ディパーテッド~最強魔術師は毒親育ち~

 



 あたり一面が炎に包まれていた。樹齢(じゅれい)100年は越えようという木々も、その高温の炎で一瞬にして灰になっていた。
 しかし、そんな業火(ごうか)の中、平然(へいぜん)と立ち尽くす姿があった。
 真っ白い肌と青い長髪の大男だった。男は全裸だったが、体中の筋肉は盛り上がり、まるで巨大な石像のようであり、そこに猥雑(わいざつ)さはまったくなかった。
 男の長い髪は業火の風でなびき、肌は色とりどりの光で美しく光っていた。
 恐ろしい美しさだった。誰もがその男を見たら、審判(しんぱん)のために舞い降りた神の使いと思ったかもしれない。何より、この業火を作り出しているのはその大男だった。
 そんな破壊の化身のような大男の前には、女と老人が立っていた。

「シアンくん!」
 女は男に近づこうとするが、強い炎と豪風がそうさせてくれない。
「シアンくんいったいどうしちゃったの!? バン爺、村の皆は!?」
 老人は彼らが来た方角に目をやる。
「あそこまでは火の手も煙も上がっておらん、まだ大丈夫じゃろう!」
「わ、分かったっ。……シアンくんっ! いい加減にしなよ! あなた、この国ごとぶっ潰すつもり!?」

 女の言っていることは大げさではなかった。森の木々はなぎ倒され、炎が上がり、遠くの山は形が変わっていた。さらに大空は厚い雲におおわれ、雷鳴が絶え間なくなり続けているのだ。その光景はまさに世界の終わりだった。

「う、う、う……。」
 女の言葉に反応したのか、大男は両手で頭を抱え始めた。
「……シアンくん?」
「う、う、うおおおおおおッ!」

 筋肉を硬直させ、獣のような雄たけびを大男が上げる。そして、瞳が太陽のように輝くと、男の両目から光線が放たれた。
 光線はふたりの隣の山を吹き飛ばした。山はスプーンでプリンをすくったようにえぐれていた。

「ちょ……。」
 ふたりは山を見て呆然(ぼうぜん)とする。
「マゼンタ……逃げた方がええかもしれん」
「だって……あの子をこのままほっとけないよ! それに、あたし達が逃げたら村がどうなるか……。」

 そう言ったものの、女は自分でもなんともしようがない事が分かっていた。
 百年に一人の天才どころじゃない。これではまるで……。
 禍々(まがまが)しい名前を、心の中でさえ口にするのを女はひかえた。

「お願いシアンくん! あたしの声が聞こえないの!?」
 その声に気づいたのか、大男の顔が女の方を向いた。
「シアンくん! あたしよ! マゼンタ! 気づいて!」
 大男の瞳が再び強烈な光を放ち始めた。あの光線だ。
「……シアンくん」

 強烈な光の前に、女は目をつぶった。
──5日前・ダンデリオン(はく)直轄領(ちょっかつりょう)にて

「信じられませんな……あれが12歳の少年ですか?」

 その日、アカデミアの魔術師の間では騒ぎが起きていた。検定試験(けんていしけん)にて、天才少年が現れたということだった。
 現在行われている等級魔術師(とうきゅうまじゅつし)第一次検定試験は、ただの試験ではなかった。王立アカデミア主催(しゅさい)による、国中の魔術師を集めて行われる5年に一度の試験、権威(けんい)規模(きぼ)も他で行われているものとは比べ物にはならない。ここで選抜された魔術師は7級から3級の称号を与えられ、特に4級以上になると王都直属の魔術師として王宮入りする。5年に一度の開催だが、初めての試験で4級以上の称号を与えられるのは非常に(まれ)だった。ところが、今回、初めての試験で3級入り確実と言われる新人が現れたのだ。しかもまだ子供だという。

「もっと信じられんのが、それがアイリス伯の子息という話だ」
「なんと? ……あの?」
「そう、“あの”だ」

 ダンデリオンの城下町、人のにぎわう商店街でふたりの初老の魔術師は意味深な会話をしていた。

「……噂をすれば」
 魔術師のひとりが言った。彼らの先には、噂の少年を連れたアイリス伯が歩いてきていた。
「……これはこれは諸先輩方(しょせんぱいがた)、お久しぶりです」

 自信に満ちた声でアイリス伯は言った。50代前半、大柄で紺色の長髪と口を(おおう)うヒゲが特徴的な男だった。魔術師というよりは歴戦の戦士に近い印象があった。
 アイリス伯の隣の少年は、12歳という話だったがそれよりも幼く見えた。体も弱そうだった。透き通るような真白い肌に薄い水色の長髪、一見すると少女にも見える美少年だった。

「おお、アイリス伯、お久しぶりですなぁ。何年ぶりでしたかな?」
「そうですな、王都から追い出されてからというもの、ここには足を運んでませんので……。」
 ふたりの魔術師はぎょっとした顔をする。
「まぁ、かれこれ30年ほどになりますかな」と、アイリス伯は皮肉めいた笑いを浮かべて言った。
「お、おお、もうそんなになりますか」
 ひとりの魔術師の(ひたい)からはうっすらと汗が流れていた。
「伯が王都を去ってから、ここもずいぶんと静かになりましたよ」
 もうひとりの魔術師は、アイリス伯に負けじと皮肉めいた笑いを浮かべて言った。

 三人の大人たちは、嘘くさい笑顔を浮かべて向かい合っていた。少年は力のない青い瞳でそんな大人たちを見ていた。

 話を変えようと、魔術師のひとりが口を開いた。
「……聞いた所によると、とても優秀なご子息らしいですな」
「ええ……。」
 アイリス伯は少年を見て微笑(ほほえ)んだ。
「試験官のアカデミアの会員も言っておりましたよ、今まで見たどの魔術師よりもポテンシャルがあると。参りましたね、まだ一次試験だというのにここまで評価されても」
 謙遜(けんそん)するものの、アイリス伯のその口調は傲慢(ごうまん)だった。
「いえいえ、私も遠くから見ておりましたが、簡単な術式(じゅつしき)ひとつにしても、頭一つどころか二つは飛びぬけていますよ」
 アイリス伯は「恐れ多い」と、うれしそうに首を振る。
「この子は私の悲願です。きっと、2級魔術師はもちろん、やがて1級魔術師にもなってくれるでしょう」
「ほ、ほほ、大きく出ましたなぁ」

 アイリス伯の口から出た1級魔術師の宣言、おいそれと口にできるものではなかった。それはただの優秀な魔術師を目指すということではない。この国の政治に関わるということを暗にほのめかしているのだ。

 老齢の魔術師がシアンに言う。
「やはり、君の将来の目標も1級魔術師なのかね?」
「はい。1級にもきっとなれると思っています」
 少年は父が恥をかかぬよう、はきはきと答えた。
「……ほほぅ」
「では、我々は次の試験に備えなければなりませんので、これで……。」
 そう言って、アイリス伯は息子を連れて去って行った。

