目を開けたときには俺は闇の中に居た。ここはどこだ?俺はプールに居たはずじゃないのか。どこを向いても光源なんてものはなく自分の姿さえ見えなかった。
 出口を探そうと思い、俺は走ろうとしたが、足は自分の身体じゃないように言うことを聞かず、まるで夢の中に居るようでうまく走ることはできない。けれども夢のようにどこか抽象的で不明確な認識の世界ではなくはっきりと明晰にこの闇を感じていた。恐怖を覚えそれでも俺は無理矢理に藻の絡まったような足を動かして走り出した。
 いくら走っても光どころか壁すらない。そのとき直感的にこの場所はトンネルや洞窟のような暗さではなく何もない「無」の闇だと思った。果てのない虚無の世界だということに。それでも俺は走り続けた。何もない世界で自分が暑いのか寒いのかさえわからない中で光を探した。時間なんてものはわからない。ここに来てから五分ほどなのか何時間も経っているかさえ。もしかしたら元居た場所で過ごした人生より長い時間こっちにいるのかもしれない。むしろ本当はこっちが本当の世界であの人生が一瞬の夢だったかとさえ思えてしまう。

 それじゃあ今の自分は誰なんだ。そんな疑問が湧いたが、闇への恐怖はこのときにはもうとっくに薄れていた。怖くないなら光なんて探す必要なんてないじゃないか。そう思ったが闇が足を引っ張って邪魔をしても俺は走り続けた。このときには恐怖だけでなく感情や記憶さえも空っぽになっていることに気づいていたが、自分は誰だという疑問に突き動かされていた。真っ直ぐなのか後ろ向きなのか、はたまた自分が普通に立っているのか逆さになっているのかさえわからなくなりながらも走り続けていると遠くに微かな光が見えた。
 あの光が何なのか、それ以前に何で光を追い求めていたのかさえ忘れかけていた。それでもそこに答えがある気がした。力一杯に闇は自分を抑えるけれども光に向かって力を振り絞って走った。やっとの思いで光に近づくと誰かの人影が見えた気がした。ものすごく懐かしい思いがこみ上げて来たが誰だかわからない。それでも俺は何かを信じてその光に飛びこんだ。


「──くん!飛鳥くん!起きて!」

 どこか遠く声が聞こえて来る。重い瞼を開けてずぶ濡れの美咲が横たわっている俺に顔を近づけていた。重い身体を起こして美咲と目が合うと彼女は俺に抱き着いた。

「ごめんね。本当にごめんね」

 そう言いながら彼女は泣いていた。そうだ。俺は美咲と一緒にプールに落ちたんだ。あのまま溺れていたのか。この様子だと美咲が引き上げてくれたのだろう。そういえば頭がズキズキと痛いし、呼吸もまだ苦しい。

「何だか夢を見ていた気がする」

 息を切らしながらそうポツリと呟いた。彼女はそれを聞くと真っ先に怒られると思っていたのか呆気にとられた顔をした。

「夢?」
「ああ。何だか暗いところをずっと長い間走っていたんだと思う」

 よくは覚えていない。暗かった記憶しかなかった。ただそのイメージがずっと起きてから頭に残り続けていた。最後に光を見た気がするがそれも何だったのか。そもそも本当に俺は光を見たのかすら怪しい。気づいたときには美咲の声で呼び起こされたのだから。

「そうだったんだ」

 美咲は俺の手を取り強く握っていた。

「でも、よかった。本当に。このまま飛鳥くんがいなくなっちゃうかと思ったの。本当にごめんね」

 美咲は不安を誤魔化すような笑顔を浮かべて涙を流していた。思えば彼女の泣いているところなんて見るのは初めてだ。こんなとき俺はなんて声をかければいいのかわからない。ただ、目の前の彼女を安心させたいという思いだけだった。

「俺はいなくならない。俺はしっかりとここにいる」

 拙くも俺は必死にこの短い言葉を伝えた。感情に突き動かされて紡いだ言葉。美咲に向けた言葉でもあったけど、どこか俺自身にも言い聞かせているような気さえした。
 彼女は落ち着いた表情を浮かべ笑ってくれた。何も言わなかったけど、きっと大丈夫なんだとわかった。

「そうだ。花火見に行こうぜ。そのために俺を誘ったんだろ?」
「うん!行こう!」

 俺たちは立ち上がると、夕焼けの水泳場を後にした。夢の中の光が未だに何だったのかはわからないけど、ずぶ濡れの制服が重い不快感もまだ残っている頭痛も今俺がここにいると教えてくれているようだと思えた。


