デザートのチョコレートケーキとラズベリーソルベまできっちり完食したらお腹いっぱいになった。甘さ控えめでラズベリーの酸味も相まってするりと入ってしまった。

 会計を済ませて外に出ると、昼間よりもいくぶん冷たくなった風が肌を撫でる。
 太陽の光はとても強いのに、日が沈むと空気はひんやりする。

「沙綾、寒くない?」
「ん、平気」

 むしろ心地がいいくらい。
 隣を歩く駿人さんは最初の頃のように早歩きではなくて、ちゃんとわたしのペースに合わせてくれる。

 そういえば酔っぱらって自分から手を繋いだのに、次に彼の方から手を繋いできたときびっくりしちゃって大げさに反応しちゃったんだっけ。
 そのせいもあってか、駿人さんはとてもお行儀が良かった。うっかり同室になってもわたしにはまるで関心がないんだもん。

 あれ、地味にへこんだな。わたしだって、一応二十五歳だし、彼氏だって過去にはいたことがあるから、初心ってわけでもないんだけれど。
 結局、駿人さんの中でわたしは単なる幼なじみなんだよね。
 わたしはそっと彼を見上げた。

「どうした?」
「……水買おうかなって」

 最近、駿人さんはわたしの視線によく気が付く。
 慌てて目についた店を示した。彼は「じゃあ俺も」と言って、二人して方向転換。

 日本のコンビニのような店がスペインにもたくさんある。飲み物やお菓子やお酒、ちょっとした雑貨が所狭しと並べてある。

 買い物が済んで、歩けばホテルはもう目と鼻の先。
 夜の風がわたしの心を撫でていく。
 二人で眺める夜空も今夜が最後なのだと思うと、これまでの思い出がぱちぱちとシャボン玉のように浮かんでは弾けていく。

「楽しかったな。最初はさ、なんでこんな男と一緒に旅行なわけ? マジありえないんだけどって思っていたのに、なんだかんだと一緒に過ごしていって。楽しくなっていて。今は、駿人と一緒に旅行出来てよかったって思っている」

「喧嘩したもんな」

 駿人さんがくつくつと思い出し笑いをする。
 その眼差しが温かくて、それだけでわたしの胸がいっぱいになる。

 変なの。これは、小さなころの拗らせた気持ちの延長線?

 憧れだったお兄ちゃんはもうここにはいない。すぐそばいるのはわたしよりも少し年上の男性。一緒に旅をしてお酒を飲んで、ときには口論をして。

「でも、俺も楽しかった。思いがけずいろんな国を旅して」
「わたし……こんなふうに駿人さんと話ができるようになるなんて思わなかった」
「俺も」

 嬉しいな。素直にそう思う。今の距離感も彼の言葉も何もかも。
 だからかもしれない。わたしはとっておきの秘密を口に乗せてしまう。

「わたしね、駿人さんが……たぶん初恋だったんだよね」

 躊躇いは一瞬で、それを乗り越えれば、その先はするりと口から滑り出た。
 ずっとずっと消化不良だったわたしの気持ち。

 あなたは絶対に気が付いていなかったでしょう。
 わたしは心の中でそっと舌を出した。

 お腹の奥も奥で長年しこりのようになっていたそれを吐き出してしまうと、存外にあっけなかった。
 それなのに、今とてもすっきりしている。

「え……」

 代わりに駿人さんの顔が固まってしまった。この人のこんな顔を見るのは初めてかもしれない。まるで宇宙人が盆踊りをしているところに遭遇してしまったような呆け具合だ。
 この人でもこんな抜けた顔するんだ。彼には悪いけれど、ちょっと面白い

「あー、うーん。ごめんね。急に。もう終わったことだもん。昔の話だし」

 わたしは一歩足を踏み出す。
 彼は立ち止まったまま。まだ思考回路がストップしているらしい。

「わたし、女子校だったでしょ。でも、女子校でもバレンタインとかってやっぱ憧れるわけで。わたし、なんでか駿人にチョコレートを渡したくなっちゃったんだよね。女子高生って変なところで行動力あるっていうか、考えなしっていうか、アホっていうか。まあ、なんていうか、受験の下見とか言い訳を心の中で盛大にして駿人の大学まで行っちゃったんだよね」

 お酒の勢いもあったのか、一度話すと口が軽くなるのか、ついいらないことまで暴露してしまう。
 これこそ本当にブラジルまで開通しちゃえるんじゃないかってくらい深い穴を掘って埋めたい過去の思い出。

 それを一気に放出してしまう。
 一応駿人さんのメールアドレスは知っていたし、大学生は二月になるとほぼ休みなることも耳に挟んでいた。だからわざわざ彼にメールんだっけ。今日は大学に来る日? とかなんとか。さすがに彼の家に行くのは勇気がいった。家に遊びに行くと彼の家族にもバレバレだから。

「なぁんで高校生の時って無駄に行動力あるんだろうね。大学の構内で駿人を見つけたの。駿人、女の人とチューしててさ。ああ、もう摘んだって思ったよね。そのまま引き返して、手に持ったチョコレートが重いのなんのって」

 大きなガラス窓に亀裂が入るときってこういう音を立てるんじゃないだろうか、というような音が自分の心から聞こえてきたような錯覚をもってわたしの淡い憧れはあのとき終わりを告げた。

 自分の知らない人を見てしまったようで、後ろめたいのとショックなのとが織り交ざり、あの日わたしはぐるぐると家の近所を意味もなく徘徊したのち帰宅した。

 あの日のように、今夜のわたしたちもちょっとだけ回り道。
 ライトアップしたサグラダ・ファミリアが目に飛び込んでくる。
 ひっそりとした夜空を割り割くように照らされた天高くそびえ建ついくつもの塔。
 駿人さんはいつの間にかわたしの隣に追いついている。

「帰ろうか」

 ふわりと唇を持ち上げる。
 駿人さんが何か言いたげに口を開こうしたから、わたしは首を小さく振った。
 彼の口から言葉が出ることは無かった。
 それでいい。わたしは単に思い出話をしただけだ。だから、この話に対しての感想は求めていない。

「ま、昔話だから。駿人さんも忘れてね」

 わたしたちは普段通りの距離のまま、ホテルへ帰った。
 ちなみに酒は飲んでいてもしっかりと記憶は残っているわけで。
 翌日のわたしはどうしてあんなことを言っちゃったのかと朝起きて一番にベッドの上でごろごろと悶絶してしまった。