──それから3日後
マゼンタが目を覚ますと、見慣れない天井があった。
──ここ、どこ?
ベッドから上半身を起こすと、白いシーツがはらりとはだけた。彼女は裸だった。
隣を見ると、同じく裸の男が寝ていた。状況を理解し、マゼンタは頭を抱える。
──やってもうたぁ……。
酒の勢いとはいえ、行きずりの男と寝てしまっていた。しかも昨夜はそこそこイケメンだと思っていたその男は、朝日に照らされた今、まったく魅力的に見えなかった。
マゼンタは自己嫌悪を感じながらベッドから起き上がると、早々に服を着た。
「何だよ、もう出るのか? もう少しいいだろ?」
目を覚ました男がマゼンタの手首を引っ張った。マゼンタはベッドに腰をかけなおす。女は酒の魔法が解けていたが、男はまだ夢の中にいた。男はマゼンタのショートカットの赤髪を手ぐしでなでると、体に手を回してベッドに押し倒した。
「鶏ガラみたいな体と思ったけど、良い抱き心地だったぜ。お前、着痩せするんだな」
男はマゼンタの上着の裾から手を滑り込ませる。
「わぁ嬉しい」
マゼンタは棒読みで答えた。短めの髪の上に、地味な若草色のシャツにレザーのベストを羽織り、パンツスタイルのマゼンタは、シャープな体つきも手伝って一見すると少年のようにも見える。
マゼンタは男の手を振りほどき、ベッドから起き上がった。
「雨やんでる」
「え?」
「屋根貸してくれてありがとう。じゃあね」
別れの愛想笑いを男に捧げてマゼンタは部屋から出ていった。ドアの向こうから男が何かを言っていたが、彼女は一向に気に留めることはなかった。
外に出ると日は真上まで上っていた。マゼンタは雑貨屋や酒場、食堂が兼ねられているシーカーのギルドに足を運んだ。朝食兼、昼食兼、情報収集のためだった。
マゼンタが残飯のようなお粥を食べていると、掲示板の前がやたら騒がしいことに気づいた。何か割の良い仕事が入ってきているのかもしれない。
「おい、聞いたかよ、とんでもねぇおいしい仕事じゃねぇか」
「ああ、失踪した子供探すだけで5万バリィだってよっ」
マゼンタは彼らの方を振り向いた。次に室内にある掲示板に目をやると、食事を早々に終え、人が群がっている掲示板の前に行った。
確かに、彼らの言うように掲示板には少年を探し出すだけで5万バリィの報奨金が出るという依頼書が貼られていた。他にも貼られている、羊飼いからのダイアウルフの退治や、鍛冶屋からのダイムライト採掘の手伝い等の依頼書には誰も目もくれなかった。
「すっげぇ……。」
マゼンタは思わず口に出していた。5万バリィといえば、この国では3年は遊んで暮らせる金額だった。ギルドの寄り合い所の中では、シーカーたちが知り合いとパーティーを組み始めていた。こんなうまい仕事を逃してはならない、マゼンタもさっそく多少顔を見知った男たちに声をかけ始める。
「ねぇ、あんたたち、あたしと組まない?」
「はぁ、冗談じゃねぇよ、5万バリィの大仕事だぜ? オメェみてぇなガキと組んでられっかよ。だいたい、パーティーの頭数増やしちまったら、取り分が減るだろう」
男たちはマゼンタを邪険に扱う。
「そうだぜ。それによぉ、マゼンタ、オメェ自分の事をシーフとか言ってるけど、単なるこそ泥だろうが。役に立ちゃしねぇよ」
ガラクタの兜をかぶった男がマゼンタの肩に手を回す。
「まぁ、俺らが大金をせしめた時には、オメェを買ってやるからよ。それまで待ってな。また楽しもうぜ」
兜の男はマゼンタのベストの上から胸をもんだ。
「娼婦じゃねぇし」
マゼンタはその手をつねった。兜の男はその手をさすりながら笑う。
「そっちの方が向いてんじゃねぇか?」
そうして男たちは笑いながら去って行った。
マゼンタは席に戻ると、ふてくされてテーブルの上にドカンと足を投げ出し、そして足を組んだ。マゼンタは顔だけならば勝気な釣り目で戦士のような趣もあるが、まだ18歳と若く実績もなかった。しかし……。
「腕には自信があるんだけどなぁ……。」
マゼンタは懐から財布を取り出した。先ほど、彼女の胸に手を入れてきた男の財布だった。マゼンタは財布の中身を確認する。
「……しけてんの」
「ほっほっほっ、ご機嫌斜めじゃのう」
マゼンタの向かい側にひとりの老人が腰かけた。
「……バン爺」
やせこけた、茶色い肌のシーカーの老人だった。魔術師用の深緑のローブを着ているその老人は、名前がややこしいので周囲からは本名をもじって“バン爺”と呼ばれていた。シーカーではあるが、ギルドの仕事をしている様子はほとんどなく、周囲からは物乞いの類なのだろうと陰で囁かれていた。
「何、バン爺もあぶれたの?」
「こんなじじいと組みたがる奴なんておらんさ」
バン爺は禿げ上がった頭をぺちぺちと叩いた。彼の毛髪は側頭部に何とか残っている程度だった。
「バン爺さ、昔は魔術師だったんだろ?」
「遠い昔な」
バン爺の手首には7級魔術師を証明する白い腕輪があった。しかし、腕輪は7年ごとに更新しなければならない。年季の入ったその腕輪は、既に期限が切れていることを意味していた。
「……ふーん」
何かを考えながらマゼンタはバン爺を見る。
「……なんじゃい? じじいに色目使っとるんか?」
「じょうだん言わないでよ、じいさんこそ、あたしに変な気ぃ起こさないでよ」
「あと100歳若かったらそんな気も起りそうだがね」
「100歳? バン爺、いま幾つさ?」
「70じゃ」
「一周してんじゃん」
「生まれ変わったら趣味も変わると思うてな」
「……じじい」
「ほほ、気を悪くするな、寂しいじじいじゃ、若いもんと話がしたいだけじゃて」
「……たく」
マゼンタは足をテーブルから下ろして、改めてバン爺に向き合った。
「じいさんさ」
「何だね?」
「あたしとパーティー組もうよ」
「何じゃい、藪から棒に」
「他の奴らはあたしと組んじゃくれないんだよ、美少女だからってバカにしてさ」
「自信過剰だしのう」
「うるさいなぁ。それでさ、あたしと例の子供を探そうよ。ひとりだと心許ないし、じいさんでもいないよりはましだからさ」
「じじいと小娘でようやく一人前ということか」
「好きなように取りなよ。どう? ふたりで大金を山分けすんの」
「老い先短いというのに、大金を手にしてもどうしようもないがな……。」
「棺桶を豪華にすればいいじゃん」
「墓穴も深く掘ってもらおうかの」
「そうそう、温泉が湧くくらいに深く掘ってやろう」
上機嫌にマゼンタは言う。
「……お前さん、人を口説くのが下手過ぎやせんか?」
「え?」
「だいたい妙な話じゃ。子供ひとり探すのに大げさじゃなかろうか?」
「そう? だって伯爵さまの子供だよ? 跡取り息子だったら当然さ」
「伯爵の?」
「何だい爺さん、こんだけの騒ぎになってるのに知らないの? アイリス伯のひとり息子なんだよ。しかも例の試験中の。そりゃ躍起にもなるさ。……どうしたの?」
アイリス伯の名前を聞いた途端、バン爺の顔が険しくなっていた。
「……あ、いや、何でもないわい」
