その日の朝、壮介は掲示板に張り付けられた期末試験の日程を見て絶望的な声を上げた。壮介は英語が苦手だ。特にリーディングが苦手だ。英語の試験は最終日に割り振られていた。
「なんで最終日なんだよ……! 最後の日までずっと気が重いままじゃん……!」
 そこで雷閃は明日から試験期間に入るために部活ができなくなることに気づいた。壮介は美術部でのいざこざをさっぱり清算したらしく、試験期間に入る前に解決できてよかったと言っていた。しかしまさか、試験期間が明日からだったとは。
「あ、数学は初日か。壮介、ノート提出の準備はできてんのか?」
 雷閃が問うと壮介は「あっ」と息を飲むようにして背筋を伸ばした。
「やばい、今日提出だっけ。落書き消しとかないと……!」
 明日からほぼ二週間、部活がないのか。
 あれ以来、ハイルは雷閃にも永海にも接触をしていない。永海からハイルを呼び出すこともしていないらしく、今のところは無事でいる。
 試験期間中は永海に会う機会がない。一応、安否確認の連絡くらいはしておくべきだろうか。
 その日の授業内容は全て試験対策だった。今がいちばん試験範囲が狭いんだからな、とどの教師も言っていた。雷閃は世界史が苦手だ。カタカナの名前は覚えづらくて困る。
 授業が終わり、放課後、雷閃は数学のノートを全員分集めて職員室に持って行く役割を与えられた。「誰でもいい。じゃあ出席番号一番の奴」と数学教師でもあり、担任でもある柳先生がホームルームで雷閃を指名したのだ。
 全員分のノートは、正確には集まらなかった。数人のクラスメイトは忘れたから提出できないと言って嘆いていた。
 二十数冊のノートを持って雷閃は放課後、職員室に向かった。柳先生の机の上は乱雑で、いろんなものが散らかっている。
「先生、ノート持ってきました」
 雷閃がノートを見せると、柳先生は大雑把な動きで机にスペースをあける。そこにノートを置くと柳先生は雷閃の背中をぽんと叩いた。
「朝来、おまえ今、ちょっと変わった青春してるだろ」
 変わった青春ってどういうことだろう、と疑問に思った。だがここ最近のことを思い返すと、確かに変わった青春なのかもしれない、と妙に納得できた。柳先生はあと十年も経たないうちに引退する予定の、ベテランの教師だ。生徒の機微には聡いのだろう。
「そうですね。よくある青春に比べたら、変わってるのかもしれませんね。状況というか、環境というか、その辺だけを見れば、ですけど。でも俺と同じような悩みを抱えてるひとは大勢いますよ」
 雷閃が答えると、柳先生は「おっ」とからかうような目をした。
「なんだ、大人みたいなこと言いやがるな。なんか悩んでんのか」
「……参考までに先生にも聞いていいですか」
「おう、参考程度にアドバイスしてやるよ」
「柳先生はどういうときに『幸せだ』って思いますか」
 雷閃はネットで「幸せになるためには」と検索した。そうしたらいろいろな情報が出てきた。考え方を変えるとか、環境を変えるとか、神が宿った宝石を買うとか、様々な意見があった。
 だからわからなくなった。どうすれば永海は幸福な少女になれるのか。昼休みに図書室でそれっぽい本を探して読んでみても、永海の置かれている状況と合致する人間はいない。幼少期のトラウマとか、悪い思い込みへの対処についても書かれていたが、それは大人に向けた本だった。雷閃が、後輩として、同じ年ごろの生徒としてどう接すればいいのかは書いていなかった。
「はー、幸せ、ねぇ。そりゃあ、おまえ、わかるだろ? 俺みたいな大人がどういうときに幸せを感じるのか、予想くらいはできるだろ?」
「……生徒の成長を実感したとき、とか?」
「馬鹿、俺はそんな模範的な教師じゃねぇよ。俺はな、家に帰って冷えたビールを飲んだ瞬間が、いちばん幸せなんだよ。おまえもあと四、五年すりゃわかる。酒の力は偉大だってな」
 そう言って柳先生は豪快に笑った。なるほど、と雷閃はネットで見た意見と照らし合わせる。その中にも柳先生と同じく仕事終わりに飲む酒以上に良い物はない、と言っている大人がいた。
「まー、でもな。俺もわかんねぇな、何が幸せなのかなんてよ。俺が冷えたビールを飲んで幸せだって思えんのは、嫁がいつもビールを冷やしてくれてるからだ。そのビールを飲むための家に帰ることができるのは、昔の俺が家を建てたからだ。で、こうやって仕事ができて、生徒に慕われて、面倒くさくてもテストを作って、採点して、疲れて。だからビールが美味いんだろう。だったら本当に俺を幸福にさせているものはビールじゃねぇ気がするんだよな」
 柳先生は長い人生で、彼を幸福たらしめるものを獲得した、ということだろうか。それは正解に近い気もする。たったひとり、狭い部屋で寝て起きて、食事をして、適度な運動をして、時間になったら眠る。それを幸福だと感じ、また幸福だと感じ続けることが可能な人間はどれほど存在するだろうか。
 なにか、そのひとを幸福だと思わせる要因が必要なのは違いない。そして、外部からの攻撃を受けないよう対策もしなければならない。
「……難しい、ですね」
 雷閃が呟くと柳先生は面白いものを見る顔で机に肘をついた。
「理解することが? それとも幸福の実現が?」
「両方です。俺にはできることが少なすぎる。俺は貯金がないから先生みたいに家も買えないし、学生だから仕事が終わった後のビールの味を知ることもできない」
「だったら今のおまえが考える幸福について考えればいい。おまえが共感できないものは、どんなに知識を得たところで理解はできても共感はできない。おまえは今、どういうときに幸せだって感じるんだ」
 どういうとき。雷閃は自分の記憶に問う。罵倒された過去を忘れることができて、希望に希望を持てる瞬間……。雷閃が幸福を感じた場面は、そういう瞬間だった。そのときはいつなのか。最近そういう瞬間が増えてきたように思う。そういうときは、いつも。
「誰かが、笑っているとき、俺は幸せを感じています」
 雷閃のぼんやりした声に、柳先生は目を細めた。慈しむような視線。それは模範的な教師の瞳なのではないだろうか。
「朝来は優しい子だな。だが、おまえみたいな奴は他人の悪意の標的になりやすい。誰にでも優しく、みんなを笑顔に、なんて考えなくていい。おまえに優しくしてくれる人間にだけ愛情を注げ。おまえに敵意を向ける奴らはおまえの世界から排除していい」
 そのアドバイスは模範的な教師とは言い難いものかもしれない。だが今の雷閃には最適なアドバイスだった。
「なぁ、ところで。さっき、おまえは幸せを感じる瞬間は『誰かが笑ってるとき』って言っただろ。それってよ、もしかして誰でもないような『誰か』じゃなくて『特定の誰か』なんじゃないか?」
 柳先生は雷閃の父よりも年上のくせに、雷閃よりも年下の子供のような口調で揶揄する。雷閃はベテラン教師の思惑通り顔が熱くなるのを感じて、できるだけ愛想のない態度で「ありがとうございました」と言った。けれど反抗心は見透かされている。
「幸福の形は人それぞれだよ。でもな、無くなると悲しいと感じるものは、そいつを幸福にさせてるものだ。その対象は友達の場合もあるし、ビールの場合もある。共感はできなくていい。理解だけできればいい」
 少なくとも、永海がハイルを失って不幸になることはないだろうと、雷閃は思う。