結局、コテージに来夏はいなかった。コテージの中を探し回ってみたが、どこにも来夏の姿はない。代わりに、彼女が残していったと思しき置き手紙を見つけた。中身を確認しようとしたが、筆跡が乱れており、まともに読むことが出来ない。余程急いでいたのかもしれない。もしくは、何か別の事情があったのかもしれない。だが、その真意は分からなかった。一瞬、筆跡を誤魔化すために来夏が行なった処置かと考えたが、その考えはすぐに捨てた。まず、筆跡を誤魔化すくらいなら手紙など残さなければいいし、そもそも彼女の筆跡は来夏の物と一致している。僕が二日酔いで死んでいた時に来夏が部屋の前に置いてくれた食事。その上に書いてあった手紙の文字は、来夏と同じだ。

 来夏がなぜ僕を置いて帰ってしまったのか、分からないままだった。

 あれから、既に一週間が経過している。その間、来夏は一度も僕の前に現れていない。まるで12時を過ぎて魔法が解けてしまったかのように、彼女は僕の前から消えた。

 この一週間は生きた心地がしなかった。天の声から言われたことが、胸の中にずっと残っている。

 ――残りの時間を大切にしてください。後悔のないように、生きてくださいね。

 彼女に言われた言葉を思い出しながら、ソファに倒れ込んだ。こんな言葉、全て彼女の戯言だと一蹴してしまうのは簡単だ。だが、無視できない理由があった。

 その時、タイミングを見計らったかのようにズキンッという激しい痛みが脳内を駆け抜けた。脳を握りしめられるような痛みが右側頭部に襲いかかる。

「あぁっ……いってえ……」

 最近、この謎の頭痛に悩まされる毎日だ。ただの頭痛などではない。脳を直接締め付けられるような痛みが、数十分間続く。

 川に遊びに行った日から始まったこの頭痛。日が増していくにつれ、痛みも強くなっていく。

 その痛みは、命の危険を感じる程だった。こんな痛みに日々襲われていたら、天の声の助言も信じてしまう。

 命が終わりに近づいているという予感が確かにあった。

 以前の僕ならば、頭が痛くなろうが何も思わなかっただろう。その時に命が尽きたとしても、笑顔で死んで行けた自信がある。だって、失うものが何もなかったから。来夏のいなくなった人生に意味を見出せずにいたから。

 だが今は違う。今の僕は来夏に見捨てられるその瞬間まで夢を見続けることができる。来夏と一緒に居続けるという幻想に囚われることができる。来夏と果たせなかった夏をやり直すことができる。

 だから、夢から覚めるその瞬間まで、死ぬ訳にはいかない。この命を、少しでも長引かせたい。

 ギリギリと痛む頭を抑えながら、必死に耐える。

 なんとか生き続けなければならないと思い、五日ほど前に病院にも行った。検査を行い、先日結果が出たのだが、脳に異常はないとのことだった。

 この頭痛の原因は分からないままだ。

 今回は三十分ほど痛みが続き、頭痛は治まった。これから、この痛みはどんどん増していくのだろうか。そうしていつの日か、僕は死ぬのか。天の声がそう告げたのだから、それは間違いないことのだろうか。なんとかして、その未来を克服したい。

 やっと素直になることができたのに、これから、 来夏と失われた時間を時間を取り戻しに行くのに、なのに、どうしてなんだ。

 僕はとことん、運命ってやつに嫌われているらしい。やっとの思いで人生の意味を見出せたかと思ったその瞬間に、余命宣告のようなものを受けてしまうのだから。

 一刻も早く、来夏に会いたい。偽物でも何でもいい。彼女に、逢いたい。ここ最近はずっと焦っている。一分一秒も無駄にしたくない。

 今日こそ、彼女は現れてくれるだろうか。祈るようにして彼女を待つ。待ち続ける。

 だが、三時を過ぎても来夏は現れなかった。

 来夏はなぜ、一週間も顔を見せてくれないのだろう。もう、僕は見捨てられてしまったのか。

 なぜ僕はあんなに酷いことをしてしまったのだろうかと、なぜ僕はもっと早く彼女を受け入れなかったのだろうかと、酷い後悔に襲われた。もう、いっそのことこちらから迎えに行ってしまおうか。そう、思った時だった。ビーッと、インターホンが鳴った。

