この日にやるべき作業を何とか終え、岡ちゃんとも作業前にあまり酔わないようにする約束も取り付けて前回と同じ六時に「お疲れさまでした」と社会科準備室を後にした。 
 学校を出て、スマホを見ると秋穂からメッセージが来ていた。

『今日は友達と夕飯食べるから、自分で昨日のカレー温めて食べてね(ハート)あと、お父さん今日は早いらしいからよろしくね(笑っている顔文字)』

 「了解」と簡潔に返信をしてため息を吐き、帰路に着いた。

 七時になり甘ったるいカレーを温めていると、玄関のドアが開く音がした。スーツ姿の父がリビングに入って来ると「ただいま」と無機質に発した。俺は少しぎこちなく「おかえり」とテンプレートの対応をした。
 二人分のカレーも盛り付け、テーブルに並べていると部屋着に着替えた父が椅子に座った。その前に座り、お互いにカレーを食べ始める。目の前の父を一瞥すると、険しい表情のまま無言でカレーを食べていた。
 その顔は初老の男性特有の厚い皮膚に覆われていいてこの人が今どんな感情を抱いているのはわからない。けれども四十年以上の積み重なった歳月を感じさせるしわがその精悍な顔を作り上げているようだった。お互いに会話はなくテレビのバラエティの街ぶらロケのナレーションが部屋に響いているだけだった。

 気まずいという感情はまさにこのことだろう。目の前の父と対峙しながら昨日の残りのカレーを口に運ぶけれども、この気まずさ故だろうか、良くも悪くも甘ったるい味を感じない。父が家族と同じ食卓で食事をするのは一ヶ月に一度くらいだ。朝は誰よりも早く起きて出社し、夜は誰よりも遅く帰って来る。詳しくは知らないけれども、製薬会社の研究員をしていて、重要な仕事を任せられているらしい。物心がついたときから俺の世話は秋穂がしてくれていた。
 父と一緒の思い出というのは存在しないと言ってもいい。たまに一緒になる日といえども大体はおしゃべりな秋穂も同席しているので、今日のような気まずい思いはしない。今日は運が悪いのだ。

「飛鳥、最近学校はどうなんだ?」

 目を合わせずに口だけを動かし、屈強な番人の貫禄で重く低い声で父が言葉を発した。仮面のような表情筋で感情は読み取れない。

「別に普通だよ」

 いきなりの質問に虚を突かれたが、平然を装い素っ気なく応えた。

「そうか」

 結局、今日はこの短い会話を最後に父とは話さなかった。十時ごろ風呂も入り終わり、父は自室に行き、リビングで一人テレビを観ていると秋穂が帰ってきた。

「ただいまあ」
「おかえり」
「今日はお父さんと二人きりでどうだった?」
「普通だよ」

 と、言うと秋穂は「ふーん」と納得したんだかしてないんだかわからない返事をしてそれ以上聞いてくることはなかった。

 この日の夜中、真っ暗な部屋でベッドに横になりながら父に近況を問いかけられたことを思い出した。
 あのとき俺は嘘を言った。素行においてもタバコを吸い、授業をサボり、成績も芳しくない。自分でも何がしたいのかわからない。岡ちゃんからの宿題にしてもそうだ。この退屈な日常から逃げようとしているのか。ただ単に法律や規則に縛られるのに嫌気が差しているのか。この理由のない反抗の向かう先に何があるのだろうか。

 暗闇の部屋で思考が巡り、目が冴えて眠れない。ベッドから起き上がり部屋の片隅に置いてあるカバンの中からタバコとライターを取り出して自室の窓を開けてベランダに出た。
 深夜一時ぐらいだろうか。周りの家は電気が消え、街灯と雲隠れのおぼろげな月あかりしか光はなかった。タバコを口に咥えて火を点けてゆっくりと吸い込み、深く煙を吐き出した。喉が灼けるのに耐えて煙と熱の中、舌先に僅かに感じたミントのような清涼感を反芻するように味わった。身体の力を抜き、だらしなく夜空を仰ぎ見てもう一度タバコを口に咥えた。

 しばらく湿っぽい夜風にあたりながらタバコを吸っていると先ほどの思考も落ち着いてきた。やっと寝れるな。そう思い火を消した。
 けれど部屋に戻るのがなんとなくためらわれた。この暗闇の中でタバコの小さな灯りだけが自分の居場所を示す目印のように見えたのだ。決してそんなことはないと思いながらも二本目のタバコを口に咥えて火を点けた。一本目のときより喉が灼けるようだった。