「ねぇ、どうよバン爺? そりゃ大金はいらないかもしれないけど、金があるに越したことはないでしょ?」
「……分かった」
「え?」
「お前さんと一緒にその子を探すっちゅうことじゃ」
「やったぁ、パーティー成立ぅ。あれ、意外とあたしって人望あるかも?」
マゼンタは寄り合い所の中を見渡し、目についた男に声をかける。
「ねぇ、おにいさん、あたしらとパーティー組まない?」
男はマゼンタとバン爺を見ると鼻で笑った。
「冗談言うな、ガキとじじいのパーティーに誰が入るかよ。お守りなんぞゴメンだ」
「……ちぇ」
マゼンタは下唇を出した。子供っぽ仕草だった。
「……ところで」と、寄り合い所から出るなりバン爺は訊ねた。
「なに?」
そう言いながら、マゼンタは屋台でリンゴを購入する。
「目星はついとるのかね?」
「ぜんぜん」
「……じゃろうな」
マゼンタは買ったリンゴをさっそく食べていた。
「むしゃ……じいさんは?」
「……お前さんは、その子の事をどれだけ知っとる?」
「なんかぁ、すっごい才能のある魔術師って話が広まってるよ? そりゃ、12歳で王宮の試験の最終まで行っちゃうんだから」
「……それだけの力を持った魔術師が、どうして親元からいなくなったんじゃろうな?」
「……どういうこと?」
「自分からいなくなったのか、それともさらわれたのか……。」
「そこんとこの情報はまだ来てないね」
「さらわれたという線はなさそうじゃな……。」
「どうしてさ?」
「失踪したのは城下町じゃ。ダンデリオン伯の監視下にある町じゃぞ。それだけの力を持った魔術師を、何の騒ぎも起さずにさらうなんてことが、できるわけはなかろう」
マゼンタはリンゴをごくりと飲み込んだ。
「恐らく、逃げ出したんじゃろうな。じゃが、魔術師といっても所詮は子供じゃ。そう遠くには行っとらんじゃろう。……なんじゃ?」
「さっすがぁ!」
マゼンタはバン爺の背中をばしばし叩く。
「あたしが見込んだ相棒だけはあるよぉ!」
「ちょ、やめんか、じじいの体をもっと労われ」
「じいさん、リンゴいる?」
マゼンタは食べかけのリンゴを差し出した。
「こっちの、あたしがまだかじってないほうかじって良いよ?」
「……いらんわ。だいたい、まだ目星はついとらんぞ。ダンデリオン領の近くいるっちゅうだけで」
「多分だけど、逃げ出したんなら、アイリス伯の領地から逆の方向だろうね」
「どうしてそう思うんじゃ?」
「家出少年の当然の心理」
「だとすると、ダンデリオンを挟んでアイリス領の反対というと……。」
「……このガーベル領じゃん!」
「まぁ、そうなるが……。」
「やったぁ、超ついてるぅ!」
「そんなに都合よくいくかね……。」
「さっそく探すよっ」
「ま、地道に行くしかないがの……。」
さっそく、マゼンタたちは周辺に聞き込みを始めた。しかし、情報はまったくと言っていいほど得られなかった。早々にバン爺は切り株に腰かけて休み始めた。
「ちょっとぉ、バン爺もっとやる気だしなよぉ」
バン爺は空を見上げていた。
「なに? お迎えが来たの?」
「……鳥がずいぶん飛んどるな」
「……え?」
マゼンタも空を見上げた。
「……みたいだね?」
「しかも、種類もばらばらじゃ。きっと、魔術師の誰かが使いの鳥を飛ばしとる。空から探した方が圧倒的に効率が良いからの」
「ちょっと、じゃああたしらもそうしようよっ。じいさん魔術師なんでしょ?」
「お前さん、何も知らんのじゃな。魔術師には向き不向きっちゅうもんがあるんじゃ。そもそも、ワシはああいう術を学んどらん」
「シーカーなのに、そんな便利な術を覚えなかったの?」
「ワシゃもともとシーカーじゃないんでな。……まぁその話はええじゃろ。ないもんをねだっても仕方ない。できることをやれば良いんじゃよ」
「この場合にできることって?」
「鳥を操っとる奴らが子供を見つけ出すのを待つんじゃ」
「待ってどうすんのさ? 他の奴らの手柄になっちゃうじゃん?」
「お前さんはまずワシの話が終わるのを待て。ええか? 鳥が子供を見つける、その鳥を操っとる奴らが子供を捕まえに行く。だが、試験の最終審査まで行く子供じゃ、そう簡単には捕まらん。そうやって、奴らが手をこまねいとるところを横からかすめ取るんじゃよ」
「……けっこうえげつないことを考えるんだね」
「ほっ、お前さん、良い子ちゃんでこの界隈生き抜くつもりだったんかね?」
「そ、そうじゃないけどさ」
「待てば海路の日和ありってことじゃ。しばらくのんびりするとしよう」
「まぁ、爺さんがそう言うなら……。」
待つと言った通り、バン爺は日陰で休み続けたが、マゼンタは落ち着かないらしく、独自に聞き込みをしては、事あるごとに空を見上げていた。
そうして日が暮れるころ、遠くの森の様子が騒がしくなってきた。マゼンタとバン爺は顔を見合わせる。
「いくかの……。」
バン爺は重い腰を上げた。
ふたりが森に入り、目的に近づいていくと、爆発音や男たちの叫び声が遠くから聞こえてきた。
「ちょ、ちょっと、何かやばくない?」
「……ふむ」
「……ちょっと、あれ」
マゼンタが上を指さす。そこには木の枝に引っかかった男がいた。
「……うむ、どうやら死んではおらんようじゃの」
「死んではいないって……。」
さらに森の奥深く入ると、さらに気を失った男たちの姿がぞくぞく現れた。
「……ま、シーカーやっとる程度の魔術師ならこんなもんじゃろ。坊やを止められやせん」
倒れた男たちの具合を見ながら、バン爺は言った。
「そ、そんなもんなの?」
「この業界にいる魔術師なんぞだいたいが独学じゃ。検定試験を受ける資格すらない。そんな奴らが束になったところで、最終審査まで残った坊やの相手なぞつとまるはずがあるまい。……おい、生きとるか?」
バン爺はひとりの倒れている男の頬をぺちぺちと叩いて気つけした。
「……う……う……。」
男は呻きながら、うっすらと目を開けた。
「ほ、無事みたいじゃの。のう、お前さん、例の子供とやりあったんか」
男は完全に目を開いた。
「例の……子供……。」
「お前さんたちが追っておった子供じゃ」
男は目を見開いて起き上がった。
「ひ、ひぃ!」
驚いて、マゼンタとバン爺は男から身を引いた。
「な、なにさ、バケモンでも見てきたような顔して……。」と、マゼンタは言った。
「あ、ありゃバケモンだよ!」
「なに?」
「何が子供だよ! あんなガキがいるか!」
「とんでもない魔術師とは聞いとったが、そこまじゃったか……。」
「そんな問題じゃねぇ! そもそもガキじゃねぇんだ!」
「……何じゃと?」
「お、お前らもこの件からは手を引いとけっ!」
そして男は駆け出して山を下りていった。そんな男をしばらくマゼンタとバン爺は見ていた。
「ふむ……どうやら、おいしい仕事どころか、とんでもなく厄介な仕事かもしれんな」
「……ちょ、ちょっと待ってよ」
「何じゃい、おじけづいたか?」
「そうじゃないけど……この様子だと、あたしらだって坊やと正面からやりあって勝てるわけじゃないでしょ? 何か策はあるんだよね?」
