自宅に着くと濡れたワイシャツを洗濯機に入れた。適当な部屋着に着替えると前回と同じように部屋の暖房を入れて、雨で冷えた身体を温めるように太陽のぬくもりの残ったシーツに沈むように寝転がり毛布にくるまって目を閉じた。

 目を覚ましたときには陽は完全に落ち、夜の暗闇に部屋は包まれていた。部屋着のポケットに入れていたスマートフォンを取り出すと時刻はもう夜の八時だった。
 三時間ぐらいか。大分寝ていたな。中途半端に眠り、身体が怠い。だらけたい気持を抑え、無理矢理にベッドから起き上がり一階に降りた。リビングの扉を開けるとカレーの香りが漂い、電気がついていた。キッチンを見ると秋穂が鍋でカレーをかき回してた。

「あんたさ、学校から帰って来たなら電気ぐらいつけたらどうなの?」

 怪訝そうな表情でこちらを見つめる秋穂に一瞥して、「ごめん悪い」と告げテーブルの椅子に座った。つけっぱなしのテレビからは都心のビル群の夜景をバッグにしたスタジオで日本のどこかで起きた殺人事件についてのニュースが読まれていた。
 改めてもうそんな時間かと思いながら秋穂の料理ができるまで漫然とテレビを観ていた。キッチンから絶えずするカレーの香りに腹が減った。行方不明の児童のニュースが読まれているときだった。

「ほら、できたよ」

 そう言って秋穂は皿に盛りつけられた湯気の出ているカレーライスをテーブルに並べ、俺の対面に座った。「いただきます」と言ってカレーライスを口に運ぶと、甘ったるいような味が口の中に広がった。香辛料の風味は完全に死んでいる。不味い。何でこんな味がするんだ。秋穂は辛いものが食べられないとわかっていた。だから甘口のカレーがいつも出されてその度に自分で一味唐辛子を振って好みに辛さに調節するのでけれども、今日のは格別に甘い。明らかに市販のカレールーの甘口の範疇を超えている。

「ねえ、美味しい?」

 反射的に「不味い」と言いかけたが、作ってもらっている身でこの姉に文句を言うと後が恐いのはわかっていた。

「ああ、うまいよ」

 姉の機嫌を悪くしないように思ってもいないことを告げた。けれども、秋穂には感情のこもっていないこの感想が見破られたのだろうか。

「本当?」

 と聞き返してきた。察しが良いならこれ以上聞いてくるなよ。なるべくオブラートに包んだことを言わなければならない弟の身にもなってくれよ。

「うーん。もう少し辛い方がいいかな俺は」
「やっぱり、あんた嘘言ってた」
「いや、傷つけると思って」
「そんなこと気にしなくていいのに。さすがに鍋に直接ガムシロ入れまくったのはよくなかったかな」
「おお、マジか…」

 この甘ったるいカレーの狂気の作り方に開いた口が塞がらない。文句がマシンガンの如く吐き出されそうになったが押し込んで黙った。
 今さえ我慢すれば良いんだ。姉との喧嘩を起こすと長引くのが辛いと自分が一番よくわかっている。

「そういえば、今日私最終面接だったんだ。それでね、中々手ごたえあったんだよ」

 俺の抑えている不満が顔に表れたのか秋穂は露骨に話題を変えた。激マズカレーの冷戦はすぐに終わりを告げた。

「そうなんだ。よかったじゃん」
「うん。役員の人に私の熱意すごい聞いてもらえたんだ」
「役員ってことは今日最終面接だったんだ」
「そうなの。で、その役員の人たちにすごい褒められたからさ、これは内定確定だよね?」

 秋穂は身を乗り出して自身ありげな笑みを見せ、念押しの確認をするように聞いた。

「うーん。まあ、そうじゃねえの。知らんけど」

 就活に関しては全くの無知であるけども秋穂がそわそわしながらも喜んでいることに水を差すのも悪いと思い、同調した。

「大学でも私以外はみんな内定貰っててね。すごい焦ってるんだ」

 秋穂は乗り出した身を元に戻し、少ししょんぼりとした素振りを見せて、ちびちびと再びカレーに手をつけだした。

「まあ、手応えあったなら大丈夫でしょ」
「そう信じたいね。あ、そうだ。今日のことちゃんとお母さんにも伝えなくちゃ」

 秋穂は食事の手を止めて立ち上がり、リビングの母さんの仏壇の遺影に手を合わせた。

「今日ね。面接うまくいったんだ。もしかしたら私も社会人になって人の役に立てるんだよ。お母さんも嬉しい?」

 秋穂の報告を横目にすっかり冷めてしまった甘ったるいカレーを掻き込んで、水で流し込むように飲み込み、「ごちそうさま」と言って皿を片付けた。

 今日はそのままシャワーを浴びた。時刻を見るとまだ十時であったけど、この日は何だか疲れたのでもう寝よう。布団に入ったときに明日提出の課題があったのを思い出した。けれど、そんなことはどうでもよかった。明日授業をサボったことも含めてまとめて怒られればいい。
 激マズのカレー、秋穂の面接がそこそこ上手くできたこと、忘れていた課題。今日は色んなことがあり、「雨の匂い」のわかるあの女のことはもう忘れていた。