生姜焼き定食を完食した駿人さんが再び口を開く。
「サヤちゃん、最初はホテルに泊まるってメールに書いてあったけど、そのあとは俺のうちに来る? 一応泊まれるようにはしておいたけど」
これは、さっさと本題に入るべきだ。
彼には、ドイツに行くので時間を空けてほしいとメールで連絡しただけだ。
わたしは鞄の中からクリアファイルを取り出した。中の書類を抜き取って、駿人さんに手渡した。
「これ、渡したくてドイツまで来たんです。とりあえず、読んでください。そしてサインください」
駿人さんが書類に視線を落とした。
「許嫁解消同意書って読めるけど。どういう意味?」
「そのままの意味です。わたしたちのおじいちゃんたちが勝手に決めて盛り上がっちゃった許嫁の件。これを解消したくて駿人さんに会いにドイツまで来ました。おじいちゃんに口頭で説明しても納得してもらえないかもしれないし。連名で署名した書類見せたら納得するのではないかと」
「そんなことのためにわざわざドイツまで?」
「このあとは普通に旅行して、最後はイギリスに住む友達のところに行くのでわざわざ、ではないですよ」
わたしはにこりと笑った。仕事を辞めたご褒美がてら、ちょっとヨーロッパを周遊しようかと、計画を練ったのだ。
初一人旅が周遊旅行とは我ながら無謀だが、わたしだって今年二十六歳になるいい大人だ。大丈夫、なんとかなる。
「サヤちゃん、俺と婚約解消したいんだ。いま、彼氏いたりする?」
「許嫁の件は解消したいですけど、彼氏はいません。というか、仕事が忙しすぎて作る暇がありませんでした」
「敬語」
「すみません。社会人になってこれが癖になっちゃって。駿人さん、年上ですし」
「俺はてっきり会社辞めて本格的にドイツに移住する決意をしたものだと思っていたんだけど」
「いやいやいや、まさか。だって、わたしたち付き合ってませんよね?」
わたしは胡乱気に駿人さんを見つめた。
「付き合ってはいないけど、俺もそろそろ考え時だな、とは思っていた」
「はあ……」
ため息しか出てこない。何が考え時なのだろう。
「俺も今年三十一になるし。そろそろ結婚したいなって思っていたから。実際、次日本に一時帰国した時にでもサヤちゃん説得しようと思っていたし」
「ええと……」
わたしの思考が一時停止する。
わたしと駿人さんの関係を一言で言うなら、ずばり幼なじみ一択だ。
五歳離れているものの、小さいころから知っている仲なのだからこの言葉が一番しっくりくる。昔から家族ぐるみでのお付き合いが続いていた。
わたしも駿人さんもお互いの両親というか、祖父母世代まで知っているし、互いの家族に可愛がられて育ってきた。
駿人さんはそろそろ考え時だと言った。何を考えるというのだろう。答えを聞きたいような聞きたくないような。
「サヤちゃんの仕事、理臣さん心配していたよ。あれは最近はやりのブラック企業というやつなんじゃないか、とか。やりがいの搾取で社畜で過労死がどうとか。ま、たしかに話聞いていると俺も心配するくらいには働きまくっていたよね。ワークバランスは大事だよ」
駿人さんはさりげなくおじいちゃんの名前を出した。
「あの環境から孫を救い出せるのは駿人くんしかいない。どうか、うちの孫をよろしく頼むって」
「おじいちゃん……」
余計なことを。人の知らないところで何を言ってくれているの。
確かにわたしは、ちょっと……いや、かなり働き過ぎな社会人生活を送っていた。
いたけれども! それと駿人さんは関係ない。
「ナニ勝手にひとの家の祖父とやりとりしているんですか」
「メル友だから。なんか今俳句にはまっているらしくて、色々と新作を送ってきてくれるんだよ。そのついでにサヤちゃんの近況も書いてきてくれる」
「ひ、人のプライバシーをなんだと……」
「俺も心配するくらいにはブラックな企業だったのに、よく辞めたね。というかよく洗脳からとけたね」
「いろいろあったんです」
わたしは水を一口飲んだ。
駿人さんが先を促してきたから、再度口を開く。
「先輩が妊娠したんです。たしか、三十二歳で」
確かにわたしの入社した会社は忙しかった。二十二時を越えての貴社は当たり前。むしろ早い方で、大抵は終電間近に慌てて会社を出るような生活だった。
前々からちょくちょく友人たちからも言われていた。「それってブラックじゃない?」って。
そういうときわたしは「そんなことないよぉ~」と、にへらっと笑って受け流していた。
毎日朝から晩まで馬車馬のように働いて、休日は掃除と洗濯をして六畳のワンルームの部屋でぼおっとしていたらあっという間に夕方になって、友人と会う機会もめっきり減っていった。
そんなときだった。先輩が妊娠した。わたしは純粋に喜んだ。
