実際に掃除を始めてみるとプールサイドをモップで磨くだけでも汗が流れてくる。プール場の中は気温が高いだけじゃなくて湿度も高い。自分から進んで貧乏くじを引くのは中々頭がおかしい。
 更衣室で拝借した新品のタオルで汗を拭いていると、後ろからは楽しそうな鼻歌が聞こえてきた。後ろを振り向くと、美咲が鼻歌に合わせてリズミカルにモップで磨いていた。

「こんな暑い中よく元気でいられるな」
「私は健康優良児だからねえ」
「うらやましいわ」

 そんな元気そうな彼女を横目に俺はもうすっかりばてていたので壁に背を付けてしゃがみこんだ。

「大丈夫?熱中症?」

 少しばかり彼女は心配そうに尋ねた。

「いや、ちょっと疲れただけだ」
「良かったあ!」

 彼女はよっぽど安心したのか両手を上げて微笑んでいた。

「そんな喜んでどうした?」
「実は今日花火大会があるの。場所的に学校の屋上からはっきりと観れるからこの後一緒に見たいしね」
「だから今日、俺を呼んだのか」
「そうだよ。私たちだけの特等席だからね」
「そうか。じゃあ、さっさと掃除終わらせようぜ」

 そう言って俺は立ち上がると、少し彼女は不思議そうな顔をした。

「何か君なら花火目当てだったら呼び出す時間が早すぎだとか、そもそも世界が終わるなら掃除なんか必要ないだろとかって言うものか思ってたよ」

 その言葉に俺は確かにその通りだと思った。掃除自体は面倒で意味がない。

「少しは思ったけど、まあ成長したってことじゃねえの」

 そう言うと、少し間を置いてから美咲は俺を指差して大声で笑った。

「成長なんて不良の君には似合わないよ!」
「相変わらず手厳しいもんだな」
「いやあ、ごめんごめん」

 そんな俺ららしいやり取りをしながら掃除を再開した。掃除はかなり面倒で何でやらなきゃいけないんだとは少なからず思い続けているけれども投げ出そうとは考えなかった。意味はなくとも何となく続けるかと思った。
 広大なプールも普段は体育や部活で賑わっているけれども今日は誰もおらず、けたたましく途切れることのない水しぶきもなかった。風もない室内では水面は固い理に縛られているかのように微動だにしない。俺はしゃがみこみ、引き寄せられるように青く透明な水面に手をいれようとしたけれども、何となく躊躇われた。
 美咲は離れたところでモップをかけていてこちらを見ていなかった。それを確認すると何事もなかったかのように俺は立ち上がりモップをかけ始めた。


 全ての場所の掃除を終えたときにはもう外は夕暮れだった。プールの水面は窓からの夕焼けの日差しが射しこんでいた。一人で使い終わったモップやバケツを掃除用具入れに片付けて、水泳場に戻ったがそこに美咲は居なかった。
 ちょっと前に美咲はコンビニで飲み物を買ってくると言って出かけていってまだ戻ってきていないのだろうと思ったときだった。

「おーい!こっちだよ!」

 上から美咲の声が聞こえ、上を向くと一番高い飛び込み台の先端で彼女は足をぶらぶらさせて座っていた。

「そんなところいたら危ねえぞ!降りて来いよ!」

 彼女に届くように大きな声でそう言うと、水泳場に彼女の笑い声が響いた。

「君もここまでおいでよ!いい眺めだよ!あれ?もしかして高いところが怖いの?」

 言わせておけば。このまま黙って下にいるのも癪だと思い、覚悟を決めて階段を駆け上がった。けれども一段一段上る度に足が震える。あいつめ。遊園地でジェットコースターで俺がビビっていたのを覚えてやがったのか。
 なるべく下を見ずに上がろうとするがこういうときにはなぜか意に反して下が目に入ってしまう。飛び込み台の真ん中ぐらいまで来たときには最初の勢いはもうなくなり、言うことを聞かない足を無理矢理一歩一歩歩かせるので精一杯だった。やっとの思いで一番高いところまで登ることができた。

「おお!ここまで来れるなんてすごいじゃん」

 飛び板の先端で美咲はこちらを見ると拍手をした。

「隣に来てよ」

 彼女はこちらに向かって手招きをしながらそう言った。下に居たときはちっぽけなプライドでここまで来たが、十メートルの高さの不安定で幅の狭い飛び板を前にそんな度胸はもうなくなっていた。

「もういいだろ」
「怖いの?」

 彼女は煽りというよりはむしろ、怯えている小さい子どもに問いかけるように穏やかにそう聞いた。

「ああ、怖いさ」

 開き直ってそう言うと美咲は静かに笑みを浮かべた。

「世界が終わることよりも?」

 言葉が出なかった。飛び込み台の歴然とした高さと数週間後の漠然とした死。二つが重なり合い、夕焼けに照らされた彼女が霞んでいく。
 あのときと同じだ。世界が終わることを信じたときの恐怖と絶望。一滴の黒い雫がたちまち全てを蝕んでいくようなあの感覚が胸の中で木霊しだしたときだった。

