翌日も、頭痛で目覚めた。昨日のような二日酔いによる頭痛などではない。初めて経験する痛みだった。右側頭部が、締め付けられるように痛む。キリキリ、ギリギリと、何か見えない力に圧迫されているようだった。

 全く食欲が湧かない腹に無理やりゼリー飲料を詰め込んでから、頭痛薬を飲んだ。

「あー」

 うめき声をあげながら、ソファに沈み込んだ。体調が、すこぶる悪い。

 昨日一晩中、悩みに悩み抜いた。このまま、来夏に気を許してしまうかどうかを、死ぬ気で考えた。

 蓮田には助言を貰った。素直になりたいという気持ちもある。だが、どうしても踏ん切りがつかない。

 昨日、最後に来夏の墓の前に立った時に思った。来夏に申し訳ない。彼女はもうこの世界にいないのに、僕だけ幸せになっていいのだろうか。彼女じゃない女性を好きになっても、いいのだろうか。しかも、来夏を騙っている奴のことを。そう思うと、最後の一歩が踏み出せなかった。

 きっとそんな悩みを来夏が知ったら、僕を笑い飛ばすのだろう。そして最後には「行けよ」と、背中を押してくれるのだろう。

「あー、しんどいな」

 その時、ビーッとインターホンが鳴った。また、あの来夏が来たのだろう。

 痛む頭を抑えながらドアスコープから外を覗くと、やはりあの来夏がいた。今日の来夏は何故だかいつもよりも、魅力的に見える。普段よりもメイクに力が入っているし、格好も長袖のフレアスリーブにロングスカートと可愛らしかった。

 昨日のように無視を決めようかと、一瞬迷った。

 ――お前、最後くらい幸せになれよ。

 その時、僕の中の蓮田が胸倉を掴んだ。

 気が付いたら、僕はドアを開けていた。

「あっ……」

 来夏は、驚いたように目を見開いている。

 ドアを開けてみたものの、言葉が見つからなかった。

「なんだよ。何の用だよ」

 結局、キツい言葉を投げかけてしまう。己の中途半端さに、嫌気がさす。

「あ、ごめんごめん。なんか、まさかドアを開けてくれると思わなくてさ。ビックリしちゃった」
「だろうな。僕だって、なんでドアを開けちまったのか分からない」

 来夏の顔を直視出来なくて、視線を泳がせてしまう。なんの理由もなく、彼女の影をぼんやりと眺めていた、その時だ。鼻をすする音が、僕の鼓膜を震わせた。

「よかった……よかったぁ……」

 来夏は、泣いていた。大粒の涙をポロポロこぼして、大泣きしていた。

「あ、ごめんね。なんかさ、その、嬉しくって」

 彼女は涙を必死に拭っている。

「本当はさ、こんな私を見て欲しいわけじゃないんだけどね。ごめんね」

 僕はただ、彼女を見つめることしか出来なかった。それ以外、何も出来なかった。

「ごめん。ごめんね。いきなりこんなに泣いてさ、今、しっかりするから」

 彼女は両頬をパンパンと叩いてから、無理やり笑顔を作った。

「何の用か、だよね。えっと、川に行きたいなって」

 来夏が死ぬ前、僕達は沢山出かけようと約束をしていた。その一つが、川だった。

 断ることだってできた。でも、どうしても口が開かなかった。

「約束、したもんね」

 彼女は首を傾げながら僕を見ている。その瞳は、未だに赤く腫れたままだ。

「確かに、約束したな」
「私はね、やり直したいんだよ。私達が失った日々を、取り戻したいの」

 来夏は目を細めながら、そう呟いた。それには、僕も同感だった。

 僕は目瞑って少し考えてから、口を開いた。

「ちょっと準備してくる。少し待っててくれ」

 それしか、言うことが出来なかった。

 僕がそう言うと、来夏は唇を固く結んでから、目元を緩め、安心したように笑った。

「うん。いつまでだって待ってるから、ゆっくりでいいよ」

☆★☆★☆★

 準備を整えて玄関に戻ると、そこにはもういつもの来夏がいた。先ほど泣いていたことなど微塵も感じさせない姿だった。

 僕が玄関から出て来たのを確認するなり「じゃ、行こっか」と来夏は僕の手を引いていく。カンカンと音を立てながら階段を降りると、道路に若葉マークのついた車が止まっていた。