 アイリス伯が去った後、魔術師たちは「相変わらず傲慢な男だ、まるで()りておらん」と口々に言いあった。
 一方のアイリス伯は満足げだった。彼らに一矢(いっし)(むく)いたように思っていた。そんな父親の顔を、少年は恐る恐る見ていた。

「……そうだシアン、今日の試験の褒美(ほうび)に何か買ってやろう」
「……え?」
「何でも良いぞ」

 上機嫌の父親の言葉にシアンは戸惑った。買ってほしいものはいくらでもある。たとえば、パン屋で売られているブリオッシュに、露店(ろてん)に並んでいる木彫りのドラゴンなど。しかし、何でも良いと言っておきながら、うかつなものを欲しいと言うと父が不機嫌になることをシアンは知っていた。

「……そんなものが欲しいのか?」と、息子の視線の先にある木彫りのドラゴンに気づいたアイリス伯が言った。“そんなもの”の後には、「そんな子供みたいなもの」が続きそうだった。
「えっと、あの。……違います」
「なんだ? じゃあ何が欲しい?」
「だ、大丈夫……です」
「なんだ、何もいらんのか?」
「は……はい……。」

 これが一番、子供にとって間違いのない答えだった。こう答えておけば、父が少し機嫌が悪くなるだけで済む。

「……つまらん奴だ」


 その後、ふたりは宿の食堂で夕食をとった。皿のシチューの中には少年の嫌いなアスパラガスが入っていた。頑張れば食べられなくもないが、そのシチューのアスパラガスは大きめに切ってあるので、ことさら少年には食べづらかった。
 アスパラガスに戸惑っているシアンを見ると、アイリス伯は自分の皿に入っているアスパラガスをすべて息子の皿に入れた。

「……あ」
「……食べ終わるまで、ここは動くな」

 シアンはしばらく皿を見ていたが、覚悟を決めてアスパラガスを口に運んだ。食べづらい大きさのアスパラガスをゴリゴリと咀嚼(そしゃく)する。数回噛んだアスパラガスをごくりと飲み込んで、シアンは父親を見た。父親は腕を組んでこちらを(にら)みつけていた。
 シアンは涙を浮かべながらアスパラガスを食べ続けた。


 シアンが何とかすべて食べ終えた後、ふたりは借りていた宿屋の部屋に行った。

「シアン、明日は個別試験だ。試験官からは今日よりも注目される。明日はこれを着ていきなさい」
 部屋に入るなり、アイリス伯は鞄からローブを取り出した。
「これは私がお前くらいの頃に着ていたローブだ。きっとお前に力を与えてくれる」

 古びたローブだった。昔は立派な代物だったのかもしれないが、今ではほつれが目立ち、白い布地は黄ばみ、どうにもみすぼらしかった。

「……え」
「ほら」

 ローブを手渡され困惑するシアン。断ろうとしたものの、笑顔の父の瞳に高圧的な光を感じ、しぶしぶとローブに袖を通した。長い間クローゼットに眠っていた古い布地は少年の弱い肌を刺激した。むずがゆくなったシアンは体をもぞもぞと動かす。

「……どうだ、シアン? 明日は父と一緒に試験を受けるのだぞ。ともに栄光をつかむのだ」
「……えっと、これ」

 アイリス伯はほほ笑むが、シアンは着心地の異常な悪さに父に気づいてほしかった。その素振りとして袖のほつれを見てみた。

「いったい何が気に食わんのだッ!?」
 突然の父の怒声、少年の体がぴくりと硬直する。隣の部屋の客もびっくりしたらしく、隣から物が落ちる音がした。
「うじうじしおって! 言いたいことがあったらはっきり言え!」
「そ、袖がほつれています」
 自分の善意を受け取ってくれない息子にアイリス伯は気分を害した。
「だったら()い直せばいいだろうっ!」
「え、今から……ですか?」
「そうだ!」
「でも……針も糸も……。」
「何だ!? 持ってきていないのか!? 信じられん奴だ準備を(おこた)るとは! この間抜けめっ!」
「だって……。」
 魔術師の検定試験に、針と糸が必要だと思うはずもなかった。
「くだらない言い訳はよせ。自業自得(じごうじどく)だ、明日はそのままそれを着ていくようにっ!」
 返事をしない息子に父は念を押す。
「いいなっ?」
「……はい」
「大体なんだ、昼のお前のあの態度は!」
「……え?」
「きっと1級になれるだと!? それはお前が決めることじゃないだろう! おだてられるとすぐに調子に乗りおって! おかげで恥をかいたぞ!」
「あ、あれは……。」
「なんだ!? 何が言いたい!」
「……す、すみませんでした」
「まったく、一向に成長せん奴だ!」

 その後、シアンは寝る準備を始めたが、父は「少し出てくる」と言って城下町にくり出していった。

(また間違えてしまった……。)

 シアンはふと、部屋の窓から外を見た。そして、自分の目の前に思いもしなかった選択肢が現れたことを知った。


「……帰ったぞ」

 それから2時間後、酒の臭いを体中から(ただよ)わせてアイリス伯が部屋に帰ってきた。部屋は(あかり)が消され暗かった。アイリス伯はベッドの上でシーツに丸まった息子を見る。

「……さすがに寝ているか」

 アイリス伯はベッドに腰かけると、瓶の中に入っている酒をグビリと飲んだ。
 体をベッドに放り投げ、自分も眠りにつこうとしたとき、アイリス伯の両目がぱちりと開いた。
 何か違和感を感じた。上半身を起き上がらせ、息子が寝ているベッドを改めて見るアイリス伯。そこに生物の気配を感じなかった。
 アイリス伯はベッドから出ると、息子が寝ているはずのベッドのシーツをめくった。

「なっ!?」

 そこに息子の姿はなかった。荷物を丸め、あたかも誰かが寝ているように偽装されていた。
 アイリス伯は部屋を見わたす。しかし、(せま)い部屋に他に隠れるところなどなかった。

「あ、あ……ああああああっ!」
 アイリス伯は狂ったような奇声を上げた。
──それから3日後

 マゼンタが目を覚ますと、見慣れない天井があった。

──ここ、どこ?

 ベッドから上半身を起こすと、白いシーツがはらりとはだけた。彼女は裸だった。
 隣を見ると、同じく裸の男が寝ていた。状況を理解し、マゼンタは頭を抱える。

──やってもうたぁ……。

 酒の勢いとはいえ、行きずりの男と寝てしまっていた。しかも昨夜はそこそこイケメンだと思っていたその男は、朝日に照らされた今、まったく魅力的に見えなかった。
 マゼンタは自己嫌悪を感じながらベッドから起き上がると、早々に服を着た。

「何だよ、もう出るのか? もう少しいいだろ?」

 目を覚ました男がマゼンタの手首を引っ張った。マゼンタはベッドに腰をかけなおす。女は酒の魔法が()けていたが、男はまだ夢の中にいた。男はマゼンタのショートカットの赤髪を手ぐしでなでると、体に手を回してベッドに押し倒した。

