わたしはきっぱり言った後、出かけた。エリックには申し訳ないけれど、わたしにできることは静観することだ。リリーが自分の心と向き合って、相談を持ち掛けてくるまでは待つことしかできない。

 正面玄関を出ると駿人さんが迎えに来てくれていた。
 なんとなく、居たたまれなくて、わたしは「このあいだはごめん」と小さな声で言った。

 彼はゆるりと口の端を持ち上げて「今日は楽しもうな」と歩き出す。
 わたしたちはそのまま駅に向かって歩いて、それから。

 長距離列車に乗ってロンドンの南にあるライという小さな村に到着した。

「うわぁ。可愛い街並み!」

 とても小さな町だけれど、古い町並みが保存されていて、村の中心部には白い壁に黒い木材が張り出した古い家々が今も多く残っている。まるで中世の世界に迷い込んだような場所。

「よかった。気に入ってくれて」
「まさか駿人がこんな乙女チックな場所を知っていたとは」

 ライの町で話すわたしたちは、ヨーロッパ旅行中のときのようにわだかまりなく会話していく。ロンドンのウォータールー駅から列車に乗った後、駿人さんが普通に話しかけてきてくれたからだ。
 大人な対応をしてくれた彼に感謝だ。

「よかった。沙綾がもうすでに来ていたらどうしようかと思った」
「じゃあ昨日電話してきたときに聞いてくればよかったのに」
「そこはほら、沙綾を驚かせたかっていうか」

 勝手に拗ねて喧嘩別れのようになってしまったのに、わたしのことを考えていてくれたことに、じわじわと温かくなった。
 明日には彼はフランクフルトに帰ってしまう。

 そのことが、今とても惜しいと感じている。このまま、手を伸ばしたら。わたしはふと、彼の指先に視線をやる。
 彼はわたしの手をそのまま握っていてくれるのだろうか。

 でも、それをするには勇気が無くて。
 わたしたちは小さな町をぐるぐると回って、ティールームで休憩した。

 おとぎの国に迷い込んだようなライの町のティールームで食べるヴィクトリアケーキは甘くて紅茶によく合った。

 ライの見どころを一通り巡ったわたしたちはヘイスティングスへ移動した。
 海辺の町はライに比べるととても賑やかで、薄日が海を照らしている。さっきまで曇っていたのに、晴れ間が覗いたのだ。イギリスの天気は本当に移ろいやすい。

 海風がわたしの髪の毛をふわふわと持ち上げる。
 週末のビーチは多くの人でにぎわっていて、わたしたち二人も人の波に乗ってのんびり海岸線を歩いて行く。

「沙綾」
「なあに?」

「語学学校は来週で終わるんだろう? 沙綾が日本に帰る最後の一週間、予定を変更してフランクフルトに滞在しないか」
「え……」

「来たときは慌ただしかったし、碌にフランクフルトを見て回っていなかっただろ」
「慌ただしかったのは駿人にも原因があると思うけど」

「そこを蒸し返すなって。違う、俺が言いたいのは、フランクフルトで少しだけ生活をしてみてほしいってこと。俺と一緒の部屋が嫌だっていうなら短期貸しのアパートを借りるし。俺のわがままだから部屋代のことは気にしないでいいから」

 わたしが取った往復航空券は東京とフランクフルトのものだ。帰りもフランクフルトから日本行きの飛行機に乗る。だから、どのみち最後はかの地へ戻ることになる。
 そしてそのことは駿人さんにも伝えてあった。

 わたしが何も言えないでいると、彼が再び口を開く。

「それでフランクフルトで暮らしてみて将来のこととか考えてみてほしい」
「将来のことって?」

 正直、まったく予想もしていなかった。わたしはいまどんな顔をしているんだろう。そう客観的に考えてしまうくらいには冷静で、けれども喉はからからに乾いていた。

「俺と結婚してドイツで暮らすイメージ」

 結婚。祖父同士が盛り上がって暫定許嫁になったのはわたしが大学生の頃。その頃の約束は冗談にしては少し本気度があった。けれども、今すぐにという代物でもなくて、わたしたちはそれを未来へ持ち越した。

「駿人さんは……そんなにも結婚がしたいの?」
「そりゃ、まあ……。俺ももう三十だし。最初会ったときにも話したけど、一人で仕事をして生活をしているよりも、誰かと一緒に人生を歩むほうがいいし。こっちだとパートナーで呼ばれる機会も多いし。実際同僚のハウスパーティーに呼ばれたらパートナー連れてこなかったの俺だけってこともあったくらいだし」

 彼の答えは数週間前にドイツで聞かされたものと大差なかった。
 わたしの心が、端の方から乾いていく。そしてさらさらと砂の粒子のように欠片が崩れていく。

「真子さん……」
「え……?」
「真子さんから、あれから連絡あった?」

 わたしは少しだけ、ううん、かなり気になっていたことを尋ねた。