他の人の迷惑にならないようにわたしの耳元で囁かれるから、そのたびにどぎまぎして正直言うと、説明どころではなかった。
 吐息がわたしの耳をかすめるたびに心臓がバクバクいって落ち着かないし、背中がぞわりとした。

 そういうのを駿人さんに悟られないため、わたしは国会議事堂に感動している風に大げさに頷いておいた。
 ツアーが終了する頃には、わたしのHPポイントは大幅に減っていた。

「大丈夫か? 顔色が悪いように思うけど」
「なんでもない……」
 ちょっと精神的に疲れただけだ。

「さあ、次は聖イシュトヴァーン大聖堂に行こうか。時間もないしさくさく行こうね」
 わたしは元気な声を出しておいた。

 * * *

 歩き疲れたわたしたちはブダペストの老舗カフェへとやってきていた。
 ウィーンにも劣らないきらびやかな内装で、黒いお仕着せをまとった給仕たちがきびきびと働いている。

 高い天上とシックな色合いのテーブル席に大きな窓はどこかのお屋敷然としていて自然と背筋が伸びてしまう。

「こんな素敵なカフェがあるんだからハンガリー人いいなあ」
「沙綾、昨日はウィーンの人いいなあって言ってたな」
「結論から言うとヨーロッパの人たち、めっちゃ羨ましい」

 わたしはケーキをぱくりと口の中に収めた。頼んだのはドボシュトルタと呼ばれる伝統的なケーキ。表面がキャラメルでコーティングされていて、中は何層にもチョコクリームが挟み込まれている。

「確かに甘いものが好きだと開き直った今、俺はめちゃくちゃ楽しい」
「そんなにも我慢していたの?」
「じいさんもだけど、蓮見家の男は甘いものが好きなんだよ」
「へえ……たしかに、駿人さんのおじいさんの家に行くと、流行のお菓子とか出してくれた気がする」

 わたしは在りし日を思い出す。これはどこぞこにニューオープンしたお店のものだとか、毎回色々なお菓子が用意されていた。そうか、あれはおじいさんの趣味だったのか。

「沙綾と一緒だと堂々とケーキが食べられるから今助かっている」
「わたしは一人カフェできるもーん」
「女性と一緒にしないでほしい」

 駿人さんはあっという間にドボシュトルタを食べきった。
 甘いものが好きなのが本心だと分かるくらい、気持ちの良い食べっぷりだ。わたしとしては、甘いもの好きな男性の方が気兼ねなくカフェに誘えるし、はしごもできるから嬉しいのだけれど。

 と、ここまで考えて慌てて振り払う。
 駿人さんがスイーツ男子でよかっただなんて、そんなことは思っていない。

「せっかくのハンガリーなのに結局ずっと雨だったなあ。それだけは残念」
 気をそらせるためにわたしは窓の外を眺める。

「沙綾、せっかく可愛い格好してきたのに。もったいなかったな」

 本当に、さりげない口調だった。
 わたしは思わず彼の顔を凝視してしまう。

「どうした?」
「だって……」

 とっさに下を向いた。ああもう、どうしてこの男は。
 駿人さんは黙ったままだ。どうやらわたしの次の言葉を待っているらしい。
 わたしは膝の上でぎゅっとこぶしを握った。なんだか、一人だけ自意識過剰なようだ。心を落ち着けようと、呼吸を整える。

「……駿人さんって割と簡単に可愛いとか言うんだなって……」
「褒めるくらい普通だろ」

 これまた通常温度の口調で返事が返ってきた。
 ええ、そうですよね。きっとあなたなら呼吸するくらい自然に女性を褒めんでしょうね。
 皮肉は胸の中に留めておく。

「だって、昔はちっとも愛想が無かったのに。今はそんなにも簡単なんだもん」
「昔っていつくらい昔のことだよ」

 どうしてわたしの口は余計なことを言ってしまうのだろう。
 ぷいっと横を向いた。

 これ以上話すと、もっと余計なことまで口走ってしまいそうだ。心の奥に仕舞いこんだ黒歴史まで。

 わたしはコーヒーをちびちび飲む。
 駿人さんは何も言わない。沈黙が流れて、なんとなく居心地が悪くなる。

 なにか、別の話題を探してみよう。
 とはいえ、今になって駿人さんの可愛い発言がわたしの身体を侵食していく。ちゃんと、今日の格好を見ていてくれたのだと思うと面映ゆい。その気持ちが血液を伝って全身を駆け巡っていくみたい。

「あ、雲が取れてきたあ」

 彼の声に合わせてわたしも窓の外を見た。
 あれだけ重たい灰色の雲が空を覆っていたのに、午後三時を過ぎた段階で薄日が差してきた。

「雨止んだのなら、お土産物を見がてら、ちょっと歩きたいな」
「そうだな。帰りの列車の時間までまだ少しあるし」

 わたしたちは会計をして外に出た。

 * * *