(とり)ガラみたいな体と思ったけど、良い抱き心地だったぜ。お前、着()せするんだな」
 男はマゼンタの上着の裾から手を(すべ)り込ませる。
「わぁ嬉しい」

 マゼンタは棒読みで答えた。短めの髪の上に、地味な若草色のシャツにレザーのベストを羽織(はお)り、パンツスタイルのマゼンタは、シャープな体つきも手伝って一見すると少年のようにも見える。
 マゼンタは男の手を振りほどき、ベッドから起き上がった。

「雨やんでる」
「え?」
「屋根貸してくれてありがとう。じゃあね」

 別れの愛想笑いを男に捧げてマゼンタは部屋から出ていった。ドアの向こうから男が何かを言っていたが、彼女は一向に気に()めることはなかった。


 外に出ると日は真上まで上っていた。マゼンタは雑貨屋や酒場、食堂が()ねられているシーカーのギルドに足を運んだ。朝食兼、昼食兼、情報収集のためだった。
 マゼンタが残飯のようなお粥を食べていると、掲示板の前がやたら騒がしいことに気づいた。何か割の良い仕事が入ってきているのかもしれない。

「おい、聞いたかよ、とんでもねぇおいしい仕事じゃねぇか」
「ああ、失踪(しっそう)した子供探すだけで5万バリィだってよっ」

 マゼンタは彼らの方を振り向いた。次に室内にある掲示板に目をやると、食事を早々に終え、人が群がっている掲示板の前に行った。
 確かに、彼らの言うように掲示板には少年を探し出すだけで5万バリィの報奨金が出るという依頼書が貼られていた。他にも貼られている、羊飼いからのダイアウルフの退治や、鍛冶屋からのダイムライト採掘の手伝い等の依頼書には誰も目もくれなかった。

「すっげぇ……。」

 マゼンタは思わず口に出していた。5万バリィといえば、この国では3年は遊んで暮らせる金額だった。ギルドの寄り合い所の中では、シーカーたちが知り合いとパーティーを組み始めていた。こんなうまい仕事を逃してはならない、マゼンタもさっそく多少顔を見知った男たちに声をかけ始める。

「ねぇ、あんたたち、あたしと組まない?」
「はぁ、冗談じゃねぇよ、5万バリィの大仕事だぜ? オメェみてぇなガキと組んでられっかよ。だいたい、パーティーの頭数増やしちまったら、取り分が減るだろう」
 男たちはマゼンタを邪険(じゃけん)に扱う。
「そうだぜ。それによぉ、マゼンタ、オメェ自分の事をシーフとか言ってるけど、単なるこそ泥だろうが。役に立ちゃしねぇよ」
 ガラクタの(かぶと)をかぶった男がマゼンタの肩に手を回す。
「まぁ、俺らが大金をせしめた時には、オメェを買ってやるからよ。それまで待ってな。また(・・)楽しもうぜ」
 兜の男はマゼンタのベストの上から胸をもんだ。
「娼婦じゃねぇし」
 マゼンタはその手をつねった。兜の男はその手をさすりながら笑う。
「そっちの方が向いてんじゃねぇか?」
 そうして男たちは笑いながら去って行った。

 マゼンタは席に戻ると、ふてくされてテーブルの上にドカンと足を投げ出し、そして足を組んだ。マゼンタは顔だけならば勝気な釣り目で戦士のような(おもむき)もあるが、まだ18歳と若く実績もなかった。しかし……。

「腕には自信があるんだけどなぁ……。」

 マゼンタは(ふところ)から財布を取り出した。先ほど、彼女の胸に手を入れてきた男の財布だった。マゼンタは財布の中身を確認する。

「……しけてんの」
「ほっほっほっ、ご機嫌斜めじゃのう」
 マゼンタの向かい側にひとりの老人が腰かけた。
「……バン(じい)

 やせこけた、茶色い肌のシーカーの老人だった。魔術師用の深緑のローブを着ているその老人は、名前がややこしいので周囲からは本名をもじって“バン爺”と呼ばれていた。シーカーではあるが、ギルドの仕事をしている様子はほとんどなく、周囲からは物乞(ものご)いの(たぐい)なのだろうと陰で(ささや)かれていた。

「何、バン爺もあぶれたの?」
「こんなじじいと組みたがる奴なんておらんさ」

 バン爺は禿げ上がった頭をぺちぺちと叩いた。彼の毛髪は側頭部に何とか残っている程度だった。

「バン爺さ、昔は魔術師だったんだろ?」
「遠い昔な」

 バン爺の手首には7級魔術師を証明する白い腕輪があった。しかし、腕輪は7年ごとに更新しなければならない。年季の入ったその腕輪は、既に期限が切れていることを意味していた。

「……ふーん」
 何かを考えながらマゼンタはバン爺を見る。
「……なんじゃい? じじいに色目使っとるんか?」
「じょうだん言わないでよ、じいさんこそ、あたしに変な気ぃ起こさないでよ」
「あと100歳若かったらそんな気も起りそうだがね」
「100歳? バン爺、いま(いく)つさ?」
「70じゃ」
「一周してんじゃん」
「生まれ変わったら趣味も変わると思うてな」
「……じじい」
「ほほ、気を悪くするな、寂しいじじいじゃ、若いもんと話がしたいだけじゃて」
「……たく」
 マゼンタは足をテーブルから下ろして、改めてバン爺に向き合った。
「じいさんさ」
「何だね?」
「あたしとパーティー組もうよ」
「何じゃい、(やぶ)から(ぼう)に」
「他の奴らはあたしと組んじゃくれないんだよ、美少女だからってバカにしてさ」
「自信過剰だしのう」
「うるさいなぁ。それでさ、あたしと例の子供を探そうよ。ひとりだと心許(こころもと)ないし、じいさんでもいないよりはましだからさ」
「じじいと小娘でようやく一人前ということか」
「好きなように取りなよ。どう? ふたりで大金を山分けすんの」
「老い先短いというのに、大金を手にしてもどうしようもないがな……。」
棺桶(かんおけ)を豪華にすればいいじゃん」
「墓穴も深く掘ってもらおうかの」
「そうそう、温泉が()くくらいに深く掘ってやろう」
 上機嫌にマゼンタは言う。
「……お前さん、人を口説くのが下手過ぎやせんか?」
「え?」
「だいたい妙な話じゃ。子供ひとり探すのに大げさじゃなかろうか?」
「そう? だって伯爵さまの子供だよ? 跡取り息子だったら当然さ」
「伯爵の?」
「何だい爺さん、こんだけの騒ぎになってるのに知らないの? アイリス伯のひとり息子なんだよ。しかも例の試験中の。そりゃ躍起(やっき)にもなるさ。……どうしたの?」