「これ、お前の車なのか?」
「そうだよ。今日はこれに乗ってお出かけです!」

 ジャジャーン、と楽しそうに言いながら彼女は車を親指で指差した。

「免許もバッチリ取ってるよ」

 来夏は嬉しそうに僕に免許証を見せてきた。その時、閃いた。これはこの偽物の来夏に近付くチャンスかもしれない。この免許証が偽装された免許証の可能性は高い。だが、そこに何かしらの情報が隠れているかもしれない。

「へえ、ちょっと見せてよ」
「もちろん!」

 僕は彼女から免許証を受け取ってマジマジと見つめた。

「すっごい真面目な顔してるから、あんまりジロジロ見ないで欲しいな」

 ぽりぽりと頬を掻きながら、来夏は恥ずかしそうにしている。

 記載された情報に目を通していく。

 それは至って普通の免許だった。名前も、生年月日も、顔写真も、全部来夏のものだった。僕なんかの力じゃ偽装されたものかどうかも分からない。結局、何の情報も得られなかった。

「どう? 凄いでしょ」

 勝ち誇ったように言う来夏が少し可愛いくて、緩む口元を引き締めながら免許を返そうとした時、住所欄の異変に気がついた。

 住所が、今の住所と明らかに違う。彼女の家は僕のマンションの目の前にあるはずだ。だが、そことは全く違う住所が記載されていた。免許を取った後に引っ越したという線も考えられるが、交付日は意外にも最近だった。それなのに、住所が現在と違うなんてことがあるのだろうか。

 もしかしたらこれが、偽来夏の正体に繋がる糸口になるかもしれない。今度、隙を見て彼女の家に行ってみよう。

「ありがとう」

 お礼を言って、免許を返す。来夏はそれを笑顔で受け取ってから、車に乗り込みエンジンをかけた。

「さっ。行こっか。優太くんも乗ってよ」
「分かったよ」

 言われるがまま、車内に乗り込む。車の中は、新車独特の香りがした。

「ふふっ。私、この数年間ずっとこの時を夢見てたんだ」

 言いながら、彼女は車を走らせた。

 今更になって思ったが、もし彼女が僕を変な場所へ拉致しようとしていたらもう終わりだろう。だけど、そんなのどうだって良いと思った。

 どうせ、僕の人生なんてもう終わったようなものなのだから。こんな人生に何の意味があるのか分からないのだから。

 しばらくして、来夏は車のタッチパネルを操作してブルートゥースで音楽を流し始めた。懐かしい音楽と共に、昔の記憶が蘇ってくる。

 ハンドルを握る来夏の姿を横目に、あの頃に想いを馳せる。

 彼女はこちらへ振り向いて微笑んだ。

「遅くなっちゃったけど、私はやり直したいんだ。この四年間の失われた時間をね」

 僕達は、こんな未来を望んでいたんだ。後は、僕が素直になるだけだった。

☆★☆★☆★

 途中高速道路に乗って二時間ほど走り「そろそろ目的地に近づいて来たよ!」と来夏が叫んだ。辺りはもう完全に田舎で、田んぼと山しかない。道路の左側には綺麗な川が流れており、その更に奥には山がある。来夏はハンドルを左に切り、川に架かっている橋を渡った。山に入り太陽が遮られ、辺りが一気に薄暗くなる。山の中にある駐車場に車を止めて「良しっ」と来夏は叫んだ。