「おや、ワシゃてっきりお前さんが策を練っとると思っとったがね?」
「いや、もちろんあったさっ」
「ほう、ならばお聞かせ願おうか?」
「……色仕掛け」
「……念のため見せてもらっても良いかの?」
マゼンタはバン爺の前に立つと、咳をひとはらいして改まった。もったいぶって髪をかき上げると、体をくねらせる。そして腰を突き出し前かがみになると、胸を強調してウィンクをして見せた。
「……どう? やばくない? じいさん若返ったっしょ?」
「それどころか寿命が縮まったわい」
「じじい、寿命を待たずに死にてぇか」
「誤解するな、お前さんはそんな変なことをせん方が魅力的じゃということじゃ」
「え、マジで? やだ、あたしってそんなんなんだ……。」
マゼンタは両手で頬をおさえた。
「お前さん、チョロ過ぎやせんかの……。」
「じゃあさ、爺さんの策は何なのさ?」
「お前さんと似たようなもんさ」
「え? 爺さんも色仕掛け?」
「あほう。ええか? 温室育ちの伯爵の子息が数日間逃げ回っとるんだぞ? 満足な食事も十分な睡眠もとっとらん。どれほどの天才魔術師と言えど、このふたつには勝てんよ」
「……それってつまり」
バン爺は背中のリュックを叩いた。
「食欲性欲睡眠欲、実際に欠けて困るのはふたつじゃ」
「性欲と……後はなに?」
「三分の二を見事に外しよった……。」
「冗談だって」
さらに森の奥に入ると、倒れた男たちの姿はなくなっていった。どうやら、この辺りで少年は追手を振り切ったらしい。
「ふむ、もうかなり暗いし、ここで夜営をするとするか」
「え? だって……。」
少年の追跡は良いのかとマゼンタは言いたげだった。
「ワシにまかせとけ」
バン爺はフライパンを取り出すと、火をおこして料理を始めた。ベーコンにバター、そしてガーリック、ジャマル油、匂いの強いする食材を火にかけ、さらに団扇で匂いが周囲に飛ぶように仕向ける。
「……さて、食べるかの」
匂いを出すためだけの料理を終えると、バン爺は小皿に取り分けた。腹が減っていたらしく、マゼンタは仕事を忘れて料理にがっついた。
「ええ食べっぷりじゃのう……。」
一方のバン爺はゆっくりと食事を続けた。歳というわけではなかった。食べながらも、周囲の様子をうかがっていた。
マゼンタが皿の料理をすべて食べ終わる頃、バン爺が口を開いた。
「隠れとらんで出てきたらどうじゃ?」
マゼンタは驚いた後、痛ましく哀し気な目で老人を見た。
「イマジナリーフレンド?」
「……勘違いするな、ボケちゃおらん。……腹が減っとるんじゃろ? ワシらはこの土地のもんじゃ、お前さんに何もしやせんよ」
バン爺の背後の茂みがガサリと音をたてた。マゼンタはびくりと肩をすくめる。
バン爺が振り向く。そこには、水色の長髪の少年・シアンが立っていた。やつれているのか元からなのか、少年からは生気が感じられなかった。
「なんじゃ、坊やこんなところで迷子かね? 危ない危ない。さっき、ワシらが来る途中で、大勢の男達が倒れとってな、どうやらここら辺には狂暴な賊がいるようじゃぞ?」
見え透いた嘘だった。しかし、空腹と疲れは、シアンに都合の良い解釈を導いた。彼らは自分を追ってきている奴らとは違うと。
「坊や、うっかり年寄りには食いきれん量を作ってしもうての。お前さんも一緒にどうじゃ?」
シアンは茂みから出ると、バン爺の隣に立った。
バン爺は料理を取り分けた皿を差し出す。
「ほれ?」
シアンは皿を受け取ると、バン爺の横に座って料理を無我夢中で食べ始めた。
「パンもあるぞ」
シアンはパンも受け取って口にほお張り始めた。あまりにも急いで食べたので、少年は食べ物をのどに詰まらせてしまった。
「ほらほら、そんなにがっつくから……。」
マゼンタは水筒を持ってシアンに寄りそい、口に持っていった。
シアンは驚いてマゼンタを見る。
「ほら、遠慮しないの」
そして、マゼンタの手に持った水筒からシアンは水を飲んだ。
皿の料理とパンを平らげると、少年はマゼンタに寄り添うようにして眠りについた。
「疲れてたんだね。食べたらすぐに寝ちゃった……。」
「そりゃそうじゃろ……。」
マゼンタはシアンの長い髪をかき上げた。
「……すごい綺麗な子だね」
「そうじゃな……。」
シアンはぐずるように唸ると、マゼンタに抱きついた。マゼンタはシアンの頭をなでて肩を抱いた。
「……やばい」
「どうしたんじゃ?」
「あたし、母性に目覚めたかも」
「あそ」
翌朝、バン爺は荷物を整えて下山の準備を始めた。よほど疲れていたのだろう、シアンはまだ眠っていた。
シアンに寄り添っているマゼンタにバン爺は訊ねる。
「どうするね? このまま坊やを親元に返すかね?」
マゼンタは何も答えずに、シアンの寝顔を見る。
「……どうして、この子は親元から逃げたんだろう」
「……あまり、その子の父親に関しては良い話を聞かん」
「父親って、アイリス伯のこと?」
「そうじゃ。将来を期待されとった宮廷魔術師じゃったが、30年前に問題を起こしての。その時はたいそうな問題になったわい」
「……問題って?」
「……禁呪法じゃ」
「禁呪……法?」
「大陸中の条約で禁じられておる、危険な術の研究に手を出しおったんじゃ。審議もへったくれもない。他国に知られる前に、3級魔術師の資格をはく奪されて国を追い出されたんじゃ。……バカな男じゃよ」
「……詳しいんだね?」
「だてに長生きはしとらんわい」
「……そっか」
マゼンタはシアンを見た。
「この子を届けるとしても、どうすればいいんだろう? このまま大人しくアイリス伯のところまで連れて行けるようにも思えないけれど……。」
「まぁ、この子と旅を同行する“てい”を見せて、その間に父親に連絡して迎えに来てもらうんが一番やりやすいじゃろ」
「なるほろ」
「もしかしてお前さん、ふん縛って連れていくつもりだったかね」
「いや、捕まえた後の事はまったく考えてなかった」
「なるほろ」
「賢者も言ってるよ、“昨日はもう終わったし、明日はまだ来てないない。今だけを考えろ”ってね」
得意げに言うマゼンタ。バン爺は首をふってため息をついた。
「状況が違えばええ台詞なんじゃがのう……。というか、そんないい加減なことを言う賢者がおるかね?」
「探したら一人くらいはいるかもよ?」
「う、う……ん」
そうこうふたりが話していると、シアンが目を覚ました。
「あら、目が覚めたみたいだね」
目を覚ましたシアンは周囲を見渡す。どうやら、寝ぼけて自分の状況を忘れているようだった。
「はぁい、おねえさんたちの事は覚えてる? 昨夜一緒にお食事した仲なんだよ?」
シアンは小さくうなずいた。
「あたしはマゼンタ、そっちはバン爺だよ。あんたは?」
「……シアン」
「そう、シアンっていうのね。……ん?」
マゼンタは顔をシアンに顔を近づける。たじろぐシアン。
「坊や、何だかくちゃいわね、おねえさんと一緒にそこの川で体を洗いましょう」