 アイリス伯の名前を聞いた途端、バン爺の顔が険しくなっていた。

「……あ、いや、何でもないわい」
「ねぇ、どうよバン爺? そりゃ大金はいらないかもしれないけど、金があるに()したことはないでしょ?」
「……分かった」
「え?」
「お前さんと一緒にその子を探すっちゅうことじゃ」
「やったぁ、パーティー成立ぅ。あれ、意外とあたしって人望あるかも?」
 マゼンタは寄り合い所の中を見渡し、目についた男に声をかける。
「ねぇ、おにいさん、あたしらとパーティー組まない?」
 男はマゼンタとバン爺を見ると鼻で笑った。
「冗談言うな、ガキとじじいのパーティーに誰が入るかよ。お守りなんぞゴメンだ」
「……ちぇ」
 マゼンタは下唇を出した。子供っぽ仕草だった。
「……ところで」と、寄り合い所から出るなりバン爺は(たず)ねた。
「なに?」
 そう言いながら、マゼンタは屋台でリンゴを購入する。
「目星はついとるのかね?」
「ぜんぜん」
「……じゃろうな」
 マゼンタは買ったリンゴをさっそく食べていた。
「むしゃ……じいさんは?」
「……お前さんは、その子の事をどれだけ知っとる?」
「なんかぁ、すっごい才能のある魔術師って話が広まってるよ? そりゃ、12歳で王宮の試験の最終まで行っちゃうんだから」
「……それだけの力を持った魔術師が、どうして親元からいなくなったんじゃろうな?」
「……どういうこと?」
「自分からいなくなったのか、それともさらわれたのか……。」
「そこんとこの情報はまだ来てないね」
「さらわれたという線はなさそうじゃな……。」
「どうしてさ?」
「失踪したのは城下町じゃ。ダンデリオン(はく)の監視下にある町じゃぞ。それだけの力を持った魔術師を、何の騒ぎも起さずにさらうなんてことが、できるわけはなかろう」
 マゼンタはリンゴをごくりと飲み込んだ。
「恐らく、逃げ出したんじゃろうな。じゃが、魔術師といっても所詮(しょせん)は子供じゃ。そう遠くには行っとらんじゃろう。……なんじゃ?」
「さっすがぁ!」
 マゼンタはバン爺の背中をばしばし叩く。
「あたしが見込んだ相棒だけはあるよぉ!」
「ちょ、やめんか、じじいの体をもっと労われ」
「じいさん、リンゴいる?」
 マゼンタは食べかけのリンゴを差し出した。
「こっちの、あたしがまだかじってないほうかじって良いよ?」
「……いらんわ。だいたい、まだ目星はついとらんぞ。ダンデリオン領の近くいるっちゅうだけで」
「多分だけど、逃げ出したんなら、アイリス伯の領地から逆の方向だろうね」
「どうしてそう思うんじゃ?」
「家出少年の当然の心理」
「だとすると、ダンデリオンを挟んでアイリス領の反対というと……。」
「……このガーベル領じゃん!」
「まぁ、そうなるが……。」
「やったぁ、超ついてるぅ!」
「そんなに都合よくいくかね……。」
「さっそく探すよっ」
「ま、地道に行くしかないがの……。」

 さっそく、マゼンタたちは周辺に聞き込みを始めた。しかし、情報はまったくと言っていいほど得られなかった。早々にバン爺は切り株に腰かけて休み始めた。

「ちょっとぉ、バン爺もっとやる気だしなよぉ」
 バン爺は空を見上げていた。
「なに? お迎えが来たの?」
「……鳥がずいぶん飛んどるな」
「……え?」
 マゼンタも空を見上げた。
「……みたいだね?」
「しかも、種類もばらばらじゃ。きっと、魔術師の誰かが使いの鳥を飛ばしとる。空から探した方が圧倒的に効率が良いからの」
「ちょっと、じゃああたしらもそうしようよっ。じいさん魔術師なんでしょ?」
「お前さん、何も知らんのじゃな。魔術師には向き不向きっちゅうもんがあるんじゃ。そもそも、ワシはああいう術を学んどらん」
「シーカーなのに、そんな便利な術を覚えなかったの?」
「ワシゃもともとシーカーじゃないんでな。……まぁその話はええじゃろ。ないもんをねだっても仕方ない。できることをやれば良いんじゃよ」
「この場合にできることって?」
「鳥を操っとる奴らが子供を見つけ出すのを待つんじゃ」
「待ってどうすんのさ? 他の奴らの手柄になっちゃうじゃん?」
「お前さんはまずワシの話が終わるのを待て。ええか? 鳥が子供を見つける、その鳥を操っとる奴らが子供を捕まえに行く。だが、試験の最終審査まで行く子供じゃ、そう簡単には捕まらん。そうやって、奴らが手をこまねいとるところを横からかすめ取るんじゃよ」
「……けっこうえげつないことを考えるんだね」
「ほっ、お前さん、良い子ちゃんでこの界隈(かいわい)生き抜くつもりだったんかね?」
「そ、そうじゃないけどさ」
「待てば海路の日和(ひより)ありってことじゃ。しばらくのんびりするとしよう」
「まぁ、爺さんがそう言うなら……。」

 待つと言った通り、バン爺は日陰で休み続けたが、マゼンタは落ち着かないらしく、独自に聞き込みをしては、事あるごとに空を見上げていた。
 そうして日が暮れるころ、遠くの森の様子が騒がしくなってきた。マゼンタとバン爺は顔を見合わせる。

「いくかの……。」
 バン爺は重い腰を上げた。
 ふたりが森に入り、目的に近づいていくと、爆発音や男たちの叫び声が遠くから聞こえてきた。

「ちょ、ちょっと、何かやばくない?」
「……ふむ」
「……ちょっと、あれ」
 マゼンタが上を指さす。そこには木の枝に引っかかった男がいた。
「……うむ、どうやら死んではおらんようじゃの」
「死んではいないって……。」

 さらに森の奥深く入ると、さらに気を失った男たちの姿がぞくぞく現れた。

「……ま、シーカーやっとる程度の魔術師ならこんなもんじゃろ。坊やを止められやせん」
 倒れた男たちの具合を見ながら、バン爺は言った。
「そ、そんなもんなの?」
「この業界にいる魔術師なんぞだいたいが独学じゃ。検定試験を受ける資格すらない。そんな奴らが束になったところで、最終審査まで残った坊やの相手なぞつとまるはずがあるまい。……おい、生きとるか?」
 バン爺はひとりの倒れている男の(ほお)をぺちぺちと叩いて気つけした。
「……う……う……。」
 男は(うめ)きながら、うっすらと目を開けた。
「ほ、無事みたいじゃの。のう、お前さん、例の子供とやりあったんか」
 男は完全に目を開いた。
「例の……子供……。」
「お前さんたちが追っておった子供じゃ」
 男は目を見開いて起き上がった。
「ひ、ひぃ!」
 驚いて、マゼンタとバン爺は男から身を引いた。
「な、なにさ、バケモンでも見てきたような顔して……。」と、マゼンタは言った。
「あ、ありゃバケモンだよ!」
「なに?」
「何が子供だよ! あんなガキがいるか!」
「とんでもない魔術師とは聞いとったが、そこまじゃったか……。」
「そんな問題じゃねぇ! そもそもガキじゃねぇんだ!」
「……何じゃと?」
「お、お前らもこの件からは手を引いとけっ!」

 そして男は駆け出して山を下りていった。そんな男をしばらくマゼンタとバン爺は見ていた。

「ふむ……どうやら、おいしい仕事どころか、とんでもなく厄介な仕事かもしれんな」
「……ちょ、ちょっと待ってよ」
「何じゃい、おじけづいたか?」
「そうじゃないけど……この様子だと、あたしらだって坊やと正面からやりあって勝てるわけじゃないでしょ? 何か策はあるんだよね?」
「おや、ワシゃてっきりお前さんが策を()っとると思っとったがね?」
「いや、もちろんあったさっ」
「ほう、ならばお聞かせ願おうか?」
「……色仕掛け」
「……念のため見せてもらっても良いかの?」