「無事到着したよー。安全運転でこれて良かった」

 彼女はぐーっと伸びをしてから車を降りた。

「さっ、優太くんも行こう」

 荷台から荷物を取って来た彼女に手招きされて、僕も後に続いた。

「荷物貸してよ」

 何が入ってるのかは知らないが、彼女は重たそうなリュックを背負って、かなりゴツいクーラーボックスを抱えていた。

「え? 持ってくれるの?」

 来夏は驚いたように目を丸くしていた。今まであれだけ酷い態度を取っていたのだから仕方ない。

 でも、なんだか初めて会った時を思い出す。初めて会った時、彼女は「なんで私なんかに優しくしてくれるの?」とでも言いたげな瞳で僕を見ていた。

「重たそうだからだよ。いくらなんでも、そんなに沢山の荷物を一人で持つのは大変だ」
「ありがとね」

 来夏は嬉しそうに笑った。僕はクーラーボックスを受け取って肩にかけた。

 木々の隙間を縫うようにして、木漏れ日が降り注ぐ。舗装された道路を道なりに沿って歩いていくと、川の音が聞こえて来た。

 ちょっとした斜面を下っていき、河原に降り立つ。

 そういうキャンプ施設なのか、河原にはいくつかのテントが張っており、既に何人か先客がいた。近くを流れる川は美しく、緩やかに流れている。

「えーっと確か、予約してたテントは……あれだ!」

 来夏はスマホで何かを確認してから、河原に設営されていたテントの元まで駆け出す。慌てて後を追いかけるも、クーラーボックスが膝にガチャガチャ当たって上手く走れない。更には、クーラーボックスの重さで肩が千切れそうだった。

「あははっ、優太くん遅いよ!」

 来夏は既にテントに付いており、荷物を置いて組み立て式の椅子に体重を預けていた。僕もすぐにテントに辿り着き、クーラーボックスを置いてから来夏の隣に用意されていた椅子に座る。

「さあ、じゃあ遊ぼっか」

 言って、来夏はいきなりフレアスリーブを脱ぎ出した。あまりの行動に「えっ」と声を出してしまう。

「何? どうしたの?」

 来夏はきょとんとした顔で僕を見ていた。直後、何かに気づいたのかニヤニヤと口元に手を当て始める。

「ははーん。さては優太くん、私がいきなり脱ぎ出したから驚いたんだな。私が見たところ、優太くんはまだどう――」
「どうでも良いだろそんなこと」
「もう、怒らないでよ」

 来夏は背中の隠れる青いワンピース水着でニヤニヤ笑っていた。確かに、いきなり服を脱いだから驚いた。一瞬どきっとしたし、そわそわしてしまったことも認める。でも、僕が一番驚いたのはそこじゃない。