「昨晩ニンニク食っとるからな、お前さんもけっこう匂うぞ。まぁワシもじゃが」
バン爺は自分の体を匂った。マゼンタがそんなバン爺を睨む。
「……何じゃ?」
「そんなこと言って一緒に水浴びするふりして、レディの裸を拝もうって魂胆じゃないだろうね?」
「ほっ、こりゃすまん。そういや、お前さんが女じゃということを忘れとったわい」
「ボケが深刻ね。さっき朝ごはん食べたことは覚えてる?」
バン爺は肩をすくめてシアンを見る。
「この言われようじゃ。……え、もしかして食ったんかのう?」
「水浴びしてるあいだ大人しく待っててくれたら教えてやんよ」
「ああ、そん時ゃお前さんが女だということも教えてくれ。その間に忘れるじゃろうから」
マゼンタは冷ややかにバン爺を見ると、「行こっ」と言ってシアンを川辺に連れて行った。
「まったく……。」
バン爺は首を振ると、一転して真面目な表情で、昨日男たちが倒れていた場所に向かった。
その場所に到着すると、バン爺は木々の破壊の後や、男たちのダメになった武器を調べ始める。
「……あの坊や、どんな術式をつこうたんじゃ?」
バン爺はえぐれた木の幹に手を当て意識を集中する。
「大地の精霊よ……木々のマナよ……我が問いかけに答えてくれ……。」
呪文を唱えながら、魔力の残骸を調べるバン爺。
「む、むぅ……。」
バン爺の体の中には昨日の破壊の記憶が流れ込んできた。しばらくすると、額から脂汗を流してバン爺は目を開き「まいったのぅ……。」と独り言を言った。
一方、川辺に着いたマゼンタは、シアンの服を脱がそうと上着の裾をつかんだ。しかし、シアンはそれを嫌がるように身をすくめる。
「恥ずかしがらなくっていいんだよ」
マゼンタが肩をすくめる。シアンは顔をそらした。
「ほら、あたしも脱ぐから」
そう言って、マゼンタは上着を脱ぎ始めた。あられもない下着姿のマゼンタを呆気に取られてシアンは見る。
「変なもんなんて隠してないよ、ほら」
マゼンタは両手を広げた。
「おや、もしかして照れてる~? うりうり~」
マゼンタはシアンのわき腹を肘で突いた。そうして、目のやり場に困っているシアンを改めて脱がし始めた。
「わぁ、やっぱり綺麗な肌。嫉妬しちゃうくらい」
マゼンタはシアンの手を引いて川に入った。
「足元気を付けてね」
腰まで水に浸かると、マゼンタは水を手ですくい「目をつむって」とシアンの髪に注いだ。
「ひゃあ、綺麗な髪だと思ったけど、すべりも良いわ」
マゼンタは丹念に手ぐしでシアンの髪を洗う。
「じゃあ、後ろ向いて……。」
マゼンタはシアンの肩をつかんで後ろを向かせた。今までシアンの美貌に見とれていたマゼンタだったが、シアンの背中を見たとたんに息をのんだ。
シアンの背中は傷だらけだった。逃亡中の追手につけられた傷ではなさそうだった。古傷だったからだ。
しかし、マゼンタは驚いたことを知られないよう、鼻歌まじりでシアンの髪を洗い始めた。
「ほんと……うらやましいな……この髪……。ねぇ見てよ」
シアンはふり返った。
「ほら、おねえさんの髪、ばさばさでしょ? くしの通りも悪いんだ」
マゼンタは自分のボリュームのある赤髪をかき上げて見せた。
シアンはマゼンタの髪に手を伸ばす。マゼンタは触りやすいよう、少し体を屈めた。そこそこ背の高いマゼンタに対し、シアンは頭一つ以上小さかった。
だが髪にふれる寸前、シアンは手をひっこめた。
「なにさぁ、照れてんのぉ?」
マゼンタはシアンの髪をクシャクシャに撫でた。
シアンは頬を赤らめて顔をそらしていた。
水浴びを終えてふたりが戻ると、バン爺が焚火をおこして待っていた。しかし、バン爺はふたりに気づかないのか、地面に触れた状態で目をつむり瞑想をしていた。
「……シアンくん、スコップを持ってきて?」とマゼンタは言った。
バン爺が目を開いた。
「死んどらん。あと、ここに埋めようとすな」
「じいさんややこしいから」
「……まったく。ほれ、シアン、焚火にあたりなさい。秋になったばかりとはいえ、体を冷やしやすいからのう」
シアンはうなずくと、タオルで体を拭きながら焚火にあたる。そんなシアンの様子を心配そうにマゼンタが見ていた。
「……どうしたんじゃ?」と、それに気づいたバン爺が言う。
「う、ううん……。なんでもないよ」
「……そうかい」
バン爺はシアンを見て言った。
「ところで、そろそろワシらは出発しようと思うんじゃが……お前さんはどうするね?」
シアンははっとした表情でバン爺を見てから、遠慮がちにマゼンタを見た。
「お前さん、その歳とそのなりで旅人っちゅうわけでもなかろう? どうして夜中の森なんぞにおったんかね?」
言葉に窮したシアンが濡れた瞳でマゼンタを見る。
「ちょ、ちょっとバン爺、なんか事情があるかもしれないじゃん、あんまり根ほり訊くのは良くないよ」
「ほ、じゃあ聞き方を変えるとしよう。お前さん、これからどうする? 行く当てはあるのかね?」
シアンは首を振った。
「じゃあさ、あたしらと一緒に行かない? ここで出会ったのも何かの縁だしさ」
シアンはしばらくうつむいて黙っていたが、マゼンタが「ね?」と言うと、小さくうなずいた。
──その頃
アイリス伯の領地では、アイリス伯が昼間から広間で酒を飲んでいた。広間の椅子やテーブル、絵画や燭台といった家具や装飾品は彼によって滅茶苦茶に破壊されていた。
「くそ……シアン、いったいどうして……。」
頭を抱え込んでアイリス伯は酩酊していた。
「……あなた」
アイリス伯の妻・ラピスが夫をいたわって、背中に手を乗せた。
「きっとあの子は戻ってきますよ……。」
「なぜ、なぜあいつは……。」
「きっと、あの子にも考えがあるのでしょう」
「……考えだと?」
アイリス伯は立ち上がった。
「え、ええ、そうです。あの子だってもう12歳ですよ? 自分なりの考えというものが……。」
「……考え? 検定試験の直前で逃げ出すのに……いったい何の考えがあるというのだっ?」
「あ、あの子にも言い分があったはずです。それを、今まで無視ししてきたから……。」
「……なるほど。お前が、お前があいつに余計なことを吹き込んだのか。おかしいと思った!」
「な、何をおっしゃいますか。あなたがシアンの気持ちを汲もうとしないから……。」
「黙れ!」
アイリス伯はラピスの顔を殴りつけた。
「きゃあ!」
ラピスは床に倒れ、小さなうめき声を上げる。
「私はシアンの為だけに生きてきた! このクソみたいな辺境の地で、あいつを最高の魔術師に育て上げるためにあらゆる手を尽くしたんだ! あいつのために私がどれだけのものを犠牲にしたと!?」
アイリス伯はうずくまっているラピスの腹を蹴り上げた。
「ああっ!?」
「何がアイツの考えだ! 私が、私こそが誰よりもあいつの事を考えているんだ! あいつ自身よりもっ!」
アイリス伯はラピスの髪をつかんで顔を持ち上げた。
「教育係として結婚してやった後妻が口答えしおって! 貧乏貴族の妾腹の分際で!」
「あ、あ……。」