「違う」

 美咲の問いかけへの返事か自分の感情への独り言かなんて自分でもわからない。きっと彼女には聞こえていない。今でも未知の「死」は確かに怖い。けれども、俺は美咲と再会したあの日から少しは前を向いて歩けるかなと思えた。あのときの小さな希望だけは無駄にしたくはなかった。
 一歩。足を踏み出した。飛び板が軋む音が聞こえる。少し足が止まりそうになったけれどもゆっくりともう一歩と飛び板の上を歩いた。そして飛び板の先端近く美咲の近くまで来ると静かに腰を下ろした。

「来れたじゃん」
「まあな」

 彼女は相変わらず屈託もなく笑っていた。

「はい、これ」

 ペットボトルのスポーツドリンクを彼女から渡された。気づけばもう喉はカラカラに渇いていた。礼を言うと、キャップを開けるのとほぼ同時に一気に喉の奥に流し込んだ。ものすごく甘く感じる。プール内の蒸し暑さの中、冷えたスポーツドリンクがとても心地よかった。今まで飲んできたものの中で一番美味いとさえ思えた。最後の一滴まで飲み切るのに時間はそんなにかからなかった。

「すごい飲みっぷりだね」
「生き返ったわ」

 空いたペットボトルを脇に置いたとき下が見えた。その高さにビクッと身体が震えた。わかっていたけど改めて見てもこの高さは慣れることはできない。この高所に再び俺が震えだしたときだった。

「あのさあ」

 と、彼女は切り出すと。

「もしかして私のことプールに落としてやろうとかって考えてた?」

 この問いかけにさらにビクッと身震いした。未来を見ていたのか。でも、実行はまだしていないし、もう落としてやろうと思っていない。

「突き落とされる未来でも見たのか?」

 そう尋ねると美咲は静かに首を振った。

「勘だよ。きっと君ならそうしようって思うかなって。だから未来は見てない」
「見てから言ってくれよ」

 俺はため息をついてそう言うと美咲は笑顔を浮かべながらも少し声を落として話し出した。

「正確には見えないって言った方が正しいのかな。二日前ぐらいから未来を見る能力が安定しなくなっているの。普段は見たいときに未来を見れたけど今はもうできない。たまに偶然電波を受信するみたいに見えることはあっても意識的には無理なの。今日はたまたま君が更衣室から出て来る未来が見えたからいたずらできただけ」

 最初は信じていなかった彼女の未来が見える力。それでもここ最近はこの能力を信じざるおえなかった。そしてこの能力がどこかしらで当たり前と感じるようになっていた。

「なあ、その能力っていつから使えるようになったんだ?」
「物心ついたときにはもう見えてたの。でも、私が見えた未来について話すと、みんな気味悪がるからこのことは誰にも言わなくなったの」

 俺は美咲の能力について、というよりも彼女自身について俺と同じバンドが好きだということ以外はよく知らない。期末テストのあの日から信じるようになった世界の終わりの事実に目を向けてばかりで、美咲自身のことについては考えようとしてこなかった。
 美咲がこの能力でどんな思いをしてきたことでさえ今になって初めて知った。このとき一つの疑問が浮かんだ。

「いつから世界の終わりが見えた?」
「最初からだよ」

 美咲にはもう先ほどの表情の曇りはなくいつも通りの笑顔であった。俺をからかったり、美味いものを食べたときの明るい表情だ。そこには恐怖や絶望は微塵もなかった。
 十代の年相応な無邪気な笑顔。この笑顔に憂いを滲ませるような「死」について聞くこと自体が余計なことだ。

「じゃ、そろそろ降りようか」

 美咲はそう言って立ち上がり、飛び込み台を後にしようとした。
 もうこれ以上何も聞かなければいい。頭ではそんなことはわかっている。ここで話を終わらせるべきなのに俺は背を向ける彼女に尋ねていた。

「美咲は死ぬのことは怖くないのか」

 こちらを振り向いて何か言おうとする美咲の口を開くのが見えたときだった。

「あっ」

 美咲は濡れた飛び板に足を滑らせて飛び込み台から落ちようとしていた。

「危ない!」

 咄嗟に俺は彼女の手を掴むと二人で抱き合うように落ちていった。

 気付いたときには大きな水しぶきを上げて夕焼けの日差しが溶けている橙のプールの中に沈んでいた。水の中で美咲は俺のことを抱きしめていた。息ができずに苦しい。それでも彼女は離さない。それどころか俺のことをより強く強く抱きしめる。苦しいけれどまるで世界から切り離されたように水の中は静寂に満ちていた。何だか時間なんてものはなく橙と透明のこの場所には俺たちと永遠以外は存在していないような。
 遠くなる意識の中、下へ下へ沈んでいく内に美咲に抱き着かれたときに感じた彼女の匂い、温もり、鼓動が反芻されて俺の中で自分と一つになってゆく気がした。こんな体験は初めてなのにこの感覚は遠い昔どこか懐かしい気さえもする。
 数週間後の予知された未来が「終わり」だというならきっとこれが「始まり」なのだろうか。そう思ったときに俺は静かに目を瞑っていた。