 胸が信じられないほど高鳴っている。この一週間、僕はずっとこの時を待ち望んでいた。期待と緊張が入り混じった不思議な感覚で玄関に向かい、ドアスコープから外を覗く。すると、いつも通りの来夏がいた。それだけで、体が芯から震えた。僕はもっと早く、素直になるべきだったのだ。

 玄関に置いてある鏡で髪型をチェックしてから、扉を開ける。

「優太くん。久しぶりだね」
「本当に待ったよ」

 僕がそう言うと、来夏は驚いたように目を丸くして僕を見上げた。

「待ってて……くれたの?」
「そうだよ。この一週間、生きた心地がしなかった」

 面と向かってそんなことを言うのは恥ずかしかったが、嘘をつく気にもなれなかった。

 僕は照れを隠す為に頬をかきながら、チラリと来夏に視線を向けた。

「あのさ、この一週間、ずっと言おうと思ってたことがあるんだよ」
「え? 優太くんが、私に?」

 来夏は不安そうな瞳で僕を見ていた。何か酷いことを言われると思って怯えているのだろうか。今までの僕の行動を考えれば、そう勘違いされても仕方ない。僕は本当に、恥ずべきことを沢山してきた。

 一度大きく息を吸ってから、覚悟を決める。

「あの……今までごめん。ずっと、酷いことをしてきて……」

 来夏の目を真っ直ぐに見れなくて、逃げるように頭を下げた。僕はどこまでも、度胸がない。言い終わってから、一瞬の沈黙があった。その間が怖くて、チラッと彼女の表情を伺う。来夏の瞳は、震えていた。線香花火のように、ふるふると、揺れている。

「なんだ……そんなことを気にしてくれてたんだ。悪いのは、全部私なのにさ」
「それ……どういうことだよ」

 来夏に悪いところなんて一つもない。むしろ、僕が今まで彼女に取ってきた行動の方が最低なんだ。謝るのは、僕の方だ。

「来夏が謝る必要なんてないだろ」
「いいや、あるんだよ。私には、謝らないといけないことが、沢山あるの」
「僕はそんなことは知らないよ」
「それは優太くんが知らなくていいことなんだよ。でもね、私は罪を犯したの。一生をかけて、優太くんに償わないといけないくらい大きな罪なんだ」
「何を償うって言うのさ」
「それは内緒だよ」

 彼女は口元に人差し指を当てて、悪戯っぽく笑った。

「それよりもさ、私は嬉しいよ。優太くんが、優しくなってくれて」

 彼女は真っ直ぐに僕を見つめている。その瞳は、熱っぽく潤んでいた。

 彼女はパンッと勢いよく頬を叩いてから叫んだ。

「よし! クヨクヨすんの終わり!」

 そうして、僕の手をギュッと掴む。

「さ! 行こ! 優太くん!」

 来夏は、無理をしたように笑っている。その笑顔の裏側にある悲しみが、僕には見えた。それはきっと、彼女が言っていた《償い》に関係しているのだろう。何となく、直感でそう思った。

 天の声の存在。僕の頭痛。蘇った来夏。来夏が一生をかけて償う罪。

 どうやらこの世界には、僕の知らないことが沢山あるらしい。だけど、そんなの知らなくていいやと思った。

 それを知ってしまったら、夢から覚めてしまう気がしたから。どうしようもない現実が、僕に襲いかかってくるような気がしたから。

 僕は来夏に手を引かれ、彼女について行った。彼女は振り返って、口を開いた。

「ねえ、今日はどこに行きたい?」
「来夏と一緒だったら、どこだっていいよ」

 来夏がそばにいれば、どこに行ったって楽しい。そこら辺のファミレスだろうが、橋の下だろうが、どこでも良い。来夏のいなかった今までの生活と比べれば、きっとなんだって幸せだ。

 彼女はきゅっと固く唇を結んでから、微笑んだ。

「そっか……私もそうだよ。じゃあ今日は、あの夏にやりきれなかった約束を果たしに行こっか。一つ一つ、約束を叶えていこうよ」