「おやめください旦那様!」
そこへ、見かねた執事が駆け込んでアイリス伯を止めに入った。
「お、奥方様も、奥方様なりにシアン様の事を案じておるのです!」
「何が奥方だ、こいつはもうただの年増女だ!」
「……え? ど、どういうことで……。」
「離縁だ! 今すぐ荷物をまとめて私の城から出ていけ!」
アイリス伯はラピスに杯を投げつけて言った。
ラピスはよろめきながら立ち上がると、涙を流しながら広間から出ていった。
「……旦那様、いったいこれで何人目でございますか」
「ふん!」
アイリス伯はテーブルの上の酒瓶をぶん取って酒をラッパ飲みする。
「あいつもいい年だ、母親などもういらん! おい、ゼニス!」
「は、はい、何でございましょうか?」
「例のモノを持って来い!」
「かしこまりました!」
「まったく……あの反応以来、全く音沙汰がないとは。やはりシーカーなんぞの食いつめどもでは務まらんか……。」
執事は深々と頭を下げると、広間から出ていった。
──
「それで……どうするんじゃ?」
シアンと移動を始めたマゼンタにバン爺が耳打ちをする。後ろにいるシアンは、畑の作物のまわりを飛び回る蝶々を、まるで初めて見るかのように夢中になって眺めていた。
「あの子を親元に返すなら、どちらかが連絡を取る必要があるが……。」
「……ねぇ、バン爺」
「なんじゃい?」
「あの子、絶対に返さないと……ダメかな?」
「……何かあったんか?」
「うん……実は今朝、あの子の裸を見てから、家には帰したくないなって思ってさ……。」
「……お前さん、要点をはしょって多分とんでもない話をしとることになっとるぞ」
「え、まじ?」
「……まぁ、何を見たかは予想はつくがのう」
「きっとあの子、親父さんの所に戻ったら酷い目にあうんだと思う……。」
「ふむ……。とはいえ、ワシらは赤の他人じゃ。やれることもやって良いことも限られとるがな……。」
「そうかもしれないけど……。」
「お前さん、下手をしたら伯爵の子供を誘拐したとして、お尋ね者になるかもしれんのじゃぞ?」
「それは……困る」
「じゃろう?」
マゼンタとバン爺は後ろを振り返った。シアンは次は遠くに見える牧場の牛を眺めていた。
「……動物が好きなの?」
マゼンタが言う。シアンは小さくうなずいた。
「……そうなんだ。ところで、バン爺はどこに向かってるの?」
「ワシの家じゃ。しばらくそこで今後の事を考えよう」
「……分かったよ」
マゼンタたちは、丘の上のバン爺の家に到着した。
「……うわぁ」
驚くマゼンタたち、そこは廃屋と呼んだ方が良いような酷いありさまだった。
「仕方ないじゃろ、じじいの独り暮らしじゃ、家の手入れ何ぞろくにできん」
「なんで村から遠いところに住んでるわけ? 集落のすぐそばに住んでたら、手伝いとかしてもらえるんじゃ?」
「……まぁ、ワシは最近こちらに移り住んできたからのう」
「そうなんだ?」
「さ、お入んなさい」
マゼンタたちは家に入ると、バン爺に促され奥の部屋に荷物を置いた。
「……ここって」
そこは、ある時から時間が止まったような奇妙な部屋だった。服や小物は、老人の私物にしては若者趣味であるものの、長い時間それに誰も触れていないようだった。
「物が多くてすまんな」
「あ、いや、別に……。」
「倅のもんじゃ」
バン爺は荷物を顎でしゃくって説明する。
「へぇ……。息子さんは今どうしてるのさ? バン爺をこんなところに残して」
「死んだよ」
「……ごめん」
「やめんか、がらにもない。……さぁて、久しぶりの来客じゃ。もてなしをせんとのう」
「別に、気ぃ使わなくったっていいのに」
「ほっ、どちらかというと、じじいがそうしたいんじゃよ。若いもんがいるだけで嬉しくてのう」
マゼンタは、こういうところは本当にただのじいさんなんだなと思った。
「さて、村へ降りるか」
「見た所、お店もないような村だったけど、どうすんの?」
「まぁ、物々交換かのう。それか村の手伝いじゃ。こんなじじいでも、頼ってくれる人もおる」
「ふぅん」
マゼンタたちは丘の上から村へと降りていった。
村では農夫が畑を耕し終えたところだった。
バン爺たちに気づいた農夫が言う。
「おや、バン爺じゃないか。そちらの若いのは? お孫さんかい?」
「親戚の子供たちが、さびしいジジイのために遊びに来てくれたんじゃよ」
「はは、そうかい。バン爺にも身寄りがいたのか」
「のう、マッソさん、何か手伝えることはないかね?」
「おお、ちょうどよかったよ。たった今、畑仕事が終わったところなんだ。以前やってくれたアレ、また頼めるかな」
「ほっほ、お安い御用じゃ」
バン爺は畑の前に座り、地面に手を置いた。
「マッソさん、植えたのは小麦かね?」
「ああ、そうだよ」
「……ふむ」
そうしてバン爺は目を閉じた。ぶつぶつと独り言のような声も聞こえる。
遠巻きにその光景を眺めながら、マゼンタはシアンに訊ねる。
「ねぇ、あれ何やってんの?」
「……多分、術式」
「術式? これから魔術を使おうっての? いったい何で?」
「この土地の……精霊と……話したり……。それで、多分……。」
「あ~、まぁ、ようするに、魔術師同士なら分かることをやってるってことね」
バン爺の服が風に吹かれたようになびいた。バン爺は大きく肩で息をすると、さらに深く手を地面に押し付ける。
「……ん?」
マゼンタは足元を見る。風もないのに、草が緩やかにざわめいていた。
「え……これって、もしかして……。」
シアンが「すごい……。」とつぶやいた。
座っているバン爺の体が、激しくゆれ始めた。
「こぉおおおおおおっ! こぉおおおおおおっ!」
バン爺は体中を使って勢いよく呼吸をくり返す。はた目から見ると、気がふれているようだった。
「こぉあっ!」
力をふりしぼるようにして両手を地面に押しつけるバン爺。すると、バン爺の座っている地面がもっこりと隆起した。
「すっげぇでっかい屁ぇ……。」
マゼンタはドン引きしてシアンを見る。シアンは首を傾けてマゼンタを見た。
「あ、違うよね……。」
「こんなことができるなんて……。」と、シアンは言った。
「バン爺は何をやったの?」
「農作物の育ちを良くしてくれるよう、大地の精霊にお願いしたんだと思う。ここら辺の地面のマナが、少しづつ畑に集まってたから……。」
「魔術師ってそんなこともできちゃうの?」
「上級の人なら……できると思う」
「バン爺って確か7級なんだよね。7級でもそんなことができるんだねぇ……。」
シアンは驚いてマゼンタを見た。
「……なに?」
「いやぁ、ありがとうバン爺。これで今期もうちの畑は安泰だよぉ」
農夫のマッソは上機嫌に言った。
「お安い御用、と言いたいところじゃが、さすがに疲れたのう」
「無理をさせちまったね。何か必要なものがあったら用立てるよ」
「ほ、そりゃ助かる。それじゃあ、あの子たちをもてなしたいんで、今晩食べるもんを恵んでくれるとありがたいんじゃが」
