近くで太鼓の音が鳴り響き、内臓に衝撃が走った。篠笛の軽やかな音が辺りを飛び回っている。空は既に薄暗くなっており、夏の強い日差しはその力を弱めていた。薄っすらと雲が増え始め、少し涼しいくらいだ。

 今僕は、来夏と約束していた夏祭りの会場で、彼女を待っている。

「よっ! お待たせー!」

 人混みを掻き分けて、来夏が待ち合わせ場所に現れた。彼女の姿を見て、思わず息を呑んでしまう。

「どう、かな?」

 先程の威勢は何処へやら、来夏は頬を赤く染めながらチラチラと僕を上目遣いで見ている。

「どうも何も、びっくりしたよ。今日のためにわざわざ用意したの?」

 来夏は藍色の浴衣を着て佇んでいる。彼女の姿は、なんだかとっても儚く見える。浴衣の色のせいもあるのだろうか。今にも夜の闇に溶け出してしまいそうな危うさを持っていた。

「一応そうだよ。でもまあ、私の家に浴衣なんてないからレンタルなんだけどね」

 ま、そんな話はどうでもいいよねと、彼女は笑って僕の手を掴んだ。

「じゃ、早く行こ! 祭りの前に、お守りを買わないとね!」

 来夏は僕の手を引いて、神社の方へと進んで行く。

 河川敷に沿って、いくつもの屋台が並んでいる。その一本道を右に曲がると、少し大きな神社が見えてくる。僕達が去年行った神社だ。ここに来るまで、長かった。とても、長かった。やっと、あの約束を叶える時が来たんだ。

 階段を登って敷地内に入ると、二匹の狛犬がお出迎えしてくれた。夏祭りの日でもあるからか、神社内はそこそこ賑わっている。うぐいす笛を吹いている少年が僕達を抜き去って、本殿へ向かって走って行った。僕らも彼の後に続いて本殿へと向かう。鳥居を潜り抜け、参道を進んで行く。

「あっ、真ん中歩いちゃダメなんだよ」

 僕が堂々と歩いていたら、来夏に指摘された。

「参道を歩く時は端によるっていうのが仏様に対する礼儀なんだよ」

 優太くんは何にも知らないんだね、と来夏はケタケタ笑っている。

「神社は仏様じゃなくて神様だけどね」

 僕に指摘された来夏は「えっ」と、口を抑えた。みるみるうちに、彼女の顔が赤くなる。

「仏様はお寺だよ。逆に聞くけど、そんなことも知らないの?」
「ご、ごほん。まあ、そんなのはどうでも良いからさっさと参拝しよう! ほら、やり方教えてあげるから!」

 慌てたように叫んでから、来夏は進んで行った。まあ、参道の真ん中を通っちゃ行けないというのは知らなかった。僕も大概だと思う。

 お賽銭箱に五円玉を投げ込んでから、二礼二拍手一礼。祈りを捧げる。

 これからも来夏といられますようにと、ずっとこの幸せが続きますようにと、強く願った。

 参拝の後は、本殿の端に建っているお守り売り場に並ぶ。そこそこの人が並んでいて、僕達の順番までまだ少し時間がかかりそうだった。

「あのさ、今思ったんだけど、何でお賽銭って五円を投げた方がいいんだろうね」
「そりゃあもちろん、ご縁がありますようにっていう洒落みたいなものなんじゃないの?」

 来夏は「え? そんなことも知らないの?」とでも言いたげな目で僕を見ている。隙あれば先程の仕返しがしたいと言わんばかりだ。

「いや、五円を投げるってことはご縁を投げてるのかなって思ったんだよ」

 そう思うと、何だか物凄く嫌な予感がした。僕の前から来夏が消えてしまう。この幸せが終わってしまう。そんな予感が、全身を駆け巡った。そこまで話したところで、僕達の順番がやって来た。

