梅雨の雨が降る中、俺は正門を出た。

「武蔵!やる気がないなら帰れ」

 先ほどのバスケの授業中に体育館で教師に言われた言葉を今になって思い出し、薄汚れた校舎を振り返ると雨に濡れた革靴とアスファルトが擦れ嫌な音が鳴った。靴の中はとっくに浸水しており濡れた靴下が気持ち悪い。
 正門から少し離れた体育館では試合でも行っているのだろうか。教師の指導と生徒の歓声のようなものが雨音の隙間を縫って聞こえ、雨粒はまるで俺の罪を責めるかのように一つひとつが強くビニール傘に強く打ち付けられるようだった。

 しきりに降り注ぐ蒸し暑い雨の中、額の汗を拭い、昇降口から正門を歩いただけでワイシャツはもう汗に濡れていた。
 どうせ濡れるなら。そんなことが頭によぎり、開いたままの傘を下ろした。生温い雨粒が身体に降り注ぎ、深く息を吸った。肺の中に生暖かい空気が流れ、雨に巻き上げられたアスファルトの塵埃とワイシャツの化学繊維と汗の混じった匂いがした。
 決して気持ちの良くのない匂いの中に何かを感じ取ろうとした。感覚を研ぎ澄ましてもその匂いの中に何があるかはわからない。ましてや何を感じ取ろうとしたのかさえわからない。知っているようで知らないものを思い出すようなもどかしさ。

 雨はそんな俺の気も知らずに降り続け、温かった雨は次第に体温を奪うように冷たくなっていく。雨は激しさを増し、体育館の授業の音は豪雨にかき消され、アスファルトやワイシャツの匂い、感じ取ろうとしていた匂いさえもどこかに流された。先ほどまで見えていた校舎も強まる豪雨にぼやけ、視界さえも奪っていく。
 まるで雨と自分しかいない世界。ずぶ濡れになっていることも忘れ、立ち尽くしていると大きなチャイムの音が鳴り響き現実に引き戻された。普段は驚くことなんてないが学校をサボって帰ろうとしている身としてはビクリとなった。そんな気持ちを誤魔化すかのように内側まで濡れたビニール傘の水滴を意味もなく振り払い、再び校舎を背にして歩き出した。


 家に着くとずぶ濡れの制服を脱ぎ、タオルで身体を拭いた。寒気がして、くしゃみをした。六月にも関わらず自室の暖房を入れた。もしかしたら風邪を引くかもな。そんなことを考えながらキッチンの戸棚から持ち出したメロンパンを手に自室の椅子に座った。音楽プレイヤーを取り出してイヤホンを耳に付け、一番好きなバンドの曲をかけた。威勢の良いエレキギターのイントロと共に先ほどのメロンパンをかじった。

 いくら何でも帰れと言われて本当に帰るのはやりすぎただろうか。そんなことを思い、背もたれに深くもたれかかり、天井を仰ぎ見た。
 別に本当に帰る必要はなかった。自分が悪かろうが悪くなかろうがその場で形だけでも謝っていれば、大ごとにならずに丸く収まったに違いない。あのときなんで俺は反射的に反抗の意を見せて帰れと言われて帰ったのだろうか。カッとなって怒っていたわけではない。むしろ俺は冷静だった。苛立ちを抑えられなくて小さな子どものように癇癪を起こすわけでもなく、冷ややかに静かに体育館を後にした。

 振り返らなくても、あのときでさえ最適な選択肢はわかっていたはずだ。今になってこう考えるのは後悔しているのか。いや、決して俺はそんな気持ちにはなっていない。もし、あのときに素直に謝っていれば俺はどんな気持ちだったのだろうか。少し考えてもわからない。けれど、何だかんだそっちの選択肢を選んでも後悔なんてしていないと思う。むしろその選択の正しさについて特に考えることもなくいつも通りの日常を送っていたに違いない。それこそ本当にあのとき何で俺は反射的に反抗したのか、その理由はわからなくなる。
 そんなことを考えている内にイヤホンから流れる音楽がギターソロに差し掛かった。その旋律に体育館での出来事に関する煩悶はすっかりかき消され、そのメロディーに恍惚とした。