「やっとって、俺たちまだ三十だろ」
「わたしは来月で三十一だからね。それに、同期で早くに海外赴任が決まった男性は二十七だったんだから」
悔しそうに唇を尖らせた真子さんはそれから一転、元ゼミ仲間の近況に話題を移した。誰それが結婚したとか、誰に第一子が生まれたとか、二人にしか分からない会話を続けていく。
彼女の弾んだ声の中に優越感が混じっていると考えてしまうのは、わたし思考回路がひねくれているからだろうか。
駿人さんは真子さんの言葉に「へえ、あいつが」とか「三津も父親になったのか」とか感想を漏らしていく。
「日本にいたときは定期的にみんなと飲み会したりしているんだけどね。わたしもしばらく参加できそうもないから帰ったら置いてきぼり感半端ないかも」
わたしは二人の会話を聞きながらピムスをちびちび飲んでいく。
「駿人はよくロンドンには来るの?」
「年に二、三度かな」
「次の出張の時教えてよ。ごはん一緒に行こう。わたしまだこっちに知り合いいなくて」
「結構忙しいから、時間が取れたら連絡する」
「あ、じゃあ名刺渡しとくね」
真子さんが鞄の中から名刺入れを取り出した。そこから即席名刺交換が始まった。といっても彼女が欲しいのは駿人さんのものだけだろう。
彼女はわたしにもついでとばかりに名刺をくれた。CMで流れている有名なエネルギー会社の名前が印字されている。
「ありがとうございます。でもわたしいまは何も持っていなくて」
「あら、そうなの。ええと、沙綾さんだったわよね」
一応、わたしの名前を憶えてくれていたらしい。彼女の興味がわたしに移ったのを敏感に感じ取った。
「沙綾、それうまい?」
ふいに駿人さんが話しかけてきた。それどころか彼はわたしの返事も待たずにグラスを抜き取って自身の口元に持って行く。
「甘いけど後味さっぱりだな。きゅうりは余計だけど」
わたしが今飲んでいるピムスはイギリスのお酒で、夏場になるとスライスされたきゅうりとレモンが入って供されるらしい。細長いグラスの中では確かにレモンときゅうりが同居している。
「やっぱり。ちょっと変だよね」
駿人さんと同じ感想でちょっとだけ嬉しくなる。
「ああそれ、どこの店でも頼むと大体きゅうりが入っているみたい。名物らしいわよ」
真子さんがさらりと会話に加わった。
「そういえば、まだ聞いていなかったんだけど、沙綾さんと駿人って何繋がりなの?」
口調はやわらかくてさりげないのに、わたしをじっと見据える瞳には妙な迫力があった。
「沙綾は俺の婚約者」
何の気負いもなく、駿人さんはさらりと口にした。明日のロンドンは晴れのち雨だと報告するような口調だから、わたしのほうがびっくりして固まってしまう。
目の前では真子さんが中途半端に口を開けて、同じく硬直している。
「……あら、そうなの。おめでとう」
真子さんはすぐに笑顔を取り繕い、形式ばった言葉を口にする。
「じゃあ、こっちには旅行というより駿人の元へ引っ越してきたのかしら。でも駿人、いまフランクフルトに住んでいるんだよね?」
まさか彼の出張にまでついてきたの、と言いたげに真子さんは少し大げさに眉根を寄せた。
「沙綾は今ロンドンに住んでいる友人の元に居候しているんだよ」
「失礼ね。ちゃんと家賃は払って、正当に住んでいます!」
「留学しているの?」
「いえ。単に旅行です。春に会社を辞めたので」
とそこまで言って、わたしは慌てて「もちろん日本に帰ってからちゃんと転職活動しますから」と付け加えた。
わたしは、駿人さんがその台詞を聞いて、一瞬苦い薬を飲んだような顔をしたことに気が付かなかった。
「沙綾」
「なによ」
彼がわたしを諫めるような声を出すから、反射的に警戒心丸出しの声になってしまう。
あれほど、婚約のことはどうなったのだろうとか、悩んでいた癖に、いざ彼の口からその言葉が出ると反発してしまいたくなる。
わたしたちの視線が絡み合う。彼の真意は読めない。いつだってそうなのだ。
彼の本音なんて、わたしには読み取ることなんてできない。
「あらやだ。訳あり?」
わたしたちを観察していた真子さんが少し面白そうに身を乗り出した。
* * *
「どうしてあそこで否定するんだよ」
真子さんと別れたあと、二人で歩き出した途端駿人さんが不機嫌そうな声を発した。
「そっちこそ、どうしてわたしのこと婚約者、だなんて紹介するのよ。わたし、一度だって承諾していないのに」
「あれは……、なんていうか。真子の手前そっちのが楽だったというか」
言い方にカチンとして、わたしは無言で歩幅を広めた。
