ふと、気付いて目を開けると白んだ空に驚いた。隣を見ると美咲は座ったまま眠っていた。
「起きろよ!まずい。俺ら寝てたみたいだ」
そう言うと、彼女は眠そうな目を擦っていた。
「あーあ。うーん。ゆうべはお楽しみでしたね」
「んなこと言ってる場合かよ」
「だってさあ。昨日は飛鳥くん先に寝ちゃったし、私もライブではしゃぎすぎて疲れて寝ちゃったんだよ」
美咲はこんな状況でも余裕な素振りを見せてにこにこしている。まさか都会のど真ん中で野宿、そして朝帰りをしなければいけないことになるとは。
それでも心の中では別に嫌ではなかった。昨日は死を目前にしてずっと立ち止まっていた俺がやっと一歩踏み出せた。そして今は新しい朝なんだと思えた。
「とりあえず朝飯でも食いに行くか?」
「行くー」
俺たちは不慣れな恰好で寝て痛めた腰を上げて公園を出た。
始発が走り出すころの駅前は都心とはいえ、ほとんど人は歩いておらず閑散としていた。駅の入り口の前でシャッターの前には寝そべっている大学生らしき男がいた。こんなのを見てやっぱりここは都会なんだなというのを改めて実感できてしまった。
俺たちは駅の近くのハンバーガーショップに入り、ハンバーガーとポテトを食べながら俺たちの乗る電車の始発列車の時刻まで待った。食べ終えると満腹と寝不足で眠くなったがここで眠気に負けるといつ起きるかわからない怖さがあったので手の甲をつねりながら耐えた。隣を見ると美咲はそんなことお構いなしにこくりこくりと寝ていて何となく腹立たしかったのでデコピンをして起こしてやった。
「痛った!」
「寝ていたから起こした」
「暴力反対!」
今まで彼女の手玉に取られていたから今日はちょっとだけいつものお返しができたのは愉快だった。この満足感と自分の意外な意地悪さの発見に自然と顔がにやけたのか。
「一人で笑いだして気持ち悪っ」
と美咲に言われてしまった。
眠気と格闘しながら時間を潰していると俺たちの乗る電車の時刻が近づいてきた。眠気に負けた美咲を起こして俺たちは店を出た。
ふと顔を上げたとき、ビルの谷間から差す朝焼けの眩しさに目を細めた。けれども店内の冷房で冷えた身体には優しい光であった。背筋を伸ばし、俺たちは駅に向かって歩き出した。
早朝の電車に揺られ俺たちの街の駅に着いた。たった一日、電車でほんの数十分の場所にいただけなのに随分と長い間、大冒険でもしたぐらいこの街から離れていたような感覚だ。
「色々あったけど楽しかったね」
改札を抜けて美咲が背筋を伸ばしながらそう言った。
「楽しかった。久しぶりにあんなに騒げたしな」
美咲はその返事を聞くと満足そうな表情を浮かべた。
「それじゃあ、またね」
「じゃあな」
人通りの少ない地元駅で俺たちは別れた。別れてからも美咲の「またね」という言葉が耳に残った。以前カフェで彼女のいつ死ぬかわからないという話を真面目に聞かなかったことを思い出す。本当に彼女の言う通りだ。一ヶ月後に世界は終わるし、もしかしたら俺は世界が終わる前に、例えば今日家に帰る途中で車に轢かれて死ぬかもしれない。
今まで生きてきてこの「またね」という軽い口約束がどんなに脆いのかに気が付かなかった。俺は美咲にあと何度会うことができるのだろうか。
自宅に着いていつものように玄関の鍵を開けようとしたが躊躇った。父さんはきっともう仕事に行っているだろうからいいとして秋穂が面倒だ。連絡もしないで外泊をしたわけだからきっととやかく言われるに違いない。かと言ってずっと家に帰らないわけにもいかないので覚悟を決めて扉を開けた。「ただいま」と言わずに靴を脱いでいると階段からリクルートスーツ姿でキャリーバッグを抱えた秋穂が降りて来た。
「ねえ。あんた自分が何したかわかってるの?」
秋穂はそう聞くと鋭くこちらを睨んた。