「それこそお安い御用さ。今晩だなんていわずに、あの子たちがいる間はウチを頼ってくれよ」
「これはこれは」
すると、遠くからまた別の農夫が手を振りながら歩いてきた。農夫は足を軽く引きずっていた。
「おお~いっ」
「何だいザビさん?」と、マッソは言った。
足の悪い農夫のザビが言う。
「バン爺さん、ちょうどよかったよ、ちょっとウチの家畜を見てくれないかな?」
「ほ、どうしたね?」
「豚が病気にやられちゃってさぁ」
バン爺は顎に手を当てて考える。
「家畜の病気……。まぁ、専門分野じゃないんじゃが、見るだけ見ておこうかね」
「助かるよぉ」
バン爺たちは農夫のザビの後をついていく。
「ねぇバン爺、獣医さんに見せた方が早いんじゃないの?」とマゼンタが訊ねる。
「こんな辺ぴな村じゃあ、町まで医者を呼びに行って戻ってくる頃には夜になっとるよ」
「ふ~ん。じゃ、また魔術で何とかするわけ?」
「ま、見るだけ見ておこう」
ザビの家の豚小屋に着くと、彼の言うように豚が倒れていた。大きなメスだった。
「昨日からこの調子さ、病気だと思うんだけれど、他の豚は大丈夫だし……。」
「……ほう」
バン爺は柵の中に入ると、動けなくなっている豚の容態を確認する。体の病気の兆候が出る所には何もなかった。
「疫病というわけでもなさそうじゃし……。」
すると、シアンが柵の中に入ってきた。
「おや、シアンどうしたね?」
シアンは豚のおでこに手を当てた。そして目を閉じ、静かな声で豚に語りかけた。苦しそうにあえでいた豚が穏やかな目でシアンを見る。
シアンが目を開けて言う。
「……この子、たぶん妊娠してる」
「ほぉ」
「そんな。だってウチは繁殖のとき以外、雄と雌をしっかり分けて飼育してるんだぜ? 妊娠するなんてありえないよっ」
ザビは驚いて言った。
「……確かかね、シアン?」
「……うん」
「しかし、いったいどうして……。」ザビは困惑する。
バン爺は立ち上がった。そして豚小屋を出ると農場の囲いに目をやった。そこには補修された跡があった。
「……そういえば最近、村で害獣被害が出とったのう。ありゃ、猪だったかね?」
「ああ、バカでかい猪さ。農作物を食い荒らすわで大変だったよ」
「お前さんとこも被害を?」
「まぁね、ウチの農場の柵を破って保存してた食料を食い荒らしやがった」
「もしかして、豚小屋にも入ったんじゃないか?」
「ああ、そういえば……。」
「……あの豚のお相手は、そのならず者かもしれんのう」
「え? 猪が?」
「そうじゃ。イノシシと豚なら普通に交雑しよる。逃げ出したり捨てられたりした豚が、猪との間に子供を作るっちゅうことはままあるぞ。イノブタ言うてな」
「くっそぉ、ウチの豚に手ぇ出しやがって!」
「まぁ、ええじゃないか。イノブタは結構な珍味なんじゃぞ。売ればそこそこ高い値がつく」
「……ふぅ。ま、過ぎたことを嘆いても仕方ないか。……ありがとよバン爺。危うく無駄に町から獣医を呼び寄せるところだった」
「ほっほ、礼ならこの子に言うんじゃな。ワシは土と植物の術式しか知らん」
「おう、ありがとよ坊や。坊やも魔術師なのかい?」
シアンは目をそらしてうなずいた。
「そうかいそうかい、たいしたもんだ」
ザビはシアンの頭をなでた。シアンの内気さは人に不快さを与えない。むしろ人は純粋さを覚えるのだった。
「お前さん、テイマーの術式を使えるんかね?」
「……うん」
「ええじゃないか。魔術師っちゅうのは、ええとこの家の人間ばかりじゃから、家畜なんぞ触りたがらん。おかげで、魔術師で獣医をやれるもんは数えるくらいしかおらんからのう。きっと多くの人々の助けになるぞ」
バン爺に褒められて、シアンは顔をそむける。
そして、シアンは表情を見られないようにしてザビの下へ行く。
「ほ?」
シアンは左の足首を見る。
「おじさん、足をケガしてるの?」
「……あ、ああ。屋根の修理中に落ちて捻っちまってな。養生したかったんだが、仕事が忙しくてなかなか治らないんだ」
シアンは「座って」と言う。
「え? ああ、かまわないが……。」
ザビが座ると、シアンも座って左の足首に手を当てた。目をつぶり呼吸を整えると、シアンは患部を労わるように優しくなでさする。
「……坊や、いったい何をしてるん……お?」
シアンがなでていると、ザビは痛めている足が暖かくなり始めているのに気づいた。
「バン爺、あの子、何やってるの?」
マゼンタに訊ねられたものの、バン爺は顎に手を当てて驚いた様子で答えない。
しばらく足をなでた後、シアンは顔をあげてザビを見た。
「もう大丈夫」
「大丈夫……て?」
「立って歩いてみて」
ザビは立ち上がった。そして恐る恐る左足を地面につける。
「……お?」
ザビは最初はよろよろとしていたが、数歩あるくと、ケガなどがまるでなかったかのように、まっすぐに進み出した。
「お、おい、嘘だろ? 足が、足が治ったぞ? あ、ありがとう坊や!」
ザビはシアンに駆け寄って手を握った。
「もしかしたら、もうダメかもしれないって思ってたんだ! それを……。」
「そ、そんなに酷いケガじゃなかったよ……。」
「いやいや、酷いケガじゃないっても、こんなすぐに治せるもんかいっ」
「……うっそ」
後ろで見ていたマゼンタも驚いていた。
「むぅ……。」
しかし、バン爺はどこか難しい顔をしてその光景を見ていた。
「カミさんに見せてくるよ!」
そう言って、ザビは走り出して豚小屋から出ていった。
「すごいじゃんシアンくん!」
マゼンタはシアンに抱きついた。
「え? え?」
「もう、こんなに可愛くて動物と話せてケガまで治せるなんて、シアンくんマジ天使!」
「あ、いや……。」
シアンは顔を真っ赤にして、マゼンタの胸の圧迫から顔を解放しようとした。
「……ヒーリングかね」
バン爺が言った。
「あ……はい」
「ふぅむ、ヒーリングはそもそも術式の適性を持つ者が少ない。その上、お主はテイマーまで……。」
「つまり、シアンくんが大天才ってことなんでしょ?」
「いや、まぁ、そういうことになるが……。」
バン爺が言いたかったのはそれだけではないようだった。
するとザビが戻ってきた。
「おおい! なぁ、坊や来てくれないか!」
「なんじゃい?」
シアンたちが外に出ると、そこには村の人間が集まってきていた。
「坊やの事を話したんだよ! そしたら、みんな居ても立っても居られなくなっちゃってさ!」
「なんと……。」
村の住民たちは目を輝かせてシアンを見ていた。
「アタシは腰が悪いんだっ」
「胸の調子がおかしくて……。」
「ウチの牛の様子をみとくれよ!」
村の住人たちは口々に体の悪い場所や、家畜の不調をシアンに告げ始めた。村人は、ざっとみただけでも20人以上はいた。
「ちょ、ちょっと待っとくれ」
口をはさんだのはバン爺だった。
「何だいバン爺?」
ザビが言った。
「ええか? 魔術を使うのはかなりの体力を消耗するんじゃ。特に、ヒーリングやテイマーみたいな術式は、外気を使えんから他の魔術よりも術者の内気を多く必要とする。こんな数の人間に対して魔術を使うたら、坊やがぶっ倒れてしまうぞ」