「腕と背中を出すのかと思ったんだよ。そこを心配したんだ」
「ああ、そういうことね」

 僕が言うと、来夏は目を細めて右手に視線を落とした。彼女は両手に白いアームウォーマーを付けている。

「これを付けてるから、大丈夫なんだよ」

 来夏はアームウォーマーを指差して苦しそうに笑った。

「腕を出してれば、偽物だって確定したんだけどな」

 彼女の両手と背中には、虐待によって付けられた生々しい傷跡がある。

「出すわけないじゃん。だって、誰にも見せたくないもん。それが例え優太くんでもね」
「それ、傷跡がないからそんなこと言ってるんじゃないのか?」

 なんでこんなことを口走っているのだろう。そんなことを言ったって、誰も得をしないというのに。

「酷いね。でも、この傷を見せれば私が本物だって信じてくれる? だったら、見してあげてもいいよ」

 そう言われ、言葉に詰まった。

 素直になればいいのに。心の中で、何かが叫んでいた。

「いや、やっぱりいいよ。それを見たくらいで本物だと決めつけることはできない」
「そっか」

 来夏は一度俯いてから、スイッチが切り替わったかのように勢いよく立ち上がった。

「ま! 昔のことでクヨクヨしてても仕方ないよ! パーッと遊んで全部忘れちゃおうぜ!」

 言いながら、彼女はロングスカートを脱ぐ。

「もー、いやらしい目で見ないでよ」

 来夏は胸元を隠しながらふざけたように笑う。

「ま、おふざけもここら辺にしておいて、優太くんの水着は私のバッグに入ってるから。どうせ、水着なんて持ってないんでしょ?」

 確かに、僕は水着を持ってない。来夏が死んでから必要になるなんて思っていなかったからだ。

「この為にわざわざ選んだのか?」
「もちろんそうだよ」

 なんてことないように、彼女は言う。お店の中で、一人真剣に水着を選ぶ来夏を想像してしまった。僕に断られる可能性だってあっただろうに、テントまで予約していた。なんで彼女はここまでしてくれるのだろう。

 もしかすると、今まで僕が無為にしてきた彼女の誘い中にも、こんな風に沢山の準備があったのかもしれない。

 トイレで水着に着替えてから、僕はテントに戻った。その頃には他のテントにもぞろぞろと人が集まっていた。子どもを連れた家族だったり、大学サークルと思しき騒がしい集団だったり、二人でイチャイチャしてるカップルだったり、沢山の人がいた。

 それから僕達は水切りやスイカ割り、川に寝そべったり、川の奥まで進んで、山の中から飛び込んだりして遊んだ。

 その間来夏はずっと笑顔だったし、気を抜けば僕も口元が緩んでしまいそうだった。

 空が緋色に輝き始めた頃、来夏が言った。

「いやー! すっごい楽しいよ! じゃあそろそろ、夕御飯にしよっか!」

 彼女にそう言われた瞬間、忘れていた空腹感がドッと押し寄せる。それだけのことで、僕がどれだけ夢中になっていたかを思い知らされた。

「夕飯って、何を食べに行くのさ」
「ノンノン、食べに行くわけないよ。川といったらバーベキューだよ!」

 来夏は川の施設を管理している従業員の元まで行き、バーベキューセットを借りた。二人で協力して、テントまでセットを運ぶ。

「ふーっ! 重かったね! ありがと!」

 来夏は幸せをたっぷりと詰め込んだ笑顔を見せてくれる。

 辺りはもう、薄暗くなっていた。田舎の夜は、東京よりも濃く、深く暗い。夏の暑さはその勢いを少しだけ弱めたのか、ひんやりと涼しかった。僕と来夏はタオルで体を拭いてから、来夏の用意していたパーカーを羽織り、セットを組み立て始めた。予め学んでいたのか、来夏は炭や木炭、新聞紙、ジェルなどを駆使して楽々と火を起こす。次第に、パチパチと音を立てて燃え始めた。赤い炎が、彼女の顔を浮かび上がらせる。

「そろそろ乗せちゃうよ」

 しばらくして、彼女はクーラーボックスから肉を取り出した。

「いっぱいあるから、じゃんじゃん焼いてくよ」

 肉を熱々の鉄板の上に乗せる。瞬間、ジュッという音が鳴った。

「うわあ。良い音だね」

 来夏は肉や野菜を次々と鉄板の上に乗せていく。食欲を刺激する香ばしい匂いと共に白い煙がもくもくと上がった。煙が、じんわりと目にしみる。

 他のテントに目を向けると、そこでもバーベキューが始まっているようだった。

「後でママと一緒に花火で遊ぼうね」と家族連れのお母さんが息子をあやしている。
「おい! ビールが足りねえぞ! ジャン負けで調達な!」とウェイ系大学生が騒いでいる。
「ルミ子水着エロくね!? 俺以外にそんな姿見せんなよ」と束縛の激しそうな彼氏が彼女の肩に手を回している。