「ごめん。友達の家に居た」
秋穂は階段から降りて俺の前に来た瞬間に平手打ちをした。
「あんたさ!いい加減にしてよ!心配ばかりかけて!」
鼻息を荒くして声を震わして秋穂は怒鳴った。その大声に先ほどの強烈な平手打ちで耳鳴りを起こしている俺は頭まで痛くなった。
「私さ今日から研修合宿なんだよ!すごい大事な予定で!余計なことで心配させないでよ!」
「ごめん」
あまりの剣幕に俺は頬を抑えながら、ただ謝りの言葉しか出なかった。
「もうさ!何で飛鳥はっ…」
そう言うと先ほどまでの剣幕はなくなり秋穂は急に大声で泣き出し始めた。
「大丈夫か?」
「なんでもないっ!」
振り払うようにそう言うと俺のことを押しのけてキャリーバッグを持ち、飛び出すように出て行ってしまった。以前、秋穂が言っていた合宿って今日だったのか。いつからなのかって聞かされていたに違いないけどすっかり忘れていた。
それにしても秋穂があんなに取り乱すのを見たのは初めてだ。俺に対して声を荒げることはよくあるが、手を上げることはない。ましてや怒った後に急に泣き出すことなんて。秋穂の情緒不安定さに俺は呆気に取られているだけだった。もっと秋穂に言葉をかけてやれなかったのではないだろうか。
***
私は走る。炎天下の中、スーツが汗でぐしゃぐしゃになろうと相変わらず慣れないパンプスで何度も転びそうになりながらも。急がなきゃいけないってわけじゃない。そんなことは理解している。それでも私は足を止めない。朝帰りした弟に強く当たった罪悪感?きっとそれもあるけどそんなことだけじゃない。
何かはわからない焦りが私を駆り立てる。何かから逃げるように私は走っていた。最近はずっと走っているような感じだ。忙しくて必死にならなきゃいけないことがあって。脇目も振る暇なんてない。ただ真っ直ぐ走り続けるような生活。きっとこれが社会人になるための準備なんだってわかっているけれど、ちょっと疲れちゃったかな。
でも、私には休む時間なんてないっていうのは自分が一番知っているんだ。私は天才でもないし秀才でもない。人より頑張って私はやっと普通になれるのだから。だから、私はもっと頑張らなきゃいけないんだ。私自身のためにも。そしてみんなのためにも。
夢中になって走っていると駅が見えて来た。そのとき私はバランスを崩して転んでしまった。キャリーバッグを引いていたからまともに受け身も取れず身体をアスファルトに思い切り打ち付けた。
痛い。そんな言葉が出そうになったが押し込んだ。うずくまる私の近くを通るお爺さんが舌打ちをした。私、邪魔なんだ。早くどかなきゃ。ゆっくりと立ち上がると右足が痛んだ。膝が擦り剝け、伝線したストッキングの切れ目から血が溢れていた。零れた血は下に下に流れて一筋の赤い線を描いていた。
「破れちゃった。最悪」
駅のトイレで交換しないと。右足を引きずって私は駅に向かって歩き出した。一歩一歩くごとにズキズキと右足が痛い。本当に最悪。急がないと。痛いのを我慢して私は駅まで力を振り絞って走った。
駅のトイレは運良く誰もいなかった。ストッキングを履き替え、膝の血を水で濡らしたハンカチで拭いた。傷が沁みて思わず顔をしかめた。血は止まっていたけど、こんな大きな傷じゃ研修中に目立ってしまう。時間に余裕があればもっと色の濃いストッキングを行く途中で買おうかな。
そんなことを考えながら血で汚れた手を洗っていると鏡に映る自分が泣いていることに気づいた。
え、何で泣いているの私?ちょっと痛かったからかな。零れていた涙を拭い私は急いでトイレを出た。
乗る予定の電車はまだ来ていない。急がないと追いつかれる。そんな気がして私はホームに向かって震える右足を引きずりながら走り出していた。
***
「起きろよ!まずい。俺ら寝てたみたいだ」
