「だったら、サーヤもこっちで働けばいいんじゃない?」
「それは……」

 オリヴィアは簡単そうに言うけれど、だいぶハードルが高い。まず、言葉の問題がある。
 英語だって簡単な言葉しか話せないのに、ドイツ語なんて絶対に無理。

「オリヴィアはエミールと離れていて、寂しくない?」

 わたしはちょっと興味があって聞いてみた。ドイツとスペインの遠距離恋愛。日本でだって遠恋が原因で破局の危機を迎えることが多いのに。国を跨いでの恋愛とか、わたしには想像もつかない。

「電話もあるし、こうして月に一度か二度会うからあまり気にしないわ」

 その答えがごく自然に出たものだと分かった。彼女は本心でそう思っているんだ。

「ハヤトと一緒に旅行して、楽しかった。けど、わたしもよく分からないんだ」

 わたしは心の中身をぽろりと吐き出していた。
 今日初めて会ったオリヴィアだからこそ、素直に口にしたのかもしれない。

「それって彼との関係をステップアップさせたいかどうかわからないって意味?」
「……うん」

 わたしはちらりと横目で駿人さんを盗み見た。
 彼との距離もわたしの心も、一言で表すのはとても難しい。
 だって、わたしは婚約破棄しにきたのに。中途半端な状況をどうにかしたくて、彼に会いに来たのに。

 思いがけず、一緒に旅行することになって。
 そうしたら、彼との関係がほんの少しだけ変わって。

 小さな頃はただ追いかけるだけだった駿人さんが、二十五歳になったわたしの隣にいる。後ろから彼の背中を見つめるのではなくて、横で同じスピードで歩いてくれている。

「難しいなあ」
「そう?」
 オリヴィアはきょとんとする。

「好きだって思えば、彼にそう言えばいいのよ」
「うううう」

 なんて明確な答えなんだろう。
 さっぱりとしたオリヴィアに、わたしはちょっといじわるな質問をぶつけてみたくなった。

「オリヴィアは、もしも、エミールからドイツに戻って来いって言われたらどうするの?」

 それは予想外の質問だったようで、彼女の目が一瞬大きくなった。
 けれど、それはほんの数秒のことで、彼女はやっぱり迷いなく言った。

「エミールがこっちに転職する方法もあるんじゃない? って提案するかも」
 オリヴィアのからりとした声と顔を、わたしは眩しく感じた。

 * * *

 エミールをアトーチャ駅まで送って、そこでオリヴィアとも別れた。
 わたしたちはソフィア王妃芸術センターに寄って、駆け足で有名どころの絵画を見てまわった。先ほど食べたチュロスの腹ごなしというわけだ。

 スペインのディナータイムはほかの国よりも少々遅い。さすがはシエスタのある国だ。
 始まりの遅い夕食だったが、そのおかげかお腹はしっかりと減っていて、わたしたちはマヨール広場近くにあるスペイン料理店へ入った。

 もちろん、目的は本場のパエリアを食べること。
 ムール貝やエビなどが載った本場のパエリアは魚介の出汁と塩気が食欲をそそり、美味しくて無心で食べ進めてしまった。

「あー、やばい。俺、スペインで暮らしたいかも」

 駿人さんはすっかりパエリアに魅了されたらしい。
 米も魚もうまくて天国だと、何度も繰り返していた。
 昼間もお酒を飲んだせいか、わたしもなんだか気分が良くなってきて、駿人さんの言葉にうんうん、と頷いた。

 美味しいものを共有できるって楽しいなあ。
 同じものを食べて、同じ時に笑って、感想を言い合って。
 目の前の駿人さんの視線がとても柔らかくて。彼の視線の先にわたしがいることに足元がふわついてしまう。

 レストランを出て肩と肩が触れ合いような距離で歩くのも、今ではすっかり当たり前になっていた。

 このまま彼にすべてを委ねてしまいたくなる。
 ああ酔っているな。
 ふわふわとした思考の隅っこで、冷静なわたしが指摘をする。
 ホステルに着いたらそれなりにいい時間で、日中歩き回った疲れが急に襲ってきた。
 わたしは何も考えずに二段ベッドの下にばたんと倒れ込む。

「沙綾。こら、きみは上だろ」
「んー……眠い」
「って、寝るな」

 横になると急に睡魔が襲ってきた。
 そういえば、駿人さんと一緒の部屋でも安心安全だったな。

 さすがは幼なじみだ。彼にとってわたしは妹のようなものだから、何も心配する必要はなかった。
 夢の入り口付近で、わたしはそんなことを考え、ほんの少しだけ胸の奥が痛んだ。

「沙綾、俺だってな……自制しているんだよ」

 んん……? ジセー……?
 一体何のことだろう。

 それよりも本気で眠い。今日はもうこのまま寝かせて。
 わたしは、そこで意識を手放した。

 * * *