「放して!」
「落ち着けグレイス!」

 グレイスは、自分をバーガンディのスパイだと信じて疑わない夫の手を振りほどく。

「落ち着くのはあなたじゃありませんか!」
「私は冷静だ!」
「そうやって怒鳴るのはやめてください!」

 アイリス伯は落ち着こうとするが、呼吸が上手く整わない。

「……グレイス、いい加減にしろ。お前は自分が何をやろうとしているのか分かっていない。お前が……お前がここから消えたら、今までの研究がすべて無駄になるんだ」
「……知ってます。だからこそ、わたしはここを出たいんです」
「なにぃ?」
「わたしがいなければ安定しない術式なら、これはもう失敗している様なものではありませんかっ」
「ち、違う、もっと研究を進めていけば必ず……。」
「もう限界なんですっ。わたしを、わたしとシアンをいつまで縛り続ければ気が済むんですかっ?」
「このっ」
「ああっ?」

 思わずアイリス伯はグレイスの顔を平手で打っていた。グレイスは地下室の石畳の上に倒れる。

「あ、グレイス、す、すまん……これは、違うんだ……。」

 感情に任せて妻を殴ったことにアイリス伯はうろたえる。額からは大粒の汗が流れていた。
 倒れたグレイスは泣き声も上げなかった。その沈黙が、女が激しく怒っていることをうかがわせる。

「グ、グレイス……?」

 グレイスの感情に反応して部屋の中のクリスタルが緑色に光り始めた。

「お、おい、グレイス、落ち着け……。」

 しかし、アイリス伯がそう言うものの、光はより強くなるばかりだった。

「グレイス! 逃げろ! 今すぐ部屋を出るんだ!」

 出口へ走り、アイリス伯は研究室の入り口の扉を開け妻を呼ぶ。 
 うずくまった状態から、グレイスは顔を上げた。 

「……グレイス」

 最後に見たグレイスの表情の意味をアイリス伯は分からなかった。しかし、最後に妻が発した言葉は何とか聞き取れた。

「……シアンを」

 広い地下室の研究所から強烈な緑色の光が放たれた。アイリス伯は吹き飛ばされ、出口から廊下の壁に叩きつけられた。

「……ぐぁ!」

 衝撃でアイリス伯は気を失いかけていたが、朦朧(もうろう)とする頭を手で押さえながら研究室へ戻ろうとする。

「……グレイス?」

 砕け散ったクリスタルが光る研究室の真ん中で、妻が倒れていた。

「グレイス!」

 グレイスのもとに駆け寄るアイリス伯。妻の身を起こすが、すでに意識も呼吸もなかった。激しいマナの暴走に体を(つらぬ)かれ、外傷はないものの生命機能が停止していた。

「グレイス、頼む! 目を開けてくれ! わ、私はこんなつもりじゃ……!」

 悲嘆(ひたん)にくれて、激しくアイリス伯は泣きじゃくり始めた。夫として、妻を目の前で亡くしたならばそれは当然の反応だった。しかし、長年魔術の研究者として人生を費やしてきたアイリス伯は、悲しむ気持ちを切り替え、すぐに異変に気付いた。

「……どういうことだ?」

 クリスタルの反応がおかしかった。グレイスの術式によってはじめてクリスタルは出力を安定させる。もし、グレイスが術式を解くか、あるいは死亡したならばこの研究室にあるクリスタルはすべて暴走して爆発していたはずなのに、爆発したのはグレイスの周りにあるクリスタルだけだった。アイリス伯は妻の脈や呼吸ではなく、体内のオドを調べ始めた。

「これは……。」

 生命機能は停止している。それにもかかわらず、グレイスの体の中にはオドが生前の時のように充満していた。
 この時、アイリス伯の耳元で悪魔が囁いた。動植物に対してのみ使用していた術式を人体に対して使用するという禁忌(きんき)。妻を救いたいという夫の気持ちと、自分をあきらめられない男の野心が(いびつ)に結びついていた。



「なんじゃ、術式の研究を完成させとったんは、お前さんじゃなくて奥方じゃったんか……。」
 バン爺は「もとい、完成したように見えとっただけじゃな」とため息まじりに言った。
「……おっちゃんが直接手を下したんとは違うとは思いますけど、やっぱり俺としては容認(ようにん)はできひんな。事故の原因作ったんはおっちゃんなんやから」
「アイリス伯よ、もうええじゃろ」
「もう、良いだと?」
「全部が偽りじゃ。お前さんは目的地を見失っとる。研究を完成させたんじゃない。完成させたと信じたいだけじゃ、お前さんは」
 アイリス伯はぶつぶつと独り言のように言う。
「完成はするんだ。……するはずなんだ。もう少しなんだ……。」
「これまで投げうったものを考えたら、なかなか退けんじゃろうがな」
「ここであきらめるわけにはいかない……。すべてが……無駄になる」
「もう十分台無しにしとるぞ」
「……黙れ」
「アイリス伯……。」
「黙れ黙れ黙れ! 私の研究は完成する! 貴様らが理解できないだけだ!」

 アイリス伯は立ち上がった。そして上着を破り、上半身をむき出しにする。

「何をやっとるん……アイリス伯っ、それはっ……」

 アイリス伯の胸元が緑色に光っていた。

「おっちゃん、まさか、自分まで……。」
「当り前だ! 息子だけを危険な目に合わせるわけがないだろう!」

 胸元の光がさらに強くなり、アイリス伯から強烈なオドの解放が始まった。アイリス伯を中心に風が吹きすさぶ。

「う、うお……。こりゃまずいの……。お、おい、アイリス伯、ちぃと落ち着かんかっ」
「終わらない、終わらせられない……。」

 アイリス伯の体が変異し始めていた。体が巨大化するところはシアンの変身にも近いが、左右の腕の長さが違い、目も左右で大きさが違う。それどころか、こめかみに新しい目が発生していた。アイリス伯は別の生き物になろうとしていた。

「奥方の力がないとクリスタルの出力は安定せんのじゃろ? アイリス伯よ、そんなことをしたら、お前さんの仲にあるコアが暴走するんじゃないのかっ?」
「あ……が……うぁ……。」
「……イっちゃってんじゃん」とマゼンタが呟く。
 
 体を変身させながらアイリス伯が叫ぶ。

「夢は、あきらめなければ、きっと叶うんだーーーーッ!」
「うわぁあああああ!」
「きゃあ!」