朝、学校に行き、教室を覗くと斉藤が教卓の前に仁王立ちで立っていた。普通であれば朝のホームルームが始まるまでは教室に担任は来ないはずだ。全体の半分ぐらい登校しているクラスメイトに何か用があるわけでもなさそうだ。ということは目当ては俺だな。
 昨日の一件をホームルームが始まる前に片付けるつもりだろう。避けられる困難なら避けようと思い、踵を返して教室を後にしようとしたときだった。

「おい、武蔵。何こそこそしてるんだ?」

 二十代男性の若々しくも荒々しい声が教室に響き渡る。教室からはひそひそと「また、武蔵くんかあ」と女子たちが俺を噂する声が聞こえてきた。

「体育の村田先生が職員室にお前を呼んでいるぞ」

 そうして職員室のジャージ姿の村田の座っているデスクまで連れていかれた。職員室までの道中、斉藤からは何も言わずに無言で俺の腕を引っ張っていくだけだった。さすがにあの熱血教師の無言は少し不気味だった。

「連れてきました。後はお願いします」

 そう言って斉藤は職員室を出ていった。村田は座ったまま上目遣いで睨みつけていた。
 岡ちゃんと同い年ぐらいらしいのだが、村田は弱々しさとは程遠いぐらいに屈強な男だ。その年齢の深みとガタイの良さの凄み、そして厳格な性格にこの学校の生徒はこいつの顔を伺って生活を送っているほどだ。

「お前、昨日の体育サボっただろ?」

 荒げた声が職員室に響く中、周辺の他の教師たちが自分たちの事務作業を黙々とこなしている。けれども、それはこの気まずい状況に我関せずの立場を保つためのもので、その動きはあまりにも機械的すぎてこんな状況にも関わらず思わず吹き出してしまいそうだった。

「はい。サボりました。すみません」

 なるべく反省していそうな模範的な表情と口調で謝ったつもりだった。けれども、村田の顔は依然険しいままだ。

「サボりましたじゃねえよ!」

 デスクを拳で叩き、あまりの音の大きさに職員室が完全に静まった。面倒なパターンになった。「誠実」な対応も今日だけは効果はないようだ。早く終わらねえかな。

「お前さあ自分の成績わかってるのか?今年は二年に進級できてるけどさあ、大分ギリギリだよな?こないだの中間も国語と英語以外赤点だったらしいな?学年で最も留年しそうなのはお前なんだぞ。それなのに授業をサボるとは何事だ?」
「すみません」

 そう言うと村田は立ち上がったかと思うといきなり俺の胸ぐらを掴んだ。殴るような勢いで掴まれ、胸を強く押され思わず咳き込んだ。

「おめえ反省してねえだろ?クズが」

 村田はこれまでにないくらいに大きい声を上げ、掴んでいる胸ぐらを激しく揺らした。抵抗することもなく、されるがままでいると、村田は掴んだワイシャツを思いっきり床に投げ落とすように引っぱった。ワイシャツのボタンが弾け飛び、バランスを崩して床に叩きつけられ顎を打った。脳に響くような痛みに声が出なかった。
 さすがにここまでくると無関心を決めていた他の教師も床に倒れている俺に目を向け始めた。立ち上がろうとしたきに血の味がすることに気づいた。口の中が切れたようだ。汚い床の埃の臭いを吸いながらゆっくりと立ち上がり周囲を見渡すと他の教師たちはまた目を背けだした。
 村田を真っ直ぐ見つめるとあいつは今にも俺を殴ろうとするように拳を振り上げていた。服を破かれ、床に叩きつけられたにも関わらず不思議にも怒りは暴発しなかった。胸の内に溢れ出す怒りが心臓の鼓動の度に血流に乗って静かに全身を包み込むようだった。
 きっと村田よりもそして心配そうにこちらを見つめたり無関心を決め込んでいる他の誰よりも冷静だったと思う。感情に支配されずに拳を強く握りしめたときだった。

「失礼します。二年五組の日直です。横山先生いらっしゃいますか?」

 一触即発の剣呑な雰囲気の職員室の扉が開かれ、一人の女子生徒が入って来た。その瞬間俺も村田も扉の方に目を向けた。その女子に俺は見覚えがあった。屋上でまどろみの中で捉えたあの容姿。間違いない。屋上であの予言をしたあの女子だ。この女子の一声で極限まで張り詰めた職員室中の空気が緩んだ。

「せっかく来てくれたのにごめんね。横山先生グラウンドの整備で今いないの」

 扉の近くにいた四十代ぐらいのおばさん教師が応えた。

「そうですか。ありがとうございます。失礼しました」

 そう言ってあの屋上で見た女子は職員室を後にした。職員室の誰もが一連の出来事に釘付けになっているときだった。

「ったくよ。次は容赦しねえからな」

 村田は突然の部外者の訪問に怒りと戦意が削がれたのか、椅子に座り「あっちに行け」と言うように手で払いのけるような仕草をした。

「失礼しました」

 と、律儀に言うと俺も固く握られた拳を解き、職員室を後にした。
 村田からやっと解放されて廊下に出ることができた。あのときの「雨の匂い」の女子は二年五組だと言っていた。俺と同級生だったのか。同級生だとしても一度も関わりのないやつが屋上で俺に声をかけたのか。
 そういえば何か訳のわからないことを聞かれたことを思い出した。「世界が終わるとしたらどうする?」と。そんなことを考えながら教室に向かった。