 マゼンタはバン爺の前に立つと、咳をひとはらいして改まった。もったいぶって髪をかき上げると、体をくねらせる。そして腰を突き出し前かがみになると、胸を強調してウィンクをして見せた。

「……どう? やばくない? じいさん若返ったっしょ?」
「それどころか寿命が縮まったわい」
「じじい、寿命を待たずに死にてぇか」
「誤解するな、お前さんはそんな変なことをせん方が魅力的じゃということじゃ」
「え、マジで? やだ、あたしってそんなんなんだ……。」
 マゼンタは両手で頬をおさえた。
「お前さん、チョロ過ぎやせんかの……。」
「じゃあさ、爺さんの策は何なのさ?」
「お前さんと似たようなもんさ」
「え? 爺さんも色仕掛け?」
「あほう。ええか? 温室育ちの伯爵の子息が数日間逃げ回っとるんだぞ? 満足な食事も十分な睡眠もとっとらん。どれほどの天才魔術師と言えど、このふたつには勝てんよ」
「……それってつまり」
 バン爺は背中のリュックを叩いた。
「食欲性欲睡眠欲、実際に欠けて困るのはふたつじゃ」
「性欲と……後はなに?」
「三分の二を見事に外しよった……。」
「冗談だって」

 さらに森の奥に入ると、倒れた男たちの姿はなくなっていった。どうやら、この辺りで少年は追手を振り切ったらしい。

「ふむ、もうかなり暗いし、ここで夜営をするとするか」
「え? だって……。」
 少年の追跡は良いのかとマゼンタは言いたげだった。
「ワシにまかせとけ」

 バン爺はフライパンを取り出すと、火をおこして料理を始めた。ベーコンにバター、そしてガーリック、ジャマル油、匂いの強いする食材を火にかけ、さらに団扇(うちわ)で匂いが周囲に飛ぶように仕向ける。

「……さて、食べるかの」

 匂いを出すためだけの料理を終えると、バン爺は小皿に取り分けた。腹が減っていたらしく、マゼンタは仕事を忘れて料理にがっついた。

「ええ食べっぷりじゃのう……。」

 一方のバン爺はゆっくりと食事を続けた。歳というわけではなかった。食べながらも、周囲の様子をうかがっていた。
 マゼンタが皿の料理をすべて食べ終わる頃、バン爺が口を開いた。

「隠れとらんで出てきたらどうじゃ?」
 マゼンタは驚いた後、痛ましく哀し気な目で老人を見た。
「イマジナリーフレンド?」
「……勘違いするな、ボケちゃおらん。……腹が減っとるんじゃろ? ワシらはこの土地のもんじゃ、お前さんに何もしやせんよ」

 バン爺の背後の(しげ)みがガサリと音をたてた。マゼンタはびくりと肩をすくめる。
 バン爺が振り向く。そこには、水色の長髪の少年・シアンが立っていた。やつれているのか元からなのか、少年からは生気(せいき)が感じられなかった。

「なんじゃ、坊やこんなところで迷子かね? 危ない危ない。さっき、ワシらが来る途中で、大勢の男達が倒れとってな、どうやらここら辺には狂暴な(ぞく)がいるようじゃぞ?」

 見え透いた嘘だった。しかし、空腹と疲れは、シアンに都合の良い解釈を導いた。彼らは自分を追ってきている奴らとは違うと。

「坊や、うっかり年寄りには食いきれん量を作ってしもうての。お前さんも一緒にどうじゃ?」

 シアンは茂みから出ると、バン爺の隣に立った。
 バン爺は料理を取り分けた皿を差し出す。

「ほれ?」

 シアンは皿を受け取ると、バン爺の横に座って料理を無我夢中で食べ始めた。

「パンもあるぞ」

 シアンはパンも受け取って口にほお張り始めた。あまりにも急いで食べたので、少年は食べ物をのどに詰まらせてしまった。

「ほらほら、そんなにがっつくから……。」

 マゼンタは水筒(すいとう)を持ってシアンに寄りそい、口に持っていった。
 シアンは驚いてマゼンタを見る。

「ほら、遠慮しないの」

 そして、マゼンタの手に持った水筒からシアンは水を飲んだ。
 皿の料理とパンを平らげると、少年はマゼンタに寄り添うようにして眠りについた。

「疲れてたんだね。食べたらすぐに寝ちゃった……。」
「そりゃそうじゃろ……。」
 マゼンタはシアンの長い髪をかき上げた。
「……すごい綺麗な子だね」
「そうじゃな……。」

 シアンはぐずるように(うな)ると、マゼンタに抱きついた。マゼンタはシアンの頭をなでて肩を抱いた。

「……やばい」
「どうしたんじゃ?」
「あたし、母性に目覚めたかも」
「あそ」
 翌朝、バン爺は荷物を整えて下山の準備を始めた。よほど疲れていたのだろう、シアンはまだ眠っていた。
 シアンに寄り添っているマゼンタにバン爺は訊ねる。

「どうするね? このまま坊やを親元に返すかね?」

 マゼンタは何も答えずに、シアンの寝顔を見る。

「……どうして、この子は親元から逃げたんだろう」
「……あまり、その子の父親に関しては良い話を聞かん」
「父親って、アイリス伯のこと?」
「そうじゃ。将来を期待されとった宮廷魔術師じゃったが、30年前に問題を起こしての。その時はたいそうな問題になったわい」
「……問題って?」
「……禁呪法(きんじゅほう)じゃ」
「禁呪……法?」
「大陸中の条約で禁じられておる、危険な術の研究に手を出しおったんじゃ。審議(しんぎ)もへったくれもない。他国に知られる前に、3級魔術師の資格をはく奪されて国を追い出されたんじゃ。……バカな男じゃよ」
「……詳しいんだね?」
「だてに長生きはしとらんわい」
「……そっか」
 マゼンタはシアンを見た。
「この子を届けるとしても、どうすればいいんだろう? このまま大人しくアイリス伯のところまで連れて行けるようにも思えないけれど……。」
「まぁ、この子と旅を同行する“てい”を見せて、その間に父親に連絡して迎えに来てもらうんが一番やりやすいじゃろ」
「なるほろ」
「もしかしてお前さん、ふん縛って連れていくつもりだったかね」
「いや、捕まえた後の事はまったく考えてなかった」
「なるほろ」
「賢者も言ってるよ、“昨日はもう終わったし、明日はまだ来てないない。今だけを考えろ”ってね」
 得意げに言うマゼンタ。バン爺は首をふってため息をついた。
「状況が違えばええ台詞なんじゃがのう……。というか、そんないい加減なことを言う賢者がおるかね?」
「探したら一人くらいはいるかもよ?」
「う、う……ん」