「え……そうなのかい?」
住人たちは顔を見合わせる。
「申し訳ないが、一日で診てやれる数はせいぜい……。」
「大丈夫だよ」
シアンが言った。
「……シアン」
「大丈夫、このくらいの数なら……。」
「シアン、無理はいかんぞ。ちょと寝たら回復するなんて生やさしいもんじゃないんじゃ。下手をしたら、後遺症を抱えることだってあるんじゃぞ」
「大丈夫、まかせて」
シアンは村人の方へ行った。表情に乏しい少年は、やせ我慢をしているのか本当に平気であるのか読みづらかった。
シアンの言うように、シアンは村人のケガや病気を治し、さらに家畜の容態も診察し続けた。シアンが治療をしている間にも人は増えたが、それでもシアンはその全ての村人の相談を解決していた。シアンが治療を終える頃には、陽は傾きかけていた。
「……本当に平気かね?」
バン爺はシアンを気づかって言った。
「うん」
その言葉に偽りはなかった。シアンには疲労の色はなかった。
「マゼンタさんとバン爺さんにはどこか悪いところは無いの?」
「老いは病気じゃないしねぇ」
「性格の悪さばかりはどうにもならん」
マゼンタとバン爺はほんの一瞬だけ沈黙した。
「え、バン爺、自分の性格悪いと思ってんの?」
「お前さんこそ、その歳でもう若返りたいんか?」
ふたりは冷ややかに睨み合った。
シアンはどういう顔をして良いか分からずに、その場に立っていた。
──
その頃、アイリス伯の領地ではアイリス伯が夕食を取っていた。妻を追い出したその食卓では、50代の男がさびしく独りでテーブルを囲み、もそもそと料理を口に運んでいた。
「……ん?」
アイリス伯がテーブルの隅に置いていある、手の平ほどのクリスタルの変化に気づいた。クリスタルがうっすらと光を放ち始めたのだ。
アイリス伯は慌ててそのクリスタルをひっつかんだ。そして自分の前に置かれた料理を腕で弾き飛ばしてクリスタルを置き、その中を注意深くのぞき込む。
「……どこだ、そこは?」
アイリス伯はクリスタルに手を置く。そして目を閉じ呪文を唱えだした。
「う、く……」
しばらく呪文を唱えていると、アイリス伯の額からは大粒の汗が流れ始め、その目は白目をむいていた。
部屋の隅にいる執事は、自分の主人を心配しながらもオロオロと様子を見るだけだった。長いつき合いから、執事は彼の邪魔をすれば自分でさえも何をされるか分からないことを知っていた。
ついには、アイリス伯の鼻から血が流れ始めた。
「だ、旦那様……。」
さすがに見ておられず、執事がアイリス伯を止めようとした時、アイリス伯の目がかっと開いた。
「……シュだ」
「……はい?」
「アッシュを呼べ!」
「……え?」
アイリス伯は執事の方を振り向いた。
「アッシュを呼べと言ってるんだ!」
「は、はい、ただいま!」
「気に食わん奴だが、こういう仕事には奴が適任だろう!」
執事が去った後、アイリス伯は鼻に違和感を覚え、手で鼻をぬぐった。
「……くそ」
手の甲についた鼻血を見て、アイリス伯は忌々し気に呟いた。
「慣れん術式を使えばすぐにこれだ……。」
──
その晩には、バン爺の家には三人では食べ切れないほどの食糧が運び込まれていた。
食料を持ってきた村の住人の中には、感謝のあまりシアンにずっといてほしいと頼んだり、シアンに手を合わせ拝む者さえいた。
「いやいや、施され過ぎるというのも困ったもんじゃ。食べきれんで腐らせてしまうかもしれんぞ」
家の外にまであふれた食料に囲まれ、三人は夕食を始める。
「そうだねぇ……。」
シアンはもくもくと食料を食べていた。特にシアンが気に入っているのは、ベーコンとソーセージのようだった。
「シアンくん、ソーセージ好きなんだ?」
シアンは口いっぱいにほおばりながら言う。
「……家では食べさせてもらえなかったから」
マゼンタとバン爺はさりげなく目を合わせた。
「……のう、お前さん本当に大丈夫かね? 少しでも具合が悪いところがあったら、すぐに言うんじゃぞ?」
「平気だよ」
シアンは微笑んだ。しかしそれは、大人が見れば作り笑いと分かるものだった。
「心配性なんだよ、バン爺はどうみえてもおじいちゃんだから」
「こうみえても、と言ってほしい所じゃが……。」
「ねぇシアン、あんたお医者さんになりなよ。シアンなら絶対に良い医者になれるし、それが世のため人のためってもんだよ」
「うむ、確かにお前さんの腕なら申し分ないどころか、名医になれると言ってもええじゃろう」
「ほら、バン爺も太鼓判を押してるよ」
「うん、ぼく、お医者さんになりたかったんだ……。」
「なんだよ、それならもうこのまま医者になっちゃえばいいじゃん」
シアンの顔に影が差す。
「でも……。」
「……どうしたのさ?」
「お父さんが……医者なんてダメだって……。」
「そぉんな、こんなに才能があるのにっ」
「父さんは、ぼくじゃあ医者は務まらないって言ってたよ。それに、父さんは、ぼくに1級魔術師になってお城に行きなさいって……。」
「じゃあ、あたしらがシアンのお父さんにガツンと言ってやるわよっ。子供の才能をつぶすんじゃないよってっ」
「だ、ダメだよっ」
シアンが身を乗り出した。
「シアンくん……。」
「前のお母さんもそう言ってくれたんだけど……。でも、そうしたらお父さんに酷いことされて……。それに……。」
“前の”お母さんというシアンの言い回しに、マゼンタとバン爺は複雑な事情を察した。
「犬とかウサギが家にはいたんだけど、ぼくが医者になりたいなんて言うのは、動物なんかが近くにいるからだってお父さんが……。」
シアンは言葉をつまらせた。
「飼ってた動物捨てちゃったんだ……。」とマゼンタは言った。
「……う、うん」
シアンは泣きそうな顔でうなずいた。バン爺は、シアンが正直に話していないことを少年の様子から察した。
「まぁ、先ずは等級魔術師になってから、その後に医者になるというのも、不可能ではないんじゃが……。」
「それだと難しいの?」
「他の等級ならともかく、1級を目指すにはただ強力な術式が使えるだけじゃいかんのじゃよ。2級に上がるのでさえ、力だけではなく術式の研究、育てた弟子の数で判断される。さらに1級となると、アカデミーの推薦と審査が入りよる。言ってみれば、人生を1級になるために捧げた者だけが、1級になれると言ってもよい」
「そんなに大変なんだ……。」
「実力もさることながら、運も大きいものじゃっての……。」
「シアンくんでも必ずなれるとは限らないんだね……。」
「100年に一人というくらいの、突出した才能があれば、あるいは……。」
バン爺はシアンを見る。
「まぁ、お前さんの人生を親父さんが四六時中監視しとるというわけでもあるまい。お前さんの人生じゃ。仮に等級魔術師になったとしても、折を見てお前さんの行きたい道に進めばよいんじゃないか?」
「……できるかな」
バン爺が顔をシアンに近づけニヤリと笑って囁く。
