壮介は美術部に入ったと雷閃に告げた。英語の予習ノートを必死で書き写しながら壮介は美術部を語る。
「俺、美術室の絵の具のにおい、大好きなんだよね」
「あー、なんか酔いそうになるやつな」
「部員はあんまりいなかったけど先輩も顧問もめちゃくちゃ尊敬できるひとだったし」
「へー。あっ、そこ、一行間違えて写してんぞ」
「あ⁉」
 雷閃の予習ノートをカレーパンで買った壮介は午後の英語の授業のために手を動かし、同時に口も動かす。
「やっぱさ、俺はきれいなものが好きだなって思ったよ。絵でも彫刻でも、なんでもそう。建築物も空間も写真も文章も音楽も料理も、いいなって思うものはきれいなものなんだよ。きらきらしてるとかそういう意味じゃないよ。真っ暗な夜を撮っただけの写真でも、右下にオレンジ色の日付があって、その瞬間に撮影者はそこを撮りたいって思う何かがあったんだなって考えると、なんかきれいだって思うんだよ」
「芸術的ってことか?」
「言い表すとしたらそうだと思う。でもそのときの撮影者の感情も、それを見た俺の感情も、『芸術的だ』とは思ってないんだよね。言葉にするなら『うわー!』とか『あー!』って感じ。あれだよ、さっきの古文で出てきた『おかし』ってやつ?」
「なんとなくわかるけど」
「言葉なんてあとからできたものじゃん? 感情が先にあって、それをあとから作った言葉に当てはめてるだけじゃんか。だから表現できないのは当たり前なんだよ。でも、そういう表現を、俺は物で伝えたいわけ」
「ふーん……難しそうだな」
「難しいよ。難しいし、大変だし、苦しいと思う。でも楽しいからやりたい」
 すべて書き写した壮介は晴れやかに笑っていた。彼は努力を裏切られたことがないんだ、と雷閃は思った。その「楽しい」はいつか「なんにもならない」に変わる。たいていの人間はそうして挫折する。
 でも、雷閃は壮介を眩しいと感じた。それはおそらく憧れであった。壮介のように挑戦する心を自分も持てたら、と。けれどその挑戦は恐ろしいものだ。
誰かの挑戦はひとに勇気を与えるが、並行して諦めも与える。「こんなに頑張れるのはこのひとの生まれ持った才能によるものだ」「私にはできない」「このひとでも失敗するなら僕には無理だ」と。
 何かに挑戦することを雷閃はいつでも避けてきた。挑戦には努力が必要になる。その苦しさを知っているのに、五月の空は雷閃を新しい場所に導こうとする。