 そうこうふたりが話していると、シアンが目を覚ました。

「あら、目が覚めたみたいだね」

 目を覚ましたシアンは周囲を見渡す。どうやら、寝ぼけて自分の状況を忘れているようだった。

「はぁい、おねえさんたちの事は覚えてる? 昨夜一緒にお食事した仲なんだよ?」
 シアンは小さくうなずいた。
「あたしはマゼンタ、そっちはバン爺だよ。あんたは?」
「……シアン」
「そう、シアンっていうのね。……ん?」
 マゼンタは顔をシアンに顔を近づける。たじろぐシアン。
「坊や、何だかくちゃいわね、おねえさんと一緒にそこの川で体を洗いましょう」
「昨晩ニンニク食っとるからな、お前さんもけっこう匂うぞ。まぁワシもじゃが」
 バン爺は自分の体を匂った。マゼンタがそんなバン爺を睨む。
「……何じゃ?」
「そんなこと言って一緒に水浴びするふりして、レディの裸を(おが)もうって魂胆(こんたん)じゃないだろうね?」
「ほっ、こりゃすまん。そういや、お前さんが女じゃということを忘れとったわい」
「ボケが深刻ね。さっき朝ごはん食べたことは覚えてる?」
 バン爺は肩をすくめてシアンを見る。
「この言われようじゃ。……え、もしかして食ったんかのう?」
「水浴びしてるあいだ大人しく待っててくれたら教えてやんよ」
「ああ、そん時ゃお前さんが女だということも教えてくれ。その間に忘れるじゃろうから」

 マゼンタは冷ややかにバン爺を見ると、「行こっ」と言ってシアンを川辺に連れて行った。

「まったく……。」

 バン爺は首を振ると、一転して真面目な表情で、昨日男たちが倒れていた場所に向かった。
 その場所に到着すると、バン爺は木々の破壊の後や、男たちのダメになった武器を調べ始める。

「……あの坊や、どんな術式をつこうたんじゃ?」

 バン爺はえぐれた木の幹に手を当て意識を集中する。

「大地の精霊よ……木々のマナよ……我が問いかけに答えてくれ……。」

 呪文を唱えながら、魔力の残骸(ざんがい)を調べるバン爺。

「む、むぅ……。」

 バン爺の体の中には昨日の破壊の記憶が流れ込んできた。しばらくすると、額から脂汗(あぶらあせ)を流してバン爺は目を開き「まいったのぅ……。」と独り言を言った。


 一方、川辺に着いたマゼンタは、シアンの服を脱がそうと上着の裾をつかんだ。しかし、シアンはそれを嫌がるように身をすくめる。

「恥ずかしがらなくっていいんだよ」
 マゼンタが肩をすくめる。シアンは顔をそらした。
「ほら、あたしも脱ぐから」
 そう言って、マゼンタは上着を脱ぎ始めた。あられもない下着姿のマゼンタを呆気(あっけ)に取られてシアンは見る。
「変なもんなんて隠してないよ、ほら」
 マゼンタは両手を広げた。
「おや、もしかして照れてる~? うりうり~」

 マゼンタはシアンのわき腹を(ひじ)で突いた。そうして、目のやり場に困っているシアンを改めて脱がし始めた。

「わぁ、やっぱり綺麗な肌。嫉妬しちゃうくらい」
 マゼンタはシアンの手を引いて川に入った。
「足元気を付けてね」
 腰まで水に浸かると、マゼンタは水を手ですくい「目をつむって」とシアンの髪に注いだ。
「ひゃあ、綺麗な髪だと思ったけど、すべりも良いわ」
 マゼンタは丹念(たんねん)に手ぐしでシアンの髪を洗う。
「じゃあ、後ろ向いて……。」

 マゼンタはシアンの肩をつかんで後ろを向かせた。今までシアンの美貌(びぼう)に見とれていたマゼンタだったが、シアンの背中を見たとたんに息をのんだ。
 シアンの背中は傷だらけだった。逃亡中の追手につけられた傷ではなさそうだった。古傷だったからだ。
 しかし、マゼンタは驚いたことを知られないよう、鼻歌まじりでシアンの髪を洗い始めた。

「ほんと……うらやましいな……この髪……。ねぇ見てよ」
 シアンはふり返った。
「ほら、おねえさんの髪、ばさばさでしょ? くしの通りも悪いんだ」

 マゼンタは自分のボリュームのある赤髪をかき上げて見せた。
 シアンはマゼンタの髪に手を伸ばす。マゼンタは触りやすいよう、少し体を屈めた。そこそこ背の高いマゼンタに対し、シアンは頭一つ以上小さかった。
 だが髪にふれる寸前、シアンは手をひっこめた。

「なにさぁ、照れてんのぉ?」

 マゼンタはシアンの髪をクシャクシャに撫でた。
 シアンは頬を赤らめて顔をそらしていた。


 水浴びを終えてふたりが戻ると、バン爺が焚火(たきび)をおこして待っていた。しかし、バン爺はふたりに気づかないのか、地面に触れた状態で目をつむり瞑想(めいそう)をしていた。

「……シアンくん、スコップを持ってきて?」とマゼンタは言った。

 バン爺が目を開いた。
「死んどらん。あと、ここに埋めようとすな」

「じいさんややこしいから」

「……まったく。ほれ、シアン、焚火にあたりなさい。秋になったばかりとはいえ、体を冷やしやすいからのう」

 シアンはうなずくと、タオルで体を拭きながら焚火にあたる。そんなシアンの様子を心配そうにマゼンタが見ていた。

「……どうしたんじゃ?」と、それに気づいたバン爺が言う。
「う、ううん……。なんでもないよ」
「……そうかい」
 バン爺はシアンを見て言った。
「ところで、そろそろワシらは出発しようと思うんじゃが……お前さんはどうするね?」
 シアンははっとした表情でバン爺を見てから、遠慮がちにマゼンタを見た。
「お前さん、その歳とそのなり(・・)で旅人っちゅうわけでもなかろう? どうして夜中の森なんぞにおったんかね?」
 言葉に(きゅう)したシアンが濡れた瞳でマゼンタを見る。
「ちょ、ちょっとバン爺、なんか事情があるかもしれないじゃん、あんまり根ほり訊くのは良くないよ」
「ほ、じゃあ聞き方を変えるとしよう。お前さん、これからどうする? 行く当てはあるのかね?」
 シアンは首を振った。
「じゃあさ、あたしらと一緒に行かない? ここで出会ったのも何かの縁だしさ」

 シアンはしばらくうつむいて黙っていたが、マゼンタが「ね?」と言うと、小さくうなずいた。
──その頃

 アイリス伯の領地では、アイリス伯が昼間から広間で酒を飲んでいた。広間の椅子やテーブル、絵画や燭台(しょくだい)といった家具や装飾品は彼によって滅茶苦茶に破壊されていた。