「まっ、難しいことは忘れて新しいお守り選んじゃおうよ!」

 売り場でお揃いのお守りを買って神社から出た。彼女は、買ったお土産を大切そうに眺めていた。

「やっとだ。やっと、買えたね」

 その時、四年前の情景が思い浮かんだ。

 ――いつか絶対、このお守りを買いに行こうね。私、これからまた頑張るから。

 来夏の最期の言葉が蘇る。

「ここまで、長かったなあ。本当、大変だった」

 来夏は買ったお守りを大切そうに抱きながら呟いた。彼女に消えて欲しくない。僕はなぜ、そんな不安を抱いているのだろう。なぜだか、この幸せが無くなってしまうような気がした。こんなにもうまく行くわけがないだろうと、誰かが僕に忠告しているような気がした。だって、神様はいつだって僕達の敵なのだから。

☆★☆★☆★

 河川敷に戻り、屋台を眺めながら歩く。

「おっ、あれやりたいな!」

 そう言って彼女が指差したのは、射的だった。隣にあるお好み焼きの屋台から、ソースの良い香りが運ばれてくる。

「よし。じゃあ射的でもやってみよっか!」

 もう嫌なことは忘れようと思い、柄にもなく無理に大きな声を出す。

「よーし、あの一番デカイの狙っちゃうから」

 来夏はお金を払ってから鉄砲を構えた。台の上に体を乗せて、精一杯身を乗り出している。

 えい、と引き金を引いたが、景品は微動だにしない。

「全然倒れないじゃん」

 来夏は頬を膨らませながら、更に身を乗り出した。それから何発か打ったが、景品はかすかに動いただけだ。残る玉は一つ、彼女は更に狙いをすまして、引き金を引いた。プシュ、と射的特有の乾いた音がなる。鉄砲を撃った瞬間、来夏が勢い余って台から滑り落ちた。

「いった」

 身を乗り出しすぎて、屋台の内側に落っこちてしまったらしい。発射されたコルクが景品に弾かれて、来夏の頭に当たった。

「もう、何やってんだよ」

 僕も台に身を乗り出して、来夏を覗き込む。頭から地面に落っこちた来夏は、かなり間抜けな格好をしていた。ていうか、浴衣が際どい感じにはだけている。

「ほら、行こう」

 屋台のおっちゃんが苦笑いしていた。来夏は恥ずかしそうに俯いたまま、屋台から這い出てきて、次の屋台を指差す。

「もうだめ、こうなったらやけ食いする」

 そのまま彼女は隣にあるお好み焼きの屋台に並んだ。僕も一緒に並び、お好み焼きを食べる。

 熱々のお好み焼きは、とても美味しかった。なんてことない普通のお好み焼きのはずなのに、何故だか今まで食べた中で一番美味しいと思えた。

「次はあれ食べようよ」

 そう言って来夏が向かったのはシャカシャカポテト。その後は焼き鳥、りんご飴、チョコバナナ、etc……。

「あ〜、もう食べられない。限界かも……」

 綿あめを片手に持って、来夏はポンポンと満足そうにお腹をさすっていた。

「なんかもう帯取りたい。お腹パンッパンだよ」
「そりゃあれだけやけ食いしてたらね、お腹も膨れちゃうよね」

 来夏は信じられないペースでご飯を平らげていた。普段の彼女はここまで大食いじゃない。

「だって、今日は特別な日だもん。目一杯楽しまないとね」

 言って、彼女はまた別の屋台を指差した。

「よーし! 今度はヨーヨーすくいにレッツゴーだ!」

 取ったヨーヨーをパンパンやりながら来夏が話しかけてきた。

「そういえば、そろそろ花火が始まる時間だよね」
「そうだね」

 夏祭りに来ている人達も、皆花火を見ようと河川敷に降りて行ってる。僕達もそろそろ、準備をした方が良いかもしれない。一瞬だけ来夏の時間のことが脳裏をよぎったが頭から振り払った。昨日の話題をぶり返して来夏と言い争いにはなりたくない。