そう言うと、彼女は眠そうな目を擦っていた。
「あーあ。うーん。ゆうべはお楽しみでしたね」
「んなこと言ってる場合かよ」
「だってさあ。昨日は飛鳥くん先に寝ちゃったし、私もライブではしゃぎすぎて疲れて寝ちゃったんだよ」
美咲はこんな状況でも余裕な素振りを見せてにこにこしている。まさか都会のど真ん中で野宿、そして朝帰りをしなければいけないことになるとは。
それでも心の中では別に嫌ではなかった。昨日は死を目前にしてずっと立ち止まっていた俺がやっと一歩踏み出せた。そして今は新しい朝なんだと思えた。
「とりあえず朝飯でも食いに行くか?」
「行くー」
俺たちは不慣れな恰好で寝て痛めた腰を上げて公園を出た。
始発が走り出すころの駅前は都心とはいえ、ほとんど人は歩いておらず閑散としていた。駅の入り口の前でシャッターの前には寝そべっている大学生らしき男がいた。こんなのを見てやっぱりここは都会なんだなというのを改めて実感できてしまった。
俺たちは駅の近くのハンバーガーショップに入り、ハンバーガーとポテトを食べながら俺たちの乗る電車の始発列車の時刻まで待った。食べ終えると満腹と寝不足で眠くなったがここで眠気に負けるといつ起きるかわからない怖さがあったので手の甲をつねりながら耐えた。隣を見ると美咲はそんなことお構いなしにこくりこくりと寝ていて何となく腹立たしかったのでデコピンをして起こしてやった。
「痛った!」
「寝ていたから起こした」
「暴力反対!」
今まで彼女の手玉に取られていたから今日はちょっとだけいつものお返しができたのは愉快だった。この満足感と自分の意外な意地悪さの発見に自然と顔がにやけたのか。
「一人で笑いだして気持ち悪っ」
と美咲に言われてしまった。
眠気と格闘しながら時間を潰していると俺たちの乗る電車の時刻が近づいてきた。眠気に負けた美咲を起こして俺たちは店を出た。
ふと顔を上げたとき、ビルの谷間から差す朝焼けの眩しさに目を細めた。けれども店内の冷房で冷えた身体には優しい光であった。背筋を伸ばし、俺たちは駅に向かって歩き出した。
早朝の電車に揺られ俺たちの街の駅に着いた。たった一日、電車でほんの数十分の場所にいただけなのに随分と長い間、大冒険でもしたぐらいこの街から離れていたような感覚だ。
「色々あったけど楽しかったね」
改札を抜けて美咲が背筋を伸ばしながらそう言った。
「楽しかった。久しぶりにあんなに騒げたしな」
美咲はその返事を聞くと満足そうな表情を浮かべた。
「それじゃあ、またね」
「じゃあな」
人通りの少ない地元駅で俺たちは別れた。別れてからも美咲の「またね」という言葉が耳に残った。以前カフェで彼女のいつ死ぬかわからないという話を真面目に聞かなかったことを思い出す。本当に彼女の言う通りだ。一ヶ月後に世界は終わるし、もしかしたら俺は世界が終わる前に、例えば今日家に帰る途中で車に轢かれて死ぬかもしれない。
今まで生きてきてこの「またね」という軽い口約束がどんなに脆いのかに気が付かなかった。俺は美咲にあと何度会うことができるのだろうか。
自宅に着いていつものように玄関の鍵を開けようとしたが躊躇った。父さんはきっともう仕事に行っているだろうからいいとして秋穂が面倒だ。連絡もしないで外泊をしたわけだからきっととやかく言われるに違いない。かと言ってずっと家に帰らないわけにもいかないので覚悟を決めて扉を開けた。「ただいま」と言わずに靴を脱いでいると階段からリクルートスーツ姿でキャリーバッグを抱えた秋穂が降りて来た。
「ねえ。あんた自分が何したかわかってるの?」
秋穂はそう聞くと鋭くこちらを睨んた。
「ごめん。友達の家に居た」
秋穂は階段から降りて俺の前に来た瞬間に平手打ちをした。
「あんたさ!いい加減にしてよ!心配ばかりかけて!」