「くそ……シアン、いったいどうして……。」

 頭を抱え込んでアイリス伯は酩酊(めいてい)していた。

「……あなた」

 アイリス伯の妻・ラピスが夫をいたわって、背中に手を乗せた。

「きっとあの子は戻ってきますよ……。」
「なぜ、なぜあいつは……。」
「きっと、あの子にも考えがあるのでしょう」
「……考えだと?」

 アイリス伯は立ち上がった。

「え、ええ、そうです。あの子だってもう12歳ですよ? 自分なりの考えというものが……。」
「……考え? 検定試験の直前で逃げ出すのに……いったい何の考えがあるというのだっ?」
「あ、あの子にも言い分があったはずです。それを、今まで無視ししてきたから……。」
「……なるほど。お前が、お前があいつに余計なことを吹き込んだのか。おかしいと思った!」
「な、何をおっしゃいますか。あなたがシアンの気持ちを()もうとしないから……。」
「黙れ!」

 アイリス伯はラピスの顔を殴りつけた。

「きゃあ!」

 ラピスは床に倒れ、小さなうめき声を上げる。

「私はシアンの為だけに生きてきた! このクソみたいな辺境の地で、あいつを最高の魔術師に育て上げるためにあらゆる手を尽くしたんだ! あいつのために私がどれだけのものを犠牲にしたと!?」

 アイリス伯はうずくまっているラピスの腹を蹴り上げた。

「ああっ!?」
「何がアイツの考えだ! 私が、私こそが誰よりもあいつの事を考えているんだ! あいつ自身よりもっ!」

 アイリス伯はラピスの髪をつかんで顔を持ち上げた。

「教育係として結婚してやった後妻(ごさい)が口答えしおって! 貧乏貴族の妾腹(めかけばら)の分際で!」
「あ、あ……。」
「おやめください旦那様!」

 そこへ、見かねた執事が駆け込んでアイリス伯を止めに入った。

「お、奥方様も、奥方様なりにシアン様の事を案じておるのです!」
「何が奥方だ、こいつはもうただの年増女だ!」
「……え? ど、どういうことで……。」
離縁(りえん)だ! 今すぐ荷物をまとめて私の城から出ていけ!」
 アイリス伯はラピスに杯を投げつけて言った。

 ラピスはよろめきながら立ち上がると、涙を流しながら広間から出ていった。

「……旦那様、いったいこれで何人目でございますか」
「ふん!」

 アイリス伯はテーブルの上の酒瓶をぶん取って酒をラッパ飲みする。

「あいつもいい年だ、母親などもういらん! おい、ゼニス!」
「は、はい、何でございましょうか?」
「例のモノを持って来い!」
「かしこまりました!」
「まったく……あの反応以来、全く音沙汰(おとさた)がないとは。やはりシーカーなんぞの食いつめどもでは務まらんか……。」

 執事は深々と頭を下げると、広間から出ていった。

──
「それで……どうするんじゃ?」

 シアンと移動を始めたマゼンタにバン爺が耳打ちをする。後ろにいるシアンは、畑の作物のまわりを飛び回る蝶々を、まるで初めて見るかのように夢中になって(なが)めていた。

「あの子を親元に返すなら、どちらかが連絡を取る必要があるが……。」
「……ねぇ、バン爺」
「なんじゃい?」
「あの子、絶対に返さないと……ダメかな?」
「……何かあったんか?」
「うん……実は今朝、あの子の裸を見てから、家には帰したくないなって思ってさ……。」
「……お前さん、要点をはしょって多分とんでもない話をしとることになっとるぞ」
「え、まじ?」
「……まぁ、何を見たかは予想はつくがのう」
「きっとあの子、親父さんの所に戻ったら(ひど)い目にあうんだと思う……。」
「ふむ……。とはいえ、ワシらは赤の他人じゃ。やれることもやって良いことも限られとるがな……。」
「そうかもしれないけど……。」
「お前さん、下手をしたら伯爵の子供を誘拐したとして、お(たず)ね者になるかもしれんのじゃぞ?」
「それは……困る」
「じゃろう?」

 マゼンタとバン爺は後ろを振り返った。シアンは次は遠くに見える牧場の牛を眺めていた。

「……動物が好きなの?」
 マゼンタが言う。シアンは小さくうなずいた。
「……そうなんだ。ところで、バン爺はどこに向かってるの?」
「ワシの家じゃ。しばらくそこで今後の事を考えよう」
「……分かったよ」


 マゼンタたちは、丘の上のバン爺の家に到着した。

「……うわぁ」

 驚くマゼンタたち、そこは廃屋(はいおく)と呼んだ方が良いような酷いありさまだった。

「仕方ないじゃろ、じじいの独り暮らしじゃ、家の手入れ何ぞろくにできん」
「なんで村から遠いところに住んでるわけ? 集落(しゅうらく)のすぐそばに住んでたら、手伝いとかしてもらえるんじゃ?」
「……まぁ、ワシは最近こちらに移り住んできたからのう」
「そうなんだ?」
「さ、お入んなさい」

 マゼンタたちは家に入ると、バン爺に(うなが)され奥の部屋に荷物を置いた。

「……ここって」

 そこは、ある時から時間が止まったような奇妙な部屋だった。服や小物は、老人の私物にしては若者趣味であるものの、長い時間それに誰も触れていないようだった。

「物が多くてすまんな」
「あ、いや、別に……。」
(せがれ)のもんじゃ」
 バン爺は荷物を(あご)でしゃくって説明する。
「へぇ……。息子さんは今どうしてるのさ? バン爺をこんなところに残して」
「死んだよ」
「……ごめん」
「やめんか、がらにもない。……さぁて、久しぶりの来客じゃ。もてなしをせんとのう」
「別に、気ぃ使わなくったっていいのに」
「ほっ、どちらかというと、じじいがそうしたいんじゃよ。若いもんがいるだけで嬉しくてのう」

 マゼンタは、こういうところは本当にただのじいさんなんだなと思った。

「さて、村へ降りるか」
「見た所、お店もないような村だったけど、どうすんの?」
「まぁ、物々交換かのう。それか村の手伝いじゃ。こんなじじいでも、頼ってくれる人もおる」
「ふぅん」

 マゼンタたちは丘の上から村へと降りていった。
 村では農夫が畑を耕し終えたところだった。

 バン爺たちに気づいた農夫が言う。
「おや、バン爺じゃないか。そちらの若いのは? お孫さんかい?」
「親戚の子供たちが、さびしいジジイのために遊びに来てくれたんじゃよ」
「はは、そうかい。バン爺にも身寄りがいたのか」
「のう、マッソさん、何か手伝えることはないかね?」
「おお、ちょうどよかったよ。たった今、畑仕事が終わったところなんだ。以前やってくれたアレ、また頼めるかな」
「ほっほ、お安い御用じゃ」

 バン爺は畑の前に座り、地面に手を置いた。

「マッソさん、植えたのは小麦かね?」
「ああ、そうだよ」
「……ふむ」

 そうしてバン爺は目を閉じた。ぶつぶつと独り言のような声も聞こえる。
 遠巻きにその光景を眺めながら、マゼンタはシアンに訊ねる。

「ねぇ、あれ何やってんの?」
「……多分、術式」
「術式? これから魔術を使おうっての? いったい何で?」
「この土地の……精霊と……話したり……。それで、多分……。」
「あ~、まぁ、ようするに、魔術師同士なら分かることをやってるってことね」