「どうする? どうやって花火を見ようか」

 近くのベンチは全部埋まってる。もう、大体のベンチは座られているだろう。

「私はちゃーんと、用意してあるんだなー」

 彼女は持っていた籠バッグの中から、レジャーシートを取り出した。

「ふふふ、これでバッチリよ」
「準備万端だったってことだね」
「もちろん!」

 彼女は本当に今日を楽しみにしてくれていたんだろう。そう思って貰えると、凄く嬉しい。

 河川敷に降りてる途中、来夏が声をかけてきた。

「ねえ優太くん。もう二度と、私の前からいなくならないでね」
「え?」

 地面にレジャーシートを広げて、来夏が「よいしょ」と腰を下ろす。

「それはこっちの台詞だよ」

 来夏も何か不安を覚えていたのだろうか。先ほどの僕と同じように、来夏がいなくなってしまうような感覚に陥っていたのだろうか。

「確かに! 優太くんの方からしたらそうかもね」

 来夏は僕をジッと見つめていた。まるで目に焼き付けているかのように、彼女は僕をずっと見つめていた。

 彼女の目が熱っぽく潤んだ、その時だった。深い闇を切り裂くように、口笛のような音が広がった。直後、何かが弾けたような炸裂音が響く。夏の澄んだ夜空に、赤い花が咲いていた。

「うわあ、始まったみたいだね」

 花火はそれから立て続けに打ち上げられた。来夏の横顔が、赤や緑、青と様々に彩られていく。

 僕はチラリと、周りに座っている人達に視線を向けた。

 子ども連れの家族が仲良く花火を見ている。大学サークルと思しき集団が、スト缶片手にウェイウェイ騒いでいる。カップルらしき二人組が、お互い肩を合わせながら空を見上げてる。彼らは総じて、幸せそうだった。僕も、幸せだった。この時間が、永遠に続いて欲しいと思った。

「ねえ、優太くん」

 花火を眺めながら、来夏が声をかけてきた。

「どうしたの?」
「私、勇気を出して良かったよ」

 来夏は一言一言、糸を紡ぐように声を出す。

「本当はね、毎日怖かったんだ。優太くんに拒絶されるのが、辛かった」

 彼女はこちらに顔を向けた。彼女の瞳には、沢山の感情が詰まっている。

「それは私のせいだから、当然の報いだから、仕方ないって思ってた」

 彼女は頬を弾ませて、緩やかに笑う。

「でも、良かったよ。辛かったけど、苦しかったけど、頑張ってきて良かった。私、今こうやって優太くんの隣に入れることが、何よりも幸せだ」

 何か言い返さないと、と思った。「僕も幸せだよ」と言いたかった。彼女を抱きしめたかった。

 言葉を探そうと思考を巡らせて、空を見上げた。夜空にはぜる花火はびっくりするくらい綺麗で、僕達を照らし出している。

「来夏」

 名前を呼んで、気がついた。

 来夏の顔が、赤かった。彼女の呼吸が荒れている。来夏の笑顔が崩れて、苦しそうに顔が歪んだ。来夏は頭を抑えて、ドサリと倒れてしまった。

「来夏!?」

 返事はない。彼女は荒い呼吸のまま、苦しそうに顔を歪めている。額には酷い脂汗が浮かんでいて、それだけで来夏の苦しさが伝わって来た。

 これだ、と直感的に思った。来夏はこれを危惧していつも早く帰っていたのだ。やっぱり、無理を言ってでも今日は早く帰るべきだったのだ。

 早く、なんとかしないと。

「大丈夫ですか?」

 周りの人が、心配して近づいて来た。とにかく、救急車を呼ばないと。そう思いスマホを手にした時だ。

「越生さん!」

 耳をつんざくような声がした。あまりの大きさに、思わず耳を塞ぎたくなる。しかし、僕の周りにいる人には聞こえていないのか、彼らは心配そうに来夏を眺めたままだ。

 この脳内に直接語りかけてくるような声の正体は、あいつしかいない。《天の声》が久し振りに現れた。こうなることが分かっていたら、早急に知らせて欲しかった。なぜこいつは、大切なことは教えてくれないのだろう。

