週が明けた月曜日。その日の放課後、第二音楽室には永海ひとりしかいなかった。雷閃が音楽室に入ると永海は少し怯えたように身を固くさせ、そして安心したように弛緩させた。
「よかった。もう来てくれないかと思った」
永海は先週、雷閃が出て行ったことを気にしていたようだ。
「そりゃ部員なんだから来るでしょ」
「うん、そうだよね。よかった」
心底安心したように永海は息をつく。雷閃が来るまで、彼女はひとり孤独と戦っていたのか。雷閃はいつもの席に座って話を変える。
「五月女先輩は?」
「今日は塾だって。模擬試験の対策」
「ふーん。安良田先輩って毎日俺より早く音楽室に来てますよね。掃除サボってるんですか?」
「さ、サボってないよ! 失礼だなぁ! 私はこの階の女子トイレが掃除場所だから、音楽室の鍵もらってから掃除して、そのままここに来てるの!」
「あぁ、そういう……」
雷閃が話題を変えたことで永海も声の調子を明るくした。これで解決したと思っているんだろう。今はそれでもいいけど。
「あと気になってたことがあるんですけど。星田先生、顧問なのに全然来なくないですか?」
星田先生は雷閃が入部した日以来、音楽の授業以外で見かけていない。校内でもすれ違わない。
「星田先生は非常勤の先生だからね。いつもはどこかの音楽教室? とかに行ってるらしいよ」
「だから会わないのか……。それにしたってもうちょっと部活に顔出してくれてもいいんじゃないですかね」
「うーん。でも来てくれても先生がすることって特にないし……。昔は文化祭に合唱部のステージがあったらしいけど、この人数じゃできないし。特に活動する目標がないんだよねぇ……」
永海はそう憂いて、音楽室の壁に貼られた賞状に目をやった。ずいぶん古く、色もあせた賞状は雷閃が生まれる前の年月日が書かれている。何の賞なのかはわからないが。
「この学校に熱心な部活ってないんですかね」
「天文部はよく星を見に行ってるらしいよ。キャンプとかもやってるって」
「へぇ、いいですね。でもちょっとだるそう」
「私もキャンプとか山登りは苦手だなぁ。あ、でもクラスの天文部の子が『山で見る星は本当にきれい』って言ってた。写真では味わえないんだって」
永海と普通に会話がきるようになったので、雷閃は探りをいれることにする。事態をどうこうしたいというよりも、これ以上NGワードに触れないようにするためだ。
「俺の友達は美術部なんですよ。作品の大会だかコンテストだかもあって、けっこう楽しそうにしてて」
「美術部かぁ。それも楽しそうだね」
「あいつはきれいなものが好きだって言ってました。姉ちゃんの真似して学校にメイクしてくるんですよ。そういえば、安良田先輩に兄弟はいないんですか?」
「いないよ。私はひとりっこだよ。朝来くんは?」
「俺もひとりっこですよ。兄弟欲しかったなーって思うときとかあります?」
「ん~。妹がいる友達見てると、いいなぁって思うことはあるよ」
自然に家族の話に持ちこめた。ここまでは大丈夫な話題らしい。雷閃は慎重に踏み込む。
「でも安良田先輩の方が妹って感じですけどね」
「う~ん、それは否めない」
「否めないんですか」
「うちで犬を飼ってるんだけどね。雑種のマリーっていうの。マリーは私のあとに生まれたのに、いっつも私のお姉ちゃんみたいな顔してるんだよね」
永海は楽しそうに家族の話をする。もう一歩、踏み込んでみる。
「マリーちゃんの散歩は先輩が行くんですか? それともご両親が?」
「日によって違うの。朝はだいたいお母さんが行くかな。お父さんと私が家を出たあと、マリーと買い物に行ってるんだ。私は学校がお休みの日に行くよ。お父さんも早く帰れたら『よし、マリー、散歩に行くか!』って張り切ってる。でも当のマリーが運動嫌いでね~。家の周りをちょっと歩いただけですぐ帰りたがるんだよ~」
くすくすと、永海は幸せそうに笑った。彼女の家族は仲がいいと判断して良いだろう。であれば、家族は永海の不幸を望まないはずだ。自分の娘が不幸な目に遭って喜ぶ親の話を、こんなに嬉しそうに話す子供はいないだろう。
