次の日の放課後、壮介は少しだけ緊張した顔で部活に行った。それを見送って、雷閃も音楽室に向かった。永海のことだから、どうせ、なんにもなかった態度で接してくるだろう。それは構わない。だが雷閃は、なんにもなかっただなんて思っていない。
 音楽室の扉を開けると、すでに三人とも集合していた。そして、もうひとり。
「あら、今日は来れたのね。よかった、全員集合してくれたのね」
 星田先生だった。音楽の授業では二週間に一度、顔を合わせていたが、顧問として音楽室にいるのは初めて見た。
「おー、遅いじゃん」
 集団に加わると里穂子が雷閃に二枚のプリントを手渡した。見ると合唱用の楽譜だった。曲名の隣に「男声」と書かれている。見渡すとそれぞれみんな、同じように二枚ずつ手に持っていた。
「あのね、パート分けもできるようになったから、星田先生が指導してくれることになったの」
 永海が嬉しそうに言った。隣の琴は落ち着いた様子だが、どこかはしゃいだ雰囲気をまとっている。琴は中学のときも合唱部だったから、また歌えるとすれば嬉しいに違いない。
「朝来くんは男声パートね」
 星田先生はそれから、琴をソプラノ、永海と里穂子をアルトに振り分けた。雷閃が合唱曲を歌うのは中学の卒業式以来だ。
 一度聴いてみようか、と星田先生はラジカセにCDをセットした。どこかの合唱団の歌が音楽室に響く。雷閃は「これは」と記憶の中に同じメロディを見つけた。これは中学の卒業式で毎年、在校生が歌う歌だ。
「いい曲でしょ~」
 聴き終えた星田先生はうっとりとした顔で言った。雷閃は中学時代、なにかに熱中することもなく淡々と過ごしていた。そんな中で、唯一、雷閃の心を揺さぶったのはこの歌だった。
「これ、あたしも歌った! っていうか琴先輩が卒業するときも歌ってましたよね!」
 里穂子が言うと琴はうなずいた。
「えぇ、毎年卒業生が歌っていましたね」
「私も歌ったよ!」
 永海は自慢げに「琴ちゃんと一緒に歌ったんだよ」と話した。
「俺も卒業式で歌いましたけど、俺のとこは歌うのは在校生でしたね」
 雷閃は中学のころをあまり上手く思い出せない。思い出がないから、思い出すことができない。寂しい生徒だった。
「あらら? 里穂子ちゃんは琴ちゃんと永海ちゃんと同じ中学だったの?」
 星田先生はホワイトボードの前に立ち、マジックを手にした。大きく濃く、音階を書いていく。
「はい! あたしは琴先輩に憧れて合唱に興味持ったクチです!」
 里穂子の言葉に琴は戸惑う素振りをする。長い髪が不思議な揺れ方をする。
「わたしは……そんなに憧れてもらえるような人間ではないのですけど……」
「謙遜しなくていいんすよ! 琴先輩はすごいんです! って、あたしに言われてもって感じですよね……」
「あ、いえ、嬉しんです、けど……その、褒められ慣れていないもので……」
 里穂子と話すとき、琴はいつもの調子を崩されてしまうようだ。雷閃は今後、琴と対立することがあればその手法を使わせてもらおう、と決めた。
「はい、注目!」
 星田先生がホワイトボードを指して、楽譜が読めない里穂子に音階を教えた。いちばん下がド、と基本的なところから。雷閃もなんとなくでしか楽譜が読めないため、しっかり聞いておいた。
 それから星田先生はきちんとした指導を行ってくれた。腹式呼吸が大事、と言って自分が声を出しているときのお腹を生徒たちに触らせた。それから主に雷閃と里穂子に向けて、ピアノで音の高低を覚えさせ、声の出し方や姿勢まで指導した。
 楽しいと、雷閃は素直にそう感じた。競う相手もいない。努力を強要されることもない。目標は低く、達成を目的としない。雷閃はこういう、生ぬるくて、楽しいだけの時間が好きだ。
 だけどそればかりではいけない。雷閃は今日、ずっと注意深く永海を観察していた。そのあいだ、永海は一度も自ら不幸になりにいこうとしなかった。それはおそらく、雷閃を意識してのことではない。無意識に、この時間を楽しみすぎて、不幸の存在を忘れ去っているに違いなかった。
 だって、そうだろう。永海はひとつの不幸も知らないような顔で笑っていたのだ。
 それではいけないのかと、帰り道、雷閃はひとり考えた。いったいハイルは永海をどのような理由で脅しているのか。
 考えていたら、答えがそこにあった。長い金髪をひとまとめにした男。アンティックゴールドのスーツ。
 魔人ハイルは雷閃を人通りの少ない住宅街の方へと導いた。夕方に小雨が降ったらしく、アスファルトから特有のにおいがする。自転車を止めて雷閃はハイルと対峙した。