声は、絶望に近い声を漏らしていた。
リビングに広がる光景を見て、僕は息を呑んだ。
リビングの至る所に大きなコンピュータ機器が置かれていた。一メートル近くの高さがある長方形の機会が、五つほど並んでおり、そこからいくつものケーブルが伸びている。伸びたケーブルは、壁に掛けられた大型ディスプレイと、部屋の端にあるベットに繋がっていた。
そのディスプレイに映し出された映像を見て、思わず声が出た。
「何だよこれ」
そのディスプレイには、横たわる来夏の姿が映し出されていた。彼女は頭に禍々しいヘッドギアのような物を付けて、眠っている。
来夏は今、後ろにいるはずだ。じゃあ、この画面に映った来夏はいったい何だっていうんだ。
彼女が眠っているのは、白い部屋だった。その病室のような部屋には、リビングと同じ機会が置かれ、ケーブルが伸びている。伸びたケーブルは、来夏の付けているヘッドギアに繋がっていた。
彼女の前には椅子に座った女性がおり、パソコン画面を見たまま額を抑えていた。
「だから私は越生くんの近所に住むのは辞めようと言ったんだ」
椅子に座った女性の口が動く。すると、脳内に天の声が響いた。
分からない。何が何なのか、さっぱり分からない。あそこに座ってる女性が、天の声なのか。
そこまで考えて、いつかの会話を思い出した。蓮田を誘って飲みに行った、あの時。確かあいつは、水槽の脳について話していた。水槽の脳――僕達が見ている今この瞬間は、全て水槽に浮かんだ脳が見ている夢に過ぎないという思考実験。
もし、来夏が死んでいなかったら。四年前、事故にあった来夏が一命を取り留めていたら。
彼女は事故後に何かしらの障害を負ってしまい、満足に暮らせなくなったのかもしれない。もしくは、寝たきり状態に陥ったのかもしれない。
ディスプレイの中にいる来夏が付けているヘッドギアに、どんな効果があるのか。もしかすると、それは水槽の脳に近いものなんじゃないのか。
今僕がいるこの世界は、来夏が見ている(機会によって見せられている)夢に過ぎない。
そうだとしたら、過去にタイムスリップしたという事実にも説明がつく。夢の世界なら、なんだって自由だ。機械が、思いのままにしてくれる。
「見ちゃったんだね」
振り返ると、来夏が立っていた。彼女は、悲しそうな顔で僕を見ている。
ここが夢の世界だというのなら、僕という存在は――
「来夏は、これを隠そうとしてくれてたんだね」
彼女は本物の来夏だった。偽物などではなかった。だったら、僕は――――
「僕が夢の世界の住人だってことを、隠そうとしてくれてたんだよね」
そりゃあ、必死になって部屋に入れたがらないわけだ。過去の世界では、来夏の家が夢の世界に来るためのゲートの役割を果たしていたのだろう。
しかし、僕の予想とは裏腹に来夏はかぶりを振った。
「ううん。違うんだよ」
いったい、何が違うというのだろう。
「優太くんがそういう勘違いをしているっていうなら、本当のことを教えた方が良いのかな。多分、そっちの方がマシだから」
来夏は歩いて行って、ディスプレイの前に立った。
「ねえ、千代田さん。ちょっとだけ、立ってもらっても良いですか? 自分が夢の世界の住人って勘違いしてるくらいなら、本当のことを教えた方が良いと思うんです」
本当のことって、なんなんだ。僕の仮説は外れているのか。
「そう、かもしれないね」
千代田と呼ばれたのは、来夏の前に座っている女性だ。恐らく、天の声の名前だろう。
彼女は立ち上がって、画面から外れた。
天の声の先、そこには、もう一つベッドがあった。そこの上に寝かされている人物を見て、全身の毛が逆立つ。
そこには、僕が眠っていた。来夏と同じヘッドギアを付けられて、彼女と同じように眠っている。
「あのね、この世界と私の世界とで、決定的に違う事があるんだよ」
来夏は瞳を伏せている。彼女は、とても苦しそうに言葉を絞り出す。
「四年前の、あの時。本当に事故にあったのは、私じゃないの」
ぶくぶくと音を立てて過去の記憶が蘇る。
そうだ。思い出した。僕はあの時、勇気を植え付けようと〈エモーション〉を――――
そして、あの事件が起きたんだ。
「本当の世界で事故にあったのは、優太くんだったんだ」