夏のフランクフルトには観光客が大勢押しかける。日本からの直行便も飛んでいるため、街を歩いていると日本語も聞こえてくる。

 俺は先日も街中で聞こえてきた日本語に意識を持って行かれた。若い女性の声に、もしかしてと思ったからだ。
 もちろん、俺の思う声の主がいるはずもない。彼女はすでに日本へ帰ってしまった。
 俺は自分でも信じられないくらいパフォーマンスが落ちている。これまでこういうことなどなかったというのに、一体どうしたというのだ。

 いや、原因は理解している。
 だからこそ俺は訝しがっている。どうしてこれしきのことで自分がこれほど腑抜けになってしまうのか。そのことに理解が追い付かない。

 今日やるべきことを終え、PCの電源を落としたところでエミールが近づいてきた。

「ハヤト、最近元気ないね」

 定時を過ぎたオフィスは閑散としている。皆今日やるべきことを片付けて時間が来ると早々に帰宅をするからだ。俺だってずるずると仕事をするつもりはない。

「そんなことない」
「そう?」

 俺が歩き出すとエミールも付いてきた。つくづくおせっかいなやつだと思う。職場の同僚などもっと表面的な付き合いでいいと思うのに、この年下の同僚は俺が遠い異国の地で働いているせいか、なぜだかこちらの都合も構わずに世話を焼きたがる。
 どうやら初対面で俺を同じ年だと思い込んだことに原因があるらしい。

「僕もそろそろ海外で働きたいな」
「ふうん。じゃあ今度の面談で話したらいいじゃないか」
「ハヤトはどこがいいと思う? ニューヨーク、上海、香港……シンガポール。やっぱり一度くらいはアジアに住んでみるのも面白いかなあ。高層マンションに住みたい」

  フランクフルトの金融街もなかなかに高層ビル群だと思うが旧市街には古い建物が多く残っている。確かにヨーロッパとアジアの街並みは異なるからエミールからしたら新鮮に映るのだろう。

「俺は……」

 そろそろ移動が出てもおかしく無いことを思い出す。ドイツに渡って五年目だ。
 俺の職種は地域を限定したものではない。世界各国にある支社へ、国に関わらず移動できる。リアルタイムで世界が知りたくて、俺は就職活動時外資系に絞った。

 そのため大学時代から英語の勉強にも力を入れたし、留学もした。
 とはいえ、実際の移動は上司との面談によって決まる。本人の意思を尊重してくれ、上の人間との対話を用意してくれるのが外資系のよいところでもある。ただし、実力・成果主義だけれど。

 エレベーターから降り、ビルの外に出るとまだ日は高い位置にいた。八月なのだから当たり前である。ただし、六月よりも日の入りは確実に早くなっている。
「あー、やっと出てきたぁ」
 ビルの外へ足を踏み出すと、日本語が聞こえてきた。

 俺たちの方に向かって黒髪の若い女性が早足で向かってくる。
 両耳の上で縛った髪の毛がぴょんぴょんと跳ねている。その年で妙に子供っぽい髪型だが、不思議と彼女、上条凛々衣には似合っている。

「ハァイ、駿人。ひと月ぶり」
「ああ夏休みか。学生は呑気でいいな」

 彼女とは俺もそれなりに知った仲だ。近況については沙綾から何度か聞かされていた。

「うっわ。喧嘩売られた。わたしだって課題で死んでたんだからね! なんとか進級できそうでホッとしているんだから」

 俺の嫌味に上条さんは眉を吊り上げた。忙しくて何よりだし、だったらロンドンに居ろよ、と思った。

「ねえ、ハヤトの友達?」

 エミールが口をはさむ。さっさと帰ればいいのに突然に現れた日本人女性に興味津々な顔をしている。俺とどういう知り合いか気になるのだろう。

「彼女は沙綾の友達」
「ハアイ。よろしく。わたり、リリー」

 俺のあとを引き継ぎ、上条さんが英語で自己紹介をした。名乗った後、ロンドン住まいであることを告げた。そのあとエミールが名乗り、ハンドシェイクをする始末。

「で、なんだってこんなところに?」

 これ以上三人で話をするのも面倒だ。俺はエミールにさっさと帰れとアピールするために日本語で話しかけた。

「ダニエルに付いてきてもらってドイツ旅行なの。ベルリン見たいって思って。どうしてもっていうならドイツとイギリスの遠距離でもいいよってダニエルが言ってくれて」
「誰だよ、ダニエルって」
「わたしのボーイフレンド。そっか、前にうちでカレー食べた時はまだダニエル帰ってきていなかったんだっけ」

 あのときとは、俺がロンドン出張の折沙綾の住まうフラットへ押しかけたときのことだ。ちょうどその日、沙綾はカレーを作り過ぎたらしく俺にも「食べる?」と尋ねてきた。俺は「もちろん」と即答した。

 懐かしい思い出に胸の奥がずきりと痛む。
 上条さんが後方に目を向ける。俺もそれに釣られて目線をやると少し離れたベンチに彼女よりもいくらか年上の中肉中背の男が座っていた。なるほど、二人で旅行とは羨ましい限りである。

「とりあえずさ、わたしソーセージが食べたいんだよね。後ビールも飲みたい。ドイツと言ったらこの二つでしょ。美味しいお店教えて。ねえ、エミールはどこかお勧め知っている?」

 上条さんはにこりと笑って英語でエミールに話しかけた。

「もちろんだよ」
 エミールは満面の笑みで答えた。
 俺はさっそく帰りたくなった。よし、さっさと立ち去ろう。

「じゃあ俺はこれで」
「駿人に話があるの! 付いてきてくれるよね」
 上条さんは俺の前に立ちはだかった。

 * * *

「いやぁ、ドイツは美味しいっ」

 上条さんはどこぞのCM並みにビールをごくごく飲んだ。昔からその時の感情だけで生きているような娘である。
 エミールが地元民が客のほぼ九割を占めるというドイツ料理店。

 俺の前の座席に座った上条さんは隣の彼氏と「ダニエルのビールちょっとちょうだい」とか「このソーセージ美味しいね」とか「二杯目は何飲む?」とかきゃっきゃとはしゃいでいる。

 彼氏の方は性格なのか口数が少なく相槌を打つだけのことのほうが多いが彼女は気にすることもなくぴたりとくっついている。見せつけたいのはわかったが、正直腹が立つ。というか、なんで俺はここにいるんだ。
 俺はやけくそ気味にカリーヴルストと付け合わせのポテトを食べていく。

 そのとなりでエミールが上条さんと友好を深めていく。

「へえ、サーヤの友達なんだ」「そうそう。小さいころからのね」「サーヤのインスタ、最近日本のご飯だらけなんだ。どれもおいしそう」「たしかにー。わたしもそろそろ日本が恋しい。え、ダニエルどうして裾引っ張るの?」「ダニエルとはどこで知り合ったの?」「友達のハウスパーティーだよー」などという会話を耳が拾っていく。

「あー、美味しかったぁ~」

 あらかたの料理を食べた上条さんが満足そうに一度座席の背もたれに背中をつけた。その姿はおっさんだ。ダニエルと名乗った彼氏に問いたい。これのどこがいいのだ。
 ふう、と息を吐いた彼女は急に真面目な顔を作った。

「ダニエル、エミールごめんね。これから大事な話をするから日本語で話すね」