女性として、人間として妊娠出産は慶事だと思っていたし、それは今でも変わらない。しかし、産休と育児休暇の取得について上司に相談をしたその先輩は社長に怒鳴られた。
「この忙しいのに、妊娠だと? ふざけるな。ただでさえ人手不足なのに、育休だと、おまえ舐めているのか。半人前のくせに一丁前に権利だけ主張しやがって。おまえみたいなやつはまず反省文を書け! 妊娠して申し訳ございませんでしたってな」とかなんとか。
社長の声はワンフロア中に響いた。
設立十年目の会社は社員数もそこまで多くなく、社長も自由にオフィス内を闊歩するようなところだった。先輩は反省文ではなく辞表を叩きつけて辞めていった。怒鳴られた翌日のことだった。
「そのやりとりを結構間近で見ていて。それで目が覚めたっていうか、ひいちゃって……。あ、わたしなんだかやばい会社にいるのかもしれないって思い始めたというか」
本当にさぁっと波が引いていくみたいに仕事のやりがいだとか会社への未練が無くなった。先輩も退職日にはすっきりとした顔をしていた。ちなみに先輩が退職をしたのが去年の十一月。
わたしが辞表を提出したのが年が明けた二月。実際に受理をされたのが三月末で、退職をしたのが四月末。
「たしかに、二十代後半で会社辞める女性社員、ちらほらといたんですよね。社長はこれだから女は、とか言っていたけどあれって結局あの会社で子供産んで育てるビジョンが見えなかったってことなんだよなあって思えてきて」
「なるほど。ブラックだね」
「わたしだって一応結婚願望とかあるんです。あそこにいたらそういう未来まで無くなっちゃうって思って」
「ふうん。サヤちゃん結婚願望あるんだ。じゃあ……これは必要ないよね」
と言って、駿人さんはわたしが作った書類をビリビリと破いたのだった。
* * *
フランクフルト二日目。時差ボケのせいもあってわたしは朝四時くらいから目を覚ました。
昨日はドイツ時間でそれなりに遅い時間まで起きていたのに目が完全に冴えている。
完全に時差ぼけだ。それと、駿人さんとの不毛な会話に神経がささくれ立ったというのも原因の一つかもしれない。
「はぁぁ」
わたしは横になりながらため息を吐いた。
本当に不毛なやり取りだった。
あの男、人が一生懸命作った許嫁解消同意書を躊躇いもなく破るし。
彼の考えていることが分からなさ過ぎたのと、わたしの怒りがマックスだったのとで、昨日は結局何の話し合いにもならなかった。
スマホで時間を確認すると現在四時四十七分。まだまだ活動的な時間とは程遠い。
SNSをチェックしたり、タブレットで電子版のガイドブックを眺めて時間を潰して、そろそろ人々が起き出すかな、という時間になってわたしは身支度を始めた。
着替えて化粧をして、さて、朝食でも食べに行くかというとき、部屋の電話が鳴った。
恐る恐る受話器を取ると英語が聞こえてきた。あたふたしていると日本語になった。
駿人さんだった。そういえば、チェックインの時、彼は私の隣にいた。ちゃっかり人の部屋番号を記憶していたらしい。こういう卒の無い男なのだ。
「おはよう。昨日はよく眠れた?」
朝っぱらから無駄に爽やかな声にイラっとした。
「おかげさまで。駿人さんの電話でたたき起こされたました」
これくらいの嫌味は許されるだろう。ほんとうは五時前から起きていたけれど。
「日本から昨日到着して時差ボケなしで眠れるなんて、繊細な神経の俺には無理だよ。ごめんね、たたき起こして」
ムカ……。わたしの表情筋がひくりと引き攣った。
「それで、人を起こしておいて一体何の用ですか」
大人なわたしは、彼の嫌味を聞き流す。
「一緒に朝食をどうかと思って。昨日はろくに話せなかっただろう」
「話すこともありませんし」
「まあそう言わずに。せっかくフランクフルトまで来たのに、一歩も部屋の外に出ないのもつまらないと思うよ」
「どういう……」
「エレベーターホールの前でずっと待ってるから」
想像しなくてもわかる。絶対にものすごくいい笑顔を作っているに違いない。
もはやただの脅しじゃない。
たしかこのホテルはエレベーターは一か所にしかない。ようするに、待ち伏せをしているというのだ。
なんて腹立たしい。わたしは受話器を握る手に力を込めた。
「……起きたばかりで支度があるので、三十分後で」