 俺たちは屋上で花火の時間まで美咲がコンビニで買ってきたお菓子やジュースを片手にあのときのライブの思い出を話していた。あのファミレスの会話とほとんど同じ内容の話をしていたけれど自分のあのときの興奮を再確認しているようで飽きることはなかった。
 ライブの思い出話に夢中になっている内に空は暗くなり西の空に残っていた夕焼けの橙はすっかり夜の闇に塗り替わっていた。

「もうそろそろかな」

 美咲は西の空を見て呟いた。

「ああ、多分な」
「飛鳥くんは花火好き?」
「考えたことないな」
「まさか花火見たことないの?」

 美咲は驚いた声を上げた。ものごころついてから遊園地に行った記憶がないという話をしたためか、花火すら見たことなくてもありえそうだと思われているのだろうか。

「さすがにあるさ。ただ、そんな好きかどうかなんてのがわからなくて。そういう美咲は花火が好きなのか?」
「私はもちろん好きだよ。だからその好きを共有したくて君を誘ったの」

 少し顔が熱くなるような気がした。やっぱり美咲らしい。彼女は自分の見たものや感じたものを誰かに伝えて同じ気持ちにさせてくれる。純粋にすごいと思えた。俺とは違い誰かの内側を照らしてくれるような存在なんだと。

「それじゃあさ、これから好きになれそう?」

 美咲はそう尋ねたが、返事は迷わなかった。

「ああ、きっと好きになる」

 それを聞くと美咲は俺に拳を突き出した。俺は無言でその拳に自分の右の拳を突き合わせて応えた。

「あのさ。手が少し震えてるけどもう身体の方は大丈夫なの?」

 自分では気づかなったが右手をよく見ると指のあたりが小刻みに痙攣していた。美咲は俺の顔をじっと見つめた。こんな軽微な震えに敏感に気づくなんて、もしかしたらあれからずっと体調が気がかりだったのか。

「もう大丈夫。かなり良くなった」

 実際にはこの痙攣以外にほんの少しだけ頭痛が残っていたが気にするほどでもないし、何よりもうこれ以上は美咲に心配をかけたくはなかった。

「ならよかった。けど無理しないでね」

 安堵する美咲を横目にプールに落ちる直前、飛び板の上で彼女が何かを言おうとしたのを思い出した。彼女は一体何を言おうとしていたのだろうか。彼女はあのとき自分の能力を自覚しときには世界の終わりを知っていたと言った。ということは彼女はずっと「終わり」と「死」の恐怖を忘れることなく今まで生きていたというのか。でも、今まで一緒に過ごしてきてそんな恐怖を美咲は一度も口にはせず、あの飛び板の上でそのことに触れようとしたのが初めてだ。もうそんな恐怖はとっくに乗り越えていて、だからもう吹っ切れて最後の思い出作りで俺を色々連れまわしていたのだろうか。
 それでも、もし「終わり」と「死」の恐怖を拭うことができていなかったなら、彼女はこの十六年の生涯を暗い陰を落としながら生き続けたというのか。その暗澹たる重さを鑑みることなく踏み込もうとしたことが今になって申し訳なくなった。そうして俺は美咲になんて言葉をかけていいかわからなくなった。
 向き合うべきなのかそっとしておくべきなのか。俺自身も今この瞬間だって死ぬのが怖い。一人になったらまた思考に蝕まれて震えだしているというのに。そんな俺が彼女に対してできることなんて。あの飛び板の出来事に触れたところで彼女を救えるとは限らない。そもそも救いを必要としているかどうかなんてわからない。もしかしたら内面の傷をえぐっていたのかもしれない。
 けれども、きっと彼女の内側に向かい合わないと最期に後悔する気がした。余計なお世話なのはわかっている。それでも俺は。

「あのさ」

 意を決して声をかけようとしたその刹那、紅に輝いた空が俺たちを照らし爆ぜた轟音が俺の声をかき消した。風と共に火薬の匂いが鼻を撫でた。
 花火だ。そしてまたもう一発と続けざまに空を彩る。どうやら俺の声は美咲には届かなかったようで、彼女は花火に見とれていた。そんな俺も打ち上がっては消える花火の輝きに言葉を失っていた。
 綺麗だ。最期の花火だから。彼女と見ているからなのかはわからないけれども俺は自分の言葉を遮った花火を好きになっていた。あのライブの日、夜の公園で神様は俺たちを許してくれると話したけど、きっと許してはくれないだろう。「始まり」と「終わり」の間の一瞬で俺たちは出会い、世界の秘密を知ってしまったのだから。だから俺たちはちっぽけだけど今を生きてこの世界に反抗しているのかもしれない。
 いつの間にか俺たちは手を握っていた。さっきは声をかけられなかったけど、きっと大丈夫。いつか俺たちなら乗り越えられる気がしたんだ。