まだロンドンの土地勘はあまりないけれど、カムデンタウンへ帰るならノーザンラインのトッテナムコートロード駅かレスタースクエア駅に出れば乗り換えなしで帰ることができる。

「駅、こっちだ」
「……」

 定期的にロンドン出張に来ている駿人さんの方が中心部の道に詳しかった。
 彼に駅までの道案内をしてもらうのが少々悔しくて、わたしはつい尖った声を出してしまう。

「名刺交換したんだから今度一緒にご飯行けばいいじゃん。ヨーロッパに駐在する者同士話も弾むでしょ」
「俺は別に真子と食事に行くつもりもないよ」

「友達なんだから行けばいいじゃん」
「沙綾が気にすることは、俺はしたくない」
「別に、彼女と昔何があったかなんて、わたしは気にしないし。同じヨーロッパ在住なんだから、友好でもなんでも深めればいいじゃん」

 つい反射的に答えてしまう。しかもだいぶ可愛くない言い方だ。
 わたしが何について言ったのか彼は理解したらしい。しばし視線を宙に彷徨わせ、そのあと口を開く。

「俺と真子は大学の時付き合っていた。卒業してからも少しの間続いていて、お互い仕事が忙しくて疎遠になってフェードアウトした。そういう相手と沙綾の知らないところで会うのは違う気がする」
「わたしにいちいち説明してくれなくていいよ」

 そうだろうな、とは思っていたけれど、いざ本人の口から聞くと自分でも驚くほど胸が痛んだ。

「だって沙綾機嫌悪いだろ」
「別に機嫌悪くない。駿人の元カノが何人出てこようともわたしには関係のないことだし」

「じゃあなんで」
「わたしが怒っているのは、真子さんにわたしたちのこと婚約者同志だとか、祖父同士が決めた縁談だとかそういうの全部言っちゃったってことに対して」

 本当は、真子さんへのけん制の材料に自分が使われたことも面白くなかった。
 わたしへの気持ちなんてないくせに、その場でこうしたほうが上手く収まるから、という理由で彼はわたしを理由に使ったからだ。
 真子さんの前でわたしたちが婚約云々の話を始めてしまったこともあり、駿人さんは尋ねられるままに、わたしたちの馴れ初めや許嫁について話してしまった。

 確かに家族公認の間柄ではあるけれど、そこにわたしの意思なんてないのに。

「今更秘密にすることもないだろう。ここで隠しておいて、真子が妙な気起こしてもお互いに気まずいだけだし」
「うっわ。そういう自意識過剰なところ、さすがもてる男は考えることが違うよね」

 駅にたどり着いてもわたしたちの口論は続いていた。
 電車がプラットホームに滑り込んでくる。

「送ってくれなくていいよ。外はまだ明るいし」
 この時期、夜十時近くまで日は沈まない。
「駄目だ」

 保護者だから? と口から出そうになる。ああだめ。真子さんの存在がどうしても頭の片隅でチラついてしまう。

「沙綾。せっかくロンドンで会えたんだから機嫌直せ」
「わたしはいたって平常です」
「沙綾」

 それからは無言だった。
 カムデンタウンに到着して、改札を出てフラットまで、駿人さんは律儀にわたしを送り届けてくれた。

 フラットはもうすぐ目と鼻の先。こんな風に口論するはずじゃなかった。
 昨日駿人さんから連絡貰ったとき、本当はとても嬉しかった。今日だって、朝からずっとそわそわしていた。

 何を着ていこうって、ううん。新しく買ったワンピースのことしか頭になかった。旅行中はずっとラフな格好ばかりだったから、少しは違う雰囲気のわたしを見てもらいたかった。

 駿人さんがわたしのことを単なる幼なじみくらいにしか思っていないことくらいちゃんと理解しているはずなのに。
 彼の結婚相手に求めるものだって、最初から分かっていたし、元カノを牽制するためにわたしを使ったことだって理解していた。

 けれども、わたしの中の、もう一人のわたしが駄々を捏ねる。
 わたしはあなたにとって都合のいい許嫁ではない。

「……沙綾」
 フラットの玄関の目の前で、駿人さんに呼ばれた。

「送ってくれてありがとう。おやすみ」

 わたしは早口でお礼を言って玄関を開けて中へ入った。彼の顔は見なかった。

「……ばかだな、わたし」
 内廊下にずるりと座り込み、それだけ呟いた。

 * * *

 翌日もわたしの心は晴れないままだった。
 些細なことで嫌な態度を取ってしまって、そのまま彼とは連絡を取っていない。
 自分が大人げないことくらい十分承知している。

 人のことを突然婚約者みたいに扱った駿人さんに戸惑って、それから真子さんの存在にも心を揺さぶられた。彼女はわたしの知らない駿人さんを知っている。

 同級生というだけでわたしのコンプレックスを刺激するには十分なのだ。彼女は、簡単に駿人さんの隣に立つことができるのだから。