「サヤちゃん、最初はホテルに泊まるってメールに書いてあったけど、そのあとは俺のうちに来る? 一応泊まれるようにはしておいたけど」
これは、さっさと本題に入るべきだ。
彼には、ドイツに行くので時間を空けてほしいとメールで連絡しただけだ。
わたしは鞄の中からクリアファイルを取り出した。中の書類を抜き取って、駿人さんに手渡した。
「これ、渡したくてドイツまで来たんです。とりあえず、読んでください。そしてサインください」
駿人さんが書類に視線を落とした。
「許嫁解消同意書って読めるけど。どういう意味?」
「そのままの意味です。わたしたちのおじいちゃんたちが勝手に決めて盛り上がっちゃった許嫁の件。これを解消したくて駿人さんに会いにドイツまで来ました。おじいちゃんに口頭で説明しても納得してもらえないかもしれないし。連名で署名した書類見せたら納得するのではないかと」
「そんなことのためにわざわざドイツまで?」
「このあとは普通に旅行して、最後はイギリスに住む友達のところに行くのでわざわざ、ではないですよ」
わたしはにこりと笑った。仕事を辞めたご褒美がてら、ちょっとヨーロッパを周遊しようかと、計画を練ったのだ。
初一人旅が周遊旅行とは我ながら無謀だが、わたしだって今年二十六歳になるいい大人だ。大丈夫、なんとかなる。
「サヤちゃん、俺と婚約解消したいんだ。いま、彼氏いたりする?」
「許嫁の件は解消したいですけど、彼氏はいません。というか、仕事が忙しすぎて作る暇がありませんでした」
「敬語」
「すみません。社会人になってこれが癖になっちゃって。駿人さん、年上ですし」
「俺はてっきり会社辞めて本格的にドイツに移住する決意をしたものだと思っていたんだけど」
「いやいやいや、まさか。だって、わたしたち付き合ってませんよね?」
わたしは胡乱気に駿人さんを見つめた。
「付き合ってはいないけど、俺もそろそろ考え時だな、とは思っていた」
「はあ……」
ため息しか出てこない。何が考え時なのだろう。
「俺も今年三十一になるし。そろそろ結婚したいなって思っていたから。実際、次日本に一時帰国した時にでもサヤちゃん説得しようと思っていたし」
「ええと……」
わたしの思考が一時停止する。
わたしと駿人さんの関係を一言で言うなら、ずばり幼なじみ一択だ。
五歳離れているものの、小さいころから知っている仲なのだからこの言葉が一番しっくりくる。昔から家族ぐるみでのお付き合いが続いていた。
わたしも駿人さんもお互いの両親というか、祖父母世代まで知っているし、互いの家族に可愛がられて育ってきた。
駿人さんはそろそろ考え時だと言った。何を考えるというのだろう。答えを聞きたいような聞きたくないような。
「サヤちゃんの仕事、理臣さん心配していたよ。あれは最近はやりのブラック企業というやつなんじゃないか、とか。やりがいの搾取で社畜で過労死がどうとか。ま、たしかに話聞いていると俺も心配するくらいには働きまくっていたよね。ワークバランスは大事だよ」
駿人さんはさりげなくおじいちゃんの名前を出した。
「あの環境から孫を救い出せるのは駿人くんしかいない。どうか、うちの孫をよろしく頼むって」
「おじいちゃん……」
余計なことを。人の知らないところで何を言ってくれているの。
確かにわたしは、ちょっと……いや、かなり働き過ぎな社会人生活を送っていた。
いたけれども! それと駿人さんは関係ない。
「ナニ勝手にひとの家の祖父とやりとりしているんですか」
「メル友だから。なんか今俳句にはまっているらしくて、色々と新作を送ってきてくれるんだよ。そのついでにサヤちゃんの近況も書いてきてくれる」
「ひ、人のプライバシーをなんだと……」
「俺も心配するくらいにはブラックな企業だったのに、よく辞めたね。というかよく洗脳からとけたね」
「いろいろあったんです」
わたしは水を一口飲んだ。
駿人さんが先を促してきたから、再度口を開く。
「先輩が妊娠したんです。たしか、三十二歳で」
確かにわたしの入社した会社は忙しかった。二十二時を越えての貴社は当たり前。むしろ早い方で、大抵は終電間近に慌てて会社を出るような生活だった。
前々からちょくちょく友人たちからも言われていた。「それってブラックじゃない?」って。
そういうときわたしは「そんなことないよぉ~」と、にへらっと笑って受け流していた。
毎日朝から晩まで馬車馬のように働いて、休日は掃除と洗濯をして六畳のワンルームの部屋でぼおっとしていたらあっという間に夕方になって、友人と会う機会もめっきり減っていった。
そんなときだった。先輩が妊娠した。わたしは純粋に喜んだ。