「わたしは来月で三十一だからね。それに、同期で早くに海外赴任が決まった男性は二十七だったんだから」
悔しそうに唇を尖らせた真子さんはそれから一転、元ゼミ仲間の近況に話題を移した。誰それが結婚したとか、誰に第一子が生まれたとか、二人にしか分からない会話を続けていく。
彼女の弾んだ声の中に優越感が混じっていると考えてしまうのは、わたし思考回路がひねくれているからだろうか。
駿人さんは真子さんの言葉に「へえ、あいつが」とか「三津も父親になったのか」とか感想を漏らしていく。
「日本にいたときは定期的にみんなと飲み会したりしているんだけどね。わたしもしばらく参加できそうもないから帰ったら置いてきぼり感半端ないかも」
わたしは二人の会話を聞きながらピムスをちびちび飲んでいく。
「駿人はよくロンドンには来るの?」
「年に二、三度かな」
「次の出張の時教えてよ。ごはん一緒に行こう。わたしまだこっちに知り合いいなくて」
「結構忙しいから、時間が取れたら連絡する」
「あ、じゃあ名刺渡しとくね」
真子さんが鞄の中から名刺入れを取り出した。そこから即席名刺交換が始まった。といっても彼女が欲しいのは駿人さんのものだけだろう。
彼女はわたしにもついでとばかりに名刺をくれた。CMで流れている有名なエネルギー会社の名前が印字されている。
「ありがとうございます。でもわたしいまは何も持っていなくて」
「あら、そうなの。ええと、沙綾さんだったわよね」
一応、わたしの名前を憶えてくれていたらしい。彼女の興味がわたしに移ったのを敏感に感じ取った。
「沙綾、それうまい?」
ふいに駿人さんが話しかけてきた。それどころか彼はわたしの返事も待たずにグラスを抜き取って自身の口元に持って行く。
「甘いけど後味さっぱりだな。きゅうりは余計だけど」
わたしが今飲んでいるピムスはイギリスのお酒で、夏場になるとスライスされたきゅうりとレモンが入って供されるらしい。細長いグラスの中では確かにレモンときゅうりが同居している。
「やっぱり。ちょっと変だよね」
駿人さんと同じ感想でちょっとだけ嬉しくなる。
「ああそれ、どこの店でも頼むと大体きゅうりが入っているみたい。名物らしいわよ」
真子さんがさらりと会話に加わった。
「そういえば、まだ聞いていなかったんだけど、沙綾さんと駿人って何繋がりなの?」
口調はやわらかくてさりげないのに、わたしをじっと見据える瞳には妙な迫力があった。
「沙綾は俺の婚約者」
何の気負いもなく、駿人さんはさらりと口にした。明日のロンドンは晴れのち雨だと報告するような口調だから、わたしのほうがびっくりして固まってしまう。
目の前では真子さんが中途半端に口を開けて、同じく硬直している。
「……あら、そうなの。おめでとう」
真子さんはすぐに笑顔を取り繕い、形式ばった言葉を口にする。
「じゃあ、こっちには旅行というより駿人の元へ引っ越してきたのかしら。でも駿人、いまフランクフルトに住んでいるんだよね?」
まさか彼の出張にまでついてきたの、と言いたげに真子さんは少し大げさに眉根を寄せた。
「沙綾は今ロンドンに住んでいる友人の元に居候しているんだよ」
「失礼ね。ちゃんと家賃は払って、正当に住んでいます!」
「留学しているの?」
「いえ。単に旅行です。春に会社を辞めたので」
とそこまで言って、わたしは慌てて「もちろん日本に帰ってからちゃんと転職活動しますから」と付け加えた。
わたしは、駿人さんがその台詞を聞いて、一瞬苦い薬を飲んだような顔をしたことに気が付かなかった。
「沙綾」
「なによ」
彼がわたしを諫めるような声を出すから、反射的に警戒心丸出しの声になってしまう。
あれほど、婚約のことはどうなったのだろうとか、悩んでいた癖に、いざ彼の口からその言葉が出ると反発してしまいたくなる。
わたしたちの視線が絡み合う。彼の真意は読めない。いつだってそうなのだ。
彼の本音なんて、わたしには読み取ることなんてできない。
「あらやだ。訳あり?」
わたしたちを観察していた真子さんが少し面白そうに身を乗り出した。
* * *
「どうしてあそこで否定するんだよ」
真子さんと別れたあと、二人で歩き出した途端駿人さんが不機嫌そうな声を発した。
「そっちこそ、どうしてわたしのこと婚約者、だなんて紹介するのよ。わたし、一度だって承諾していないのに」
「あれは……、なんていうか。真子の手前そっちのが楽だったというか」
言い方にカチンとして、わたしは無言で歩幅を広めた。