鼻息を荒くして声を震わして秋穂は怒鳴った。その大声に先ほどの強烈な平手打ちで耳鳴りを起こしている俺は頭まで痛くなった。
「私さ今日から研修合宿なんだよ!すごい大事な予定で!余計なことで心配させないでよ!」
「ごめん」
あまりの剣幕に俺は頬を抑えながら、ただ謝りの言葉しか出なかった。
「もうさ!何で飛鳥はっ…」
そう言うと先ほどまでの剣幕はなくなり秋穂は急に大声で泣き出し始めた。
「大丈夫か?」
「なんでもないっ!」
振り払うようにそう言うと俺のことを押しのけてキャリーバッグを持ち、飛び出すように出て行ってしまった。以前、秋穂が言っていた合宿って今日だったのか。いつからなのかって聞かされていたに違いないけどすっかり忘れていた。
それにしても秋穂があんなに取り乱すのを見たのは初めてだ。俺に対して声を荒げることはよくあるが、手を上げることはない。ましてや怒った後に急に泣き出すことなんて。秋穂の情緒不安定さに俺は呆気に取られているだけだった。もっと秋穂に言葉をかけてやれなかったのではないだろうか。
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私は走る。炎天下の中、スーツが汗でぐしゃぐしゃになろうと相変わらず慣れないパンプスで何度も転びそうになりながらも。急がなきゃいけないってわけじゃない。そんなことは理解している。それでも私は足を止めない。朝帰りした弟に強く当たった罪悪感?きっとそれもあるけどそんなことだけじゃない。
何かはわからない焦りが私を駆り立てる。何かから逃げるように私は走っていた。最近はずっと走っているような感じだ。忙しくて必死にならなきゃいけないことがあって。脇目も振る暇なんてない。ただ真っ直ぐ走り続けるような生活。きっとこれが社会人になるための準備なんだってわかっているけれど、ちょっと疲れちゃったかな。
でも、私には休む時間なんてないっていうのは自分が一番知っているんだ。私は天才でもないし秀才でもない。人より頑張って私はやっと普通になれるのだから。だから、私はもっと頑張らなきゃいけないんだ。私自身のためにも。そしてみんなのためにも。
夢中になって走っていると駅が見えて来た。そのとき私はバランスを崩して転んでしまった。キャリーバッグを引いていたからまともに受け身も取れず身体をアスファルトに思い切り打ち付けた。
痛い。そんな言葉が出そうになったが押し込んだ。うずくまる私の近くを通るお爺さんが舌打ちをした。私、邪魔なんだ。早くどかなきゃ。ゆっくりと立ち上がると右足が痛んだ。膝が擦り剝け、伝線したストッキングの切れ目から血が溢れていた。零れた血は下に下に流れて一筋の赤い線を描いていた。
「破れちゃった。最悪」
駅のトイレで交換しないと。右足を引きずって私は駅に向かって歩き出した。一歩一歩くごとにズキズキと右足が痛い。本当に最悪。急がないと。痛いのを我慢して私は駅まで力を振り絞って走った。
駅のトイレは運良く誰もいなかった。ストッキングを履き替え、膝の血を水で濡らしたハンカチで拭いた。傷が沁みて思わず顔をしかめた。血は止まっていたけど、こんな大きな傷じゃ研修中に目立ってしまう。時間に余裕があればもっと色の濃いストッキングを行く途中で買おうかな。
そんなことを考えながら血で汚れた手を洗っていると鏡に映る自分が泣いていることに気づいた。
え、何で泣いているの私?ちょっと痛かったからかな。零れていた涙を拭い私は急いでトイレを出た。
乗る予定の電車はまだ来ていない。急がないと追いつかれる。そんな気がして私はホームに向かって震える右足を引きずりながら走り出していた。
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