本当はメイクまでばっちり済ませてあるけど、せめてもの抵抗だった。
「オーケー」
そう言って通話が切れた。
「この忙しいのに、妊娠だと? ふざけるな。ただでさえ人手不足なのに、育休だと、おまえ舐めているのか。半人前のくせに一丁前に権利だけ主張しやがって。おまえみたいなやつはまず反省文を書け! 妊娠して申し訳ございませんでしたってな」とかなんとか。
社長の声はワンフロア中に響いた。
設立十年目の会社は社員数もそこまで多くなく、社長も自由にオフィス内を闊歩するようなところだった。先輩は反省文ではなく辞表を叩きつけて辞めていった。怒鳴られた翌日のことだった。
「そのやりとりを結構間近で見ていて。それで目が覚めたっていうか、ひいちゃって……。あ、わたしなんだかやばい会社にいるのかもしれないって思い始めたというか」
本当にさぁっと波が引いていくみたいに仕事のやりがいだとか会社への未練が無くなった。先輩も退職日にはすっきりとした顔をしていた。ちなみに先輩が退職をしたのが去年の十一月。
わたしが辞表を提出したのが年が明けた二月。実際に受理をされたのが三月末で、退職をしたのが四月末。
「たしかに、二十代後半で会社辞める女性社員、ちらほらといたんですよね。社長はこれだから女は、とか言っていたけどあれって結局あの会社で子供産んで育てるビジョンが見えなかったってことなんだよなあって思えてきて」
「なるほど。ブラックだね」
「わたしだって一応結婚願望とかあるんです。あそこにいたらそういう未来まで無くなっちゃうって思って」
「ふうん。サヤちゃん結婚願望あるんだ。じゃあ……これは必要ないよね」
と言って、駿人さんはわたしが作った書類をビリビリと破いたのだった。
* * *
フランクフルト二日目。時差ボケのせいもあってわたしは朝四時くらいから目を覚ました。
昨日はドイツ時間でそれなりに遅い時間まで起きていたのに目が完全に冴えている。
完全に時差ぼけだ。それと、駿人さんとの不毛な会話に神経がささくれ立ったというのも原因の一つかもしれない。
「はぁぁ」
わたしは横になりながらため息を吐いた。
本当に不毛なやり取りだった。
あの男、人が一生懸命作った許嫁解消同意書を躊躇いもなく破るし。
彼の考えていることが分からなさ過ぎたのと、わたしの怒りがマックスだったのとで、昨日は結局何の話し合いにもならなかった。
スマホで時間を確認すると現在四時四十七分。まだまだ活動的な時間とは程遠い。
SNSをチェックしたり、タブレットで電子版のガイドブックを眺めて時間を潰して、そろそろ人々が起き出すかな、という時間になってわたしは身支度を始めた。
着替えて化粧をして、さて、朝食でも食べに行くかというとき、部屋の電話が鳴った。
恐る恐る受話器を取ると英語が聞こえてきた。あたふたしていると日本語になった。
駿人さんだった。そういえば、チェックインの時、彼は私の隣にいた。ちゃっかり人の部屋番号を記憶していたらしい。こういう卒の無い男なのだ。
「おはよう。昨日はよく眠れた?」
朝っぱらから無駄に爽やかな声にイラっとした。
「おかげさまで。駿人さんの電話でたたき起こされたました」
これくらいの嫌味は許されるだろう。ほんとうは五時前から起きていたけれど。
「日本から昨日到着して時差ボケなしで眠れるなんて、繊細な神経の俺には無理だよ。ごめんね、たたき起こして」
ムカ……。わたしの表情筋がひくりと引き攣った。
「それで、人を起こしておいて一体何の用ですか」
大人なわたしは、彼の嫌味を聞き流す。
「一緒に朝食をどうかと思って。昨日はろくに話せなかっただろう」
「話すこともありませんし」
「まあそう言わずに。せっかくフランクフルトまで来たのに、一歩も部屋の外に出ないのもつまらないと思うよ」
「どういう……」
「エレベーターホールの前でずっと待ってるから」
想像しなくてもわかる。絶対にものすごくいい笑顔を作っているに違いない。
もはやただの脅しじゃない。
たしかこのホテルはエレベーターは一か所にしかない。ようするに、待ち伏せをしているというのだ。
なんて腹立たしい。わたしは受話器を握る手に力を込めた。
「……起きたばかりで支度があるので、三十分後で」
本当はメイクまでばっちり済ませてあるけど、せめてもの抵抗だった。
「オーケー」
そう言って通話が切れた。