アッシュを完全に無視するアイリス伯、その視線の先にはマゼンタの掲げられた手が、そしてそこにはクリスタルが握られていた。

「こっちよ、こっちに来なさいバケモノ!」
「う、う、か、返せぇ! グレイスうぉお!」

 マゼンタの方へ向かうアイリス伯、マゼンタは背を向けて全力で逃走する。

「や、やめぃ、あ……あぶないでっ」
「へへ~ん、伊達(だて)にシーカーやってないんだからっ。危なくなった時は、この逃げ足で何とかしてきたんだ!」

 確かに、そこそこマゼンタの足は速かった。しかし──

「……こっちまで来てみなよっ。……え?」

 はるか後方にいたと思っていたアイリス伯が、マゼンタの目の前にいた。驚異(きょうい)跳躍力(ちょうやくりょく)で一気に距離を縮め、さらにマゼンタを飛び越えていたのだった。

「……あれ?」

 アイリス伯はマゼンタを捕まえようと両手を広げ、そして抱きしめるように閉じた。
 マゼンタは横っ飛びで地面を転がりそれを避ける。

「ぎ、ぎざまっ」
「ちきしょうっ、デカブツのくせに何てスピードっ?」

 マゼンタはアイリス伯の捕捉を逃れようと、ちょこまかと動き続ける。横っ飛びで避け、前転でアイリス伯をくぐり抜け、側転ですり抜けていた。
 しかし、魔術師でもない人間の限界があった。マゼンタはアイリス伯のビンタを肩にくらい、ぐるぐると回転して飛んでいった。

「きゃあっ!」

 瓦礫の上に倒れたマゼンタにアイリス伯が迫る。

「ぐ、ぎ、小娘……手間を……かけさせてくるぇたな」

 マゼンタはよろよろと起き上がる。

「……あ、あんたさ、人間までやめて、何がしたいのさ? 今のあんた見て、奥さんがどう思うと思うの? あんたの中では、いったい誰が幸せになってんの?」

 アイリス伯はマゼンタの髪をつかんで持ち上げた。

「す、すべてうぉ取るぃ戻すんだぁ! 妻を、グレイスを、かつて夢見た栄光うぉ! そうしなけるぇば、私の人生は……人生はぁっ!」
「へ、へへ……いつまで過去に(とら)われてんだい。大賢者が言ってたよ? “思い出と戦っても勝てやしない”って」
「ふん! 誰だそるぇはぁ!?」

 マゼンタは人差し指をぴんと立てて笑った。

 バーガンディ・ローゼス

「……。」

 アイリス伯は異変に気づいた。マゼンタの手にも胸元にも、クリスタルはなかった。
 マゼンタは決めポーズを取っているのではなかった。何かを指さしていた。
 その方向をふり返って確認するアイリス伯。後方には、意識を取り戻しクリスタルを手にしたバーガンディ・ローゼスがいた。立ち回りの最中、マゼンタはクリスタルを仲間にパスをしていたのだった。

「貴様っ」
「終わりにしようや、セレスト・アイリス。お前さんとワシの因縁(いんねん)も、すべてを」
「や、やめるぉおおおお!」

 狂乱(きょうらん)してアイリス伯が迫る。
 バン爺はクリスタルを握りしめ、オドの力で握りつぶして破壊した。

「あ、あ、ああああああ!」

 バン爺の手の中でクリスタルが砕け散ると、鮮やかな青の光の粒子が辺りを包んだ。光の粒子は意志を持っているかのように波打ち、そして渦巻いた。

「こ、こりゃあ……。」

 そこにいるすべての人間がその幻想(げんそう)的な光景に心を奪われていた。
 やがて光の粒子はゆっくりと1か所に集まり、それは人の形を成し始めた。おぼろげだったその人の形は、次第に表情も分かるほどにくっきりとしたものになる。

「……母さん」
 意識を取り戻していたシアンが言った。

 そして光の粒子は再び霧散すると、風に流されるようにすぅっと消えていった。

「う、うぐぅおおおおお!」

 すると、アイリス伯が胸を押さえて苦しみ始めた。妻のクリスタルで安定していたコアの出力が暴走し始めていた。

「父さん?」
「あ、ぎ、ぎぃああああああああ!」

 アイリス伯の胸が緑色に光り始めていた。体はさらに奇妙にゆがみ、このまま体ごと砕け散ってしまいそうだった。もうこの男は救えない、誰もがそう思っていた。ひとりをのぞいては。

「……シアンや、お前さんヒーリングはまだ使えるかね?」
「……大丈夫だと思う」
「……うむ」

 バン爺はなくなった左手首の傷口を地面に押し付けた。

「……バン爺さん?」

 そして手を引き上げると、そこには金属でできた義手が形成されていた。
 バン爺はすたすたと苦しんでいるアイリス伯の前に立つ。

「……今解放してやるぞ、アイリス」

 そして義手となった左手の手刀でアイリス伯の胸を貫いた。

「ごぶっ」

 アイリス伯の胸から手を引き抜くバン爺、その手にはコアが握られていた。
 バン爺はコアに術式を使用すると、それを自分の真上に、天高く投げ捨てた。
 コアは空で四散した。そのコアの力はシアン作り出した厚い雲に吸収され、空からオドを含んだエメラルドグリーンの小雨が降り始めた。
 倒れたアイリス伯は、しゅぅっという音を立てながら体が縮ませ、次第に元の体に戻っていった。

 そんなアイリス伯を見ながらバン爺が言う。
「……急所は外しとる。じゃがほっとけば失血で助からんじゃろう。……シアン、やれるかね?」
「うん」
「……もとい、やりたいかね?」
「……うん」
「ええじゃろ」

 バン爺は「疲れたぁ」と言うと、瓦礫の上に座り込んだ。

「……大丈夫?」
 マゼンタがそんなバン爺をねぎらう。
「まったく、また寿命が5年くらい縮まったわい……。」
「……明日死ぬじゃん」
「洒落にならんて」

 シアンは無言で父親の傷を治し始めた。胸元に当てた手が青白く光る。
 息が絶え絶えのアイリス伯は、辛うじて開いた目で自分を癒す息子を見る。

「……シアン」
「……良かったのう、お前さん、息子に命を救われたぞ」
「う……く……。」
 アイリス伯は首を上げ何かを言おうとするが、言葉にならない。
「じゃがそんなもんじゃ。子供に生を与えるのは親じゃが、親に人生を与えるんが子供なんじゃよ」
「……シアンくん、もし余裕があったらバン爺の傷も治してあげて。こっちもけっこう深刻だから」

 上腕部の太い動脈を縛って押さえているが、バン爺の左の手首の先からは血が流れ始めていた。
 アッシュもマゼンタたちの側で腰を下ろした。

「シアンくん、もっと余裕があったらでええんやけど、俺も見てくれんやろか」
 そう言って、アッシュは骨折しているかもしれない自分の頭を指さした。
「あんたのは唾つけときゃ治るでしょ」
 アッシュは面を喰らった顔をするが、すぐにいつもの笑顔の戻った。
「へへ、そうやなぁ、マゼンタちゃんの唾やったら治るかもしれへんねぇ」
「ぺっ」
 マゼンタはアッシュの顔に唾を吐きつけた。
「どう? 治った?」
 唾をおでこから垂らしながらアッシュは言う。
「……俺、そんなに嫌われるようなことしましたっけ?」
「……傷は(ふさ)がったよ」
 シアンが言った。アイリス伯の出血は止まっていた。
「おお、そうか……。」
「バン爺さんも傷を見せて」

 そうしてシアンはバン爺の左手首を取った。もう戻ってこない左手だった。