 みんなそれぞれ、幸せそうだった。僕も、もう全部忘れて目の前の来夏と昔のように遊びたい。

「はいっ! これ」

 そう言って来夏が渡してきたのは、キンキンに冷えたサイダーだった。来夏がプルタブを開けると、プシュッと音を立てて炭酸が外に逃げていった。彼女は缶を耳元まで持っていき「やっぱり涼しいよー」と懐かしそうに言っている。

 僕もプルタブを開けて、勢いよくサイダーを飲んだ。

「いや、やっぱり飲んだ方が涼しいよ」

 僕がそう言うと、来夏は黙って僕を見つめた。白い煙が充満していて、彼女の表情がよく見えない。

「ねえ、優太くん。今日は楽しかった?」

 彼女は真っ直ぐに僕を見つめている。なんだか、凄く頭が痛かった。右側頭部がギリギリと締め付けられるように痛む。

「そっちの方こそ、どうだったんだよ」

 なんと答えたらいいか分からなくて、聞き返してしまった。下からの熱に当てられた来夏の首筋は、うっすらと汗ばんでいる。暑くなったのか、彼女は着ていたパーカーを脱いでいた。少し、視線のやり場に困る。

「私はね、すーっごく、楽しかったよ。ずっと、この時を夢見てたから」

 彼女はトングで肉を掴み、僕のトレーに乗せた。

「なあ、なんでそんなに僕に優しくできるんだ」

 これ以上、彼女の笑顔を見ているのが辛い。

「僕は君に沢山の酷いことをしてきた。昔の来夏だって、僕がここまで酷いことをしていれば離れていったはずだ。なのにどうして、僕に構うんだ」

 僕がそう言うと、来夏は一度視線を落とした。なんだか、酷く肌寒かった。久々に運動したせいか、体の節々も妙に痛い。今朝も頭痛もぶり返してきて、酷く頭が痛い。

「良いんだよ。酷くたってなんだって、ただ、優太くんが私のそばにいてくれたらなんだっていいの」

 そんなこと言ってないで、もう白状して欲しいと思った。私は偽物なんです。貴方にはこういうことを求めています。その対価として、私は来夏さんのフリをします。

 そう言ってくれれば、どんなに楽だろうか。そうしてくれれば、僕は安心して騙されることができる。

 鉄板は未だじゅうじゅう音を立てていて、段々と焦げ臭い匂いを漂わせ始めた。だけど、今は肉を取っているような雰囲気じゃなかった。

「私はただ、話せる時に優太くんと話していたい。いつか話せなくなる時が来るから。だから、内容はなんだっていいんだ。君の声が聞こえれば、なんだって」

 そう言って、彼女は焦げた肉を全部自分のトレーに乗せた。

「食いしん坊なんだな」
「もうちょっと、優しくしてくれても良いんだけどね」

 それから、バーベキューは静かに続いていった。

「きゃー! ジュンちゃん、そっち行っちゃダメ!」と家族連れのお母さんが大変そうに叫んだ。
「うわっ! ハルトが吐いた! 誰かビニール! 水!」と大学生達がてんやわんやしていた。
「あれ、ルミ子、ピアス新しいのにした?」と彼氏が今更になって彼女の変化に気づいていた。

 静かに肉を食べているのは、僕達くらいだった。

 次第に、意識が朦朧としてきた。頭が痛くて、体が寒い。節々が痛くて、食欲もない。あー、やばいかも。そう思った時には、天地がひっくり返っていた。

「ちょっと優太くん! 大丈夫!?」

 慌てた様子で来夏が近づいてくる。僕の体を起こそうと手を伸ばした、その時。ビリッと何かが破れる音がした。その直後、ガチャンという何かが崩れる音も聞こえた。

 朦朧とした意識の中、瞳だけを動かして見ると、来夏の付けていた白いアームウォーマーが破れ、彼女の右手が露わになっている。彼女の右腕には、あの忌まわしい赤黒い斑点がいくつも刻まれていた。

 もしかすると、肉を切る際の刃物か何かに引っ掛けてしまったのかもしれない。不幸中の幸いと言って良いのだろうか、刃物は来夏の肌を傷つけたわけではない。だが、そんなことを考えている場合ではなかった。

