これは、迂闊なことは言えない。

「リリーは大学を卒業したらベルリンに行くって言っている」

 それはわたしも聞いている。前にお茶したとき、リリーは別に住む場所はロンドンでなくても構わないと言っていた。

 リリーは自らを風船のような、と形容する。面白そう、という理由でイギリスの美大に入りなおしたくらいだ。どこか別の場所が面白そうだと思えば、きっと彼女はそこへ行くのだろう。

 おそらくダニエルはリリーが色々な土地を話題にするたびに不安に思っていた。
彼女がイギリスから離れて行ってしまうと予感して。

「え、ええと」

 何を話していいのか分からないまま、わたしの口から言葉にならない相槌だけが滑り落ちる。

大学卒業間近のとある日、凛々衣は突如「わたしイギリスの美大に入りなおすわ」と宣言したのはまだ記憶に新しい。あのときもものすごくびっくりした。リリー、美大なら今在籍していて、何ならもうすぐ卒業するよね、と聞き返したくらいだ。

 リリーはあのとき「うん。でもなんか違ったから、別の場所でもう一回やり直してみたくなって」とあっさり言い放ち、渡英してしまった。

「英語で話すのが難しいならわたしが訳してあげるけど」

 マコさんが固まっているわたしにそっと日本語で話しかけてきた。
 今言葉に窮しているのは、別に言語問題だけではないのだけれど、確かにわたしの拙い英語では伝わる言葉にも限界がある。

 自分の英語力の問題とプライドを天秤にかけて、わたしはそれを放り出した。
 ダニエルは真剣なのだ。わたしはちゃんと彼に言葉を伝えるべきだ。

「お願いします」
 わたしは頷いて、一度水を口に含んで喉を湿らせた。
 それから日本語で話し始める。

「えっと。凛々衣はたしかに自由な気質というか、ある日突然に物事をぱっと決めて行動に移しちゃう子だけど。それでも自分の嫌いな人と付き合うとかはしない子だし、ちゃんとダニエルのことも好きだと思います」

 わたしの話した言葉を真子さんが英語に直してダニエルに伝えてくれる。

「彼女の世界は広い。僕は彼女に憧れているし、敬意を持っている。だから迷いもある。リリーを結婚という形で縛っていいものか」

 ダニエルの言葉の中で聞き取れなかったところがあって、うっすら眉を寄せたのが真子さんには分かったらしい。丁寧に日本語に訳してくれた。

 それを聞いて、わたしは感じた。彼も迷っているのだと。朴訥と話す彼は、リリーのことをきちんと考えているのだろう、彼女への遠慮が見え隠れしている。けれど、彼はリリーと一緒にいたいのだ。その苦悩が伝わってきた。

 ダニエルはリリーのことを深く想っている。それを考えると胸がきゅんとした。こういうふうに心を向けてもらえることに羨ましいと感じてしまう。
 ただ、彼の言葉を聞いても、それに対してわたしは何を言うべきなのか、即答はできなかった。

「やはり僕はプロポーズをすることをあきらめて、リリーがベルリンに行くのを見送るべきなのだろうか」
 ダニエルが切なそうに眉を寄せた。

「ちょっと」

 低い声がすぐそばで聞こえた。いつの間にかリリーがお手洗いから戻ってきていた。彼女はテーブル席のすぐ横で仁王立ちしてダニエルに鋭い視線を向けている。

「なにこそこそ話してんの。結婚したいならしたいってはっきり言えばいいじゃない。そうしたらわたしだってちゃんと真面目に考えるし。そりゃベルリンは面白そうだから行きたいけど!」

 リリーは強い口調ではっきりすっぱりダニエルを叱咤した。
「やっぱり僕から逃げるんじゃないか」
「考えが暗いよ、ダニエルは! もう、しっかりしなさいよね。わたしにプロポーズしたいんでしょう! 最初からそれでどうするのよ」
 いや、それリリーが言っちゃう? わたしはつい心の中で突っ込んでしまう。
 しかり、リリーの気迫のおされて誰も口出しが出来ない。
「じゃあする。今する。リリー、きみを愛している。僕と結婚してほしい。ベルリンも日本にも行っちゃいやだ。僕の側にずっといてほしい」
 愛しているという英語のフレーズは映画やドラマの中でしか聞いたことが無い。直球のプロポーズを間近で聞いてしまいわたしのほうが赤面してしまった。
 一方、本当にプロポーズをされたリリーは立ったまま硬直している。
 どうやら売り言葉に買い言葉で本気で言われるとは思っていなかったらしい。生気の抜けた顔をしている。
 一同がかたずをのんでリリーを見守っていると、店員がお盆を持って現れた。
 頼んでいた抹茶スイーツが到着した。
 抹茶アイス白玉小豆のせなどの各種デザートをテーブルの上に置いた店員が去っていく。