「越生さん! 今すぐに来夏さんを家まで運んでください!」
「いや、まずは救急車だろ!」

 突然叫び出した僕に、周りにいた人々は驚いたように肩を弾ませる。

「良いから! 病院はダメなんですよ! 一刻も早く家に運んで来てください!」
「なんで!?」

 彼女の言い分が理解できなかった。どう考えたって、来夏の状態を見たら病院に連れて行くのがベストだ。家に連れて行って、何になると言うのだろう。

「頼むから私の言うことを聞いてください! 私は未来予知ができるんです! また、」

 そこまで言って、天の声は口を噤んだ。

「また?」
「また、来夏さんを失いたいんですか?」

 彼女は、大真面目な声でそう呟いた。それは、僕を脅しているような声ではなかった。本当に切羽詰まった人間にしか出せない声だと思った。

 そう言われたら、反論することなんて出来なかった。

「来夏を家まで運べば良いんだな。信じて、良いんだな」
「信じてくださいよ」
「分かったよ。すぐに行く」

 周りにいた人々は、目を丸くして僕を見ていた。頭がおかしくなったのかと、僕を哀れんでいる人もいた。変人だと、冷たい視線を向ける者もいた。だけど、それが何だ。

 僕はスマホを操作してタクシーを呼んでから、来夏を背負った。

「待ってて、今、連れて行くから」

 無数に打ち上がる花火を背に、僕は走った。ひたすら走り続けた。

☆★☆★☆★

 お金を払ってから、タクシーを飛び出す。そのままアパートの階段を全力で駆け上がり、来夏の家の前に辿り着いた。彼女の家の鍵は、閉まっている。

 背負った来夏に、意識はない。命に関わるものだったらと焦りが募る。

「ありがとうございました」

 天の声が、脳内に響く。

「来夏さんのことは私が責任持って何とかします。だから、来夏さんをそこに寝かせてください」
「そこに寝かせるって、どういうことだよ」
「だから、床に寝かせてください。もう後は大丈夫です。申し訳ないんですが、そこから立ち去ってもらえないでしょうか?」

 意味が分からなかった。こんな体調の人間を、外に置いて放置するわけにはいかない。

「いや、無理だろ。来夏を置いてのこのこ帰るなんて無理だ」

 持っていた来夏のカバンを漁った。中に鍵が入っている筈だ。

「何しようとしてるんですか?」

 一生懸命カバンを漁っていると、天の声が声をかける。

「見れば分かるだろ。鍵を探してるんだよ」
「辞めてください! 絶対、部屋には入らないで!」
「どうして!? 家に連れて来いって言ったのは君だろ!」

 鍵を見つけて、来夏を背負ったまま、鍵穴に差し込む。

 ガチャリと音が鳴った。後は開くだけ。

「辞めて!」という天の声の叫び声が聞こえた。構わず扉を開けようとした、その時だ。

「ゆう、たくん」

 掠れた、来夏の声がした。

「おね、がい。あけ、ないで」

 彼女は途切れ途切れの声で、精一杯の力を振り絞って言った。息は荒れ、薄い胸が上下に激しく動いているのが分かる。彼女の体はとても熱い。

「おねがい、だから、中には、入らないで」

 朦朧とした意識の中、来夏はそう訴えていた。何で、入っちゃいけないんだ。

「ここに、置いて、行って。お願い、だから、見ないで」

 こんなに辛い状況の中、それでもそれを訴えるというのなら、よっぽど大切な理由があるのだろうと思えた。僕に知られちゃいけないことがこの先にはあるのだろう。例えば、来夏の秘密とか、この世界の真実とか、天の声の正体とか、だ。

「わ、分かったよ」

 彼女の懇願するような声を聞いて、「嫌だ」とは言えなかった。

 来夏に何度も助けられたのに、来夏に家に連れて帰って貰ったのに、来夏に看病してもらったというのに、何もできない。

 彼女を地面に降ろすと、来夏は薄く、力無く微笑んだ。

 何もできない自分が、酷く悔しかった。僕は拳を握りしめてから、その場から立ち去った。