「あっ」

 来夏が声を出した時には、もう遅かった。

「大丈夫ですか!?」

 近くで騒いでいた大学生が数人、慌てた様子で近づいてきた。

 彼らは来夏の腕を見ると「えっ」と声を出し、その場で固まる。

「だ、大丈夫です!」

 来夏は瞳を伏せながらも、傷を隠そうとはせずに僕を抱えた。

「うわっ、すごい熱だ」

 彼女はおでこを触ってから、僕を背負った。周りの視線が、僕と来夏に集まる。

「来夏、腕が」
「そんなの、気にしてられないよ」

 泣くほど隠したがっていたのに、彼女は僕を背負って歩く。辺りから、ヒソヒソと話す声が聞こえる。周りにいる全員が、来夏の腕を馬鹿にしているのではないかと思えてくる。

「近くにコテージがあるから、そこを借りよう」

 彼女はどうしてここまで優しくしてくれるのだろう。なんだが、凄く情けなかった。本当に、胸が痛かった。

 来夏は川の従業員に事情を説明して、コテージを借りた。幸い、コテージには空きがありすぐに入ることができた。

「片付けは我々がやるので、お客様は彼氏さんの看病をしてあげてください」

 朦朧とした意識の中、従業員の説明が聞こえた。それを最後に、僕は眠りに落ちた。

☆★☆★☆★

 次に目が覚めた時には、体調はかなり落ち着いていた。のぼせ上がるような熱も、身体中が錆びついたような節々の痛みも、キリキリと締め付けるような頭痛も、全て消えている。僕はコテージにあるベッドに寝かされていた。ねっとりと絡みつく眠気を振り払って首だけを動かして枕元を見ると、水の入ったコップと、薬が置かれていた。きっと、来夏が解熱剤を飲ましてくれたのだろう。

 鼻から息を吸うと、爽やかな木の匂いがした。窓から月明かりが漏れて、埃がふよふよと浮かんでいるのが見えた。

 水を飲もうと手を伸ばすと、何かひんやりした物に腕が触れた。その正体を探ろうと手を這わせると、ジワリと、水が染み込んできた。それは、濡れたタオルだった。

 なんでタオルが?

 一瞬そう思ったが、すぐにピンときた。

 先程まで見ていたのとは反対側、窓のない方に、来夏が座っていた。彼女はうとうとしているのか、ロックンローラーみたいに首をこくこく動かしている。その姿が、とても愛らしく見えた。

 彼女の横には机があり、そこには桶が置かれている。彼女の手に視線を移すと、赤く腫れていた。

 きっと何度も何度も冷たいタオルを絞って、僕の頭に乗せてくれたのだろう。

 そう思うと、なんだか無性に泣けてきた。

 来夏が眠っているのを確認してから、バレないように彼女の手を握った。彼女の手は、氷のように冷たかった。

 彼女は僕のために、腕を隠すこともせずにここまで運んでくれた。彼女は僕のために、冷たいタオルを何度も絞ってくれた。なのに僕はどうした。彼女にずっと酷いことをしている。なんだかとても情けなかった。僕は一体なんなんだ。何がしたいんだ。気が付いたら、声を出して泣いていた。

「ごめん、ごめんな、来夏……」

 それが決め手になったような気がした。最後の一歩を、踏み出せた気がした。

 もう、良いだろう。もう、これ以上は無理だった。

 この来夏が偽物だとか本物だとか、そういうのはもうどうでも良い。僕は、今目の前にいるこの人が好きだ。そう、気付けた。

 涙は、全然止まってくれなかった。僕は空いた手で顔を覆って、しばらく泣いていた。

 明日、起きたら来夏に謝ろう。そして、もう素直になろう。これ以上、彼女を傷付けるのはやめよう。氷のように冷たい彼女の手を握りながら、そう思った。