「いい家族ですね。俺も両親と仲いいんですけど、俺がひとりでなんでもできるようになるのが寂しいらしいんですよね」
「あー、うちもそう。いつまでも私のことを幼児だと思ってるの!」
「いやそれはまぁ……そんだけドジっ子なら心配にもなるでしょうね」
かちり、と。永海の動きが一瞬のあいだ停止した。たった一瞬ではあるが、不自然な停止。雷閃は大きく踏み込むのをやめる。
「先輩って小さいころからドジっ子なんですか?」
「……えっと、そ、そうだった、かな~……。子供のころの記憶はあんまり覚えてないからなぁ~……」
嘘も下手なら誤魔化すのも下手な子だ。あからさまな動揺。どうやり過ごすかを考えているのだろう。もしも雷閃が優しい人間であれば、ここで何か助け舟を出すに違いない。しかし雷閃は優しい人間ではない。永海の次の言葉が繋がれるまで沈黙を貫く。
「んーと……あ、そうだ! そうそう、私、子供のころブランコから落ちたことがあって! お母さんが飛んできてすぐ病院に連れて行ってくれたの。頭も打ってないのに大げさだよね~!」
ようやく永海は誤魔化しの言葉を口にした。おそらく、永海の「ドジっ子」は子供のころにはなかった性質だ。彼女の、不幸を望む思想は生まれ持ったものではない。何かをきっかけに、永海は自分を「不幸であらねばならない存在」だと信じるようになった。
「娘がブランコから落ちたら心配にもなりますよ。先輩はお母さんに愛されていますね」
「そう、だね。うん、それは私も感謝してる」
「だったらどうして、お母さんが知れば悲しむようなことを自分からするんですか?」
「……っ!」
「お母さんだけじゃないですよ。お父さんも、マリーちゃんも。それから五月女先輩も。誰も先輩の不幸を望んでなんかないのに、なんであんたは不幸を望むんですか?」
雷閃の棘を持った言葉に、永海は固まった。小さな呼吸の音だけが耳に届く。本当は第一音楽室の方からいろんな楽器が好き勝手な音を奏でているのに。雷閃は永海の苦しそうな吐息だけを聞いている。
うるさい静けさだ、と雷閃は思った。永海は何も語ろうとしない。もう誤魔化せないことには気づいているだろうに。
「……朝来くんはさぁ、超常現象とかって、信じる?」
「……はぁ?」
暗澹たる顔つきで永海は雷閃を見上げる。ふざけている様子はない。
「UFOとかUMAとか、幽霊とか魔術師とか怪物とか。そういう信じられないものに遭遇したら、朝来くんはどうする?」
「ど、どうするって……あり得ない仮定の話をされても……」
「……そうだね、あり得ないよね。ごめんね」
諦めと自嘲の混じったため息をついた永海に、雷閃は「でも」と言った。
「信じざるを得ないとしたら信じます。もしかして先輩……あれですか。オカルト好きなんですか?」
「ううん、大嫌い。怖い話なんて聞きたくない。ホラー映画なんて絶対観たくない。誰かがひどい目に遭うおはなしなんて大っ嫌い」
もう帰るね。
永海は雷閃にそう告げて席を立った。いつも笑顔でどこか抜けている永海が、今は冷たい人形のようだ。
「ごめんね、鍵閉めといてくれる?」
こちらを見ずにそう言うと永海は出て行った。雷閃は予想以上にあの子が大きなものを抱えていると知った。あの小さな身体で、何をひとりで抱えているというのだろう。
興味と同情。雷閃の中にあるものはそれだけだ。だったら関わって面倒なことにならない方がいい。雷閃は平穏な合唱部に入部して、平和にこの学校を卒業しなければならない。
ぼんやりと窓の外を見ていたら、校舎から永海が出てきた。そのまま校門で立ち止まり、お辞儀をした。
植え込みで隠れて見えないが、そこに誰かがいるらしい。永海の首の角度からして琴ではない。琴以上の身長となると、確率が高いのは男子生徒か大人だ。お辞儀をするということは家族ではないはず。
永海は校門でそのひとと少し会話をしたのち、学校をあとにした。
雨が降りそうだ。今日も永海は傘を持っていないのだろう。