「それにのう、どうせ親父さんの方が先にくたばるんじゃ。親父さんが死んだ後の人生がお前さんにはあるんじゃぞ?」
「……うん」
「大賢者も言ってるしね、“親よりも子の人生長し”って」
「だいたいがそうじゃわい……。」
しかし、マゼンタとバン爺にいくら背中を押されても、シアンの表情は晴れなかった。
シアンが就寝した後、バン爺は居間で酒を飲んでいた。
「……まだ起きてんの?」
マゼンタが下着姿で現れた。手足はすらりと長く引きしまり、一見すると少年のようだったが、胸は十分に発達している体だった。
「……年頃の娘が何ちゅう格好を」
「別に、子供と老人しかいないのに、気にする必要ないじゃない?」
「……まったく」
マゼンタは桶の水を杓子ですくって、ぐいと飲んだ。
「……眠れんのか?」
「……うん」
マゼンタは口を腕でぬぐって奥の部屋を見た。
「シアンくんが可愛すぎて、危うく襲いそうになっちゃう。寝顔もやっぱりマジ天使」
「あそ」
「バン爺も眠れないの?」
「……まあのう」
「……ちょいちょい気になるんだけどさ」
「何じゃ?」
「バン爺、何かシアンくんについて知ってることがあるんじゃない? バン爺を見てると、何か言いたげっていうか、妙に何かを気にしてるように見えるんだけど?」
「どうしてそう思う?」
「女の勘よ」
「これは、驚いた」
「なにさ?」
「思いのほか察しが良いんじゃな。行き当たりばったりで生きとるだけかと思ったが」
「へへ、まぁね。……それって、誉め言葉だよね?」
「お前さんがそう思うのなら、そうなんじゃろうな。……さっき、あの子が動物の話をしとったろう。家で飼っておった犬やウサギの」
「言ってたね」
「ありゃ、多分、捨てたんじゃないじゃろう」
「……じゃあ何さ」
「処分したんじゃよ……。」
「……どうして、そう思うの?」
「じじいの勘じゃ」
「察しが良いのね。歳くってもうろくしてると思ってたけど」
「やりかえさんでもええじゃろ」
「……他には?」
「何じゃ?」
「他にもあるんでしょ? あの子の事で気がかりなことが」
バン爺は酒を一口飲んだ。
「まぁな。あの子の術式が突出しとるということじゃが……。」
「すごい才能の何がいけないのさ?」
「……ちょいと表に出ようか」
バン爺とマゼンタは表に出た。
そのまま2分ほど無言で歩き続けるバン爺にマゼンタは訊ねた。
「……ちょっと、どこまで行くつもり?」
バン爺は自宅をふり返る。
「これくらい距離があればええじゃろ」
「え?」
バン爺は持ってきていた、小さなツボを地面に置いた。そして「離れろ」と言って、マゼンタと一緒にそのツボから距離を取った。
「……何をするつもり?」
「お前さん、初めてあの子と出会った森で、木々が破壊されとったのを覚えとるかね?」
「ああ、そういえば、そういうこともあったね……。」
「ふむ……。」
バン爺は右手をツボに向けた。
「……ん?」
瞳を閉じ、二回深呼吸をすると、バン爺の右手が青白く発光し始めた。
「ちょ、ちょっと何なのさ……。」
バン爺が目を開く。すると、右手から光が放たれ、地面に置かれたツボに命中する。ツボは破片をまき散らして砕け散った。
「……すげ」
軽く息を切らしながらバン爺は言う。
「……魔術師の力量を測るなら、このやり方が一番でのう。ただ単に、魔力を放出するというものじゃ。原始的じゃが今でも等級試験ではこれをやっとる。ふぅ、やれやれ……今のワシならこれでも結構しんどいわい」
「これでもかなりすごいと思うけどね……。」
「“これでも”じゃと? 思い出してみい、あの森の破壊の跡を」
「……あ。……ちょっと待って、うそ、まさか」
「そうじゃ、あの子もあの森で、今ワシがやったのと同じことをやったんじゃ。じゃが、あの子のはツボを破壊するなんて生易しいものじゃなかったろう」
マゼンタは、えぐれた木々の幹や、大きく空いた地面の穴を思い出した。
「で、この魔力の量に加えて、自分自身と相性の良い術式を組み合わせて、魔術師は術を使うんじゃ。昼間に見た通り、ワシはこれに木や土の精霊、土地神と対話をして術を使う。じゃがあの子はテイマーに加え、ヒーリングまで使いよった。物を治すという術式は力量もさることながら、かなり複雑な術式だというのに。そもそも、術式を二つ使えるということ自体、並みの魔術師にできることじゃないんじゃ。体が悲鳴を上げよる。あの歳であそこまでの術が使えるのは尋常じゃあない、異常じゃ。才能はもちろんじゃが、いったいどんな厳しい訓練を受けたことか……。」
マゼンタは口に手を当てて考え込んでいた。
「……どうしたんじゃ?」
「……バン爺、あのさ」
マゼンタは水浴び中に見たシアンの背中の傷の事を話した。バン爺は静かな面持ちでそれを聞いていた。
静かにバン爺が口を開く。
「ふぅむ。なるほど、あの歳でとんでもない修行をつんどるようじゃの……。いや、そりゃもう修行っちゅうより虐待に近い。あの魔術はそれで……。ならば、このまま帰したらあの子がどんな目に合うか……。」
「何とかしなきゃ」
「何とかって、どうしようっちゅうんじゃ」
「助けるんだよ、あの子を」
「今朝にも言ったじゃろう、赤の他人にできること何ぞたかが知れとると」
「たかが知れてるかもしれないけど、それでもできることがあればやらないと」
「……アイリス伯を敵に回すかもしれんのだぞ」
「そうなったらそうなったそうなった時、まずはあの子だよ。あんな子供がひどい扱いを受けて良い理由なんて、あるはずがないんだから」
「助けたとして、その後はどうするんじゃ? きっとあの子の抱えとる問題は、ちょっとした手助け程度で解決するもんじゃあないぞ。お前さんは、あの子の人生に責任を持てるのかね?」
「もちろん持てないよ」
「なんじゃと?」
「分かんないなぁ……なんでこう、人を助けようってときに、責任とか義務とか言い出すわけ? あたしがそうしたいからそうするんだよ。無責任でもいいじゃない。別に恩を売るわけでもないんだ。誰かを助ける時なんて、もっと簡単に考えればいいじゃん。そうすれば皆もっと簡単に誰かを助けられるんだから」
「……向こう見ずじゃな」
「大賢者も言ってるよ、“向こうが見えたとしても、そこに行くまで事実は分からない”って」
「……今思いついたじゃろ?」
「ばれた?」
「……ま、それもええじゃろ。勢いで突っ走るのも若さの特権じゃからのう。しかしまぁ、昨日今日出会ったばっかりの子供にえらい入れ込みようじゃな。例の母性とやらか?」
マゼンタは恥ずかしそうに両手で胸をおさえた。
「……あたし、もうお乳が張り始めてるの」
「……食い過ぎじゃ」
バン爺は遠くを見ながら言う。
「……まぁ、まったく当てがないというわけじゃない」
「え? ほんとにっ?」
マゼンタが目を輝かせる。
「……じゃが」
あのシアンの異常な魔術の力、それに言い知れぬ不安をバン爺は抱いていた。突出した才能、激しい訓練、彼の経験上それだけでは説明がつかないものだったからだ。