 バン爺の服が風に吹かれたようになびいた。バン爺は大きく肩で息をすると、さらに深く手を地面に押し付ける。

「……ん?」

 マゼンタは足元を見る。風もないのに、草が緩やかにざわめいていた。

「え……これって、もしかして……。」
 シアンが「すごい……。」とつぶやいた。

 座っているバン爺の体が、激しくゆれ始めた。

「こぉおおおおおおっ! こぉおおおおおおっ!」

 バン爺は体中を使って勢いよく呼吸をくり返す。はた目から見ると、気がふれているようだった。

「こぉあっ!」

 力をふりしぼるようにして両手を地面に押しつけるバン爺。すると、バン爺の座っている地面がもっこりと隆起(りゅうき)した。

「すっげぇでっかい屁ぇ……。」
 マゼンタはドン引きしてシアンを見る。シアンは首を(かたむ)けてマゼンタを見た。
「あ、違うよね……。」
「こんなことができるなんて……。」と、シアンは言った。
「バン爺は何をやったの?」
「農作物の育ちを良くしてくれるよう、大地の精霊にお願いしたんだと思う。ここら辺の地面のマナが、少しづつ畑に集まってたから……。」
「魔術師ってそんなこともできちゃうの?」
「上級の人なら……できると思う」
「バン爺って確か7級なんだよね。7級でもそんなことができるんだねぇ……。」
 シアンは驚いてマゼンタを見た。
「……なに?」
「いやぁ、ありがとうバン爺。これで今期もうちの畑は安泰(あんたい)だよぉ」
 農夫のマッソは上機嫌に言った。
「お安い御用、と言いたいところじゃが、さすがに疲れたのう」
「無理をさせちまったね。何か必要なものがあったら用立てるよ」
「ほ、そりゃ助かる。それじゃあ、あの子たちをもてなしたいんで、今晩食べるもんを恵んでくれるとありがたいんじゃが」
「それこそお安い御用さ。今晩だなんていわずに、あの子たちがいる間はウチを頼ってくれよ」
「これはこれは」

 すると、遠くからまた別の農夫が手を振りながら歩いてきた。農夫は足を軽く引きずっていた。

「おお~いっ」
「何だいザビさん?」と、マッソは言った。
 足の悪い農夫のザビが言う。
「バン爺さん、ちょうどよかったよ、ちょっとウチの家畜(かちく)を見てくれないかな?」
「ほ、どうしたね?」
「豚が病気にやられちゃってさぁ」
 バン爺は顎に手を当てて考える。
「家畜の病気……。まぁ、専門分野じゃないんじゃが、見るだけ見ておこうかね」
「助かるよぉ」

 バン爺たちは農夫のザビの後をついていく。

「ねぇバン爺、獣医さんに見せた方が早いんじゃないの?」とマゼンタが訊ねる。
「こんな辺ぴな村じゃあ、町まで医者を呼びに行って戻ってくる頃には夜になっとるよ」
「ふ~ん。じゃ、また魔術で何とかするわけ?」
「ま、見るだけ見ておこう」
 ザビの家の豚小屋に着くと、彼の言うように豚が倒れていた。大きなメスだった。

「昨日からこの調子さ、病気だと思うんだけれど、他の豚は大丈夫だし……。」
「……ほう」

 バン爺は(さく)の中に入ると、動けなくなっている豚の容態(ようだい)を確認する。体の病気の兆候(ちょうこう)が出る所には何もなかった。

疫病(えきびょう)というわけでもなさそうじゃし……。」

 すると、シアンが柵の中に入ってきた。

「おや、シアンどうしたね?」

 シアンは豚のおでこに手を当てた。そして目を閉じ、静かな声で豚に語りかけた。苦しそうにあえでいた豚が穏やかな目でシアンを見る。

 シアンが目を開けて言う。
「……この子、たぶん妊娠してる」
「ほぉ」
「そんな。だってウチは繁殖(はんしょく)のとき以外、雄と雌をしっかり分けて飼育してるんだぜ? 妊娠するなんてありえないよっ」
 ザビは驚いて言った。
「……確かかね、シアン?」
「……うん」
「しかし、いったいどうして……。」ザビは困惑する。

 バン爺は立ち上がった。そして豚小屋を出ると農場の囲いに目をやった。そこには補修された跡があった。

「……そういえば最近、村で害獣(がいじゅう)被害が出とったのう。ありゃ、猪だったかね?」
「ああ、バカでかい猪さ。農作物を食い荒らすわで大変だったよ」
「お前さんとこも被害を?」
「まぁね、ウチの農場の柵を破って保存してた食料を食い荒らしやがった」
「もしかして、豚小屋にも入ったんじゃないか?」
「ああ、そういえば……。」
「……あの豚のお相手は、そのならず者かもしれんのう」
「え? 猪が?」
「そうじゃ。イノシシと豚なら普通に交雑(こうざつ)しよる。逃げ出したり捨てられたりした豚が、猪との間に子供を作るっちゅうことはままあるぞ。イノブタ言うてな」
「くっそぉ、ウチの豚に手ぇ出しやがって!」
「まぁ、ええじゃないか。イノブタは結構な珍味なんじゃぞ。売ればそこそこ高い値がつく」
「……ふぅ。ま、過ぎたことを嘆いても仕方ないか。……ありがとよバン爺。危うく無駄に町から獣医を呼び寄せるところだった」
「ほっほ、礼ならこの子に言うんじゃな。ワシは土と植物の術式しか知らん」
「おう、ありがとよ坊や。坊やも魔術師なのかい?」
 シアンは目をそらしてうなずいた。
「そうかいそうかい、たいしたもんだ」

 ザビはシアンの頭をなでた。シアンの内気さは人に不快さを与えない。むしろ人は純粋さを覚えるのだった。

「お前さん、テイマーの術式を使えるんかね?」
「……うん」
「ええじゃないか。魔術師っちゅうのは、ええとこの家の人間ばかりじゃから、家畜なんぞ触りたがらん。おかげで、魔術師で獣医をやれるもんは数えるくらいしかおらんからのう。きっと多くの人々の助けになるぞ」

 バン爺に()められて、シアンは顔をそむける。
 そして、シアンは表情を見られないようにしてザビの下へ行く。

「ほ?」
 シアンは左の足首を見る。
「おじさん、足をケガしてるの?」
「……あ、ああ。屋根の修理中に落ちて(ひね)っちまってな。養生(ようじょう)したかったんだが、仕事が忙しくてなかなか治らないんだ」
 シアンは「座って」と言う。
「え? ああ、かまわないが……。」

 ザビが座ると、シアンも座って左の足首に手を当てた。目をつぶり呼吸を整えると、シアンは患部(かんぶ)(いた)わるように優しくなでさする。

「……坊や、いったい何をしてるん……お?」

 シアンがなでていると、ザビは痛めている足が暖かくなり始めているのに気づいた。

「バン爺、あの子、何やってるの?」

 マゼンタに訊ねられたものの、バン爺は顎に手を当てて驚いた様子で答えない。
 しばらく足をなでた後、シアンは顔をあげてザビを見た。

「もう大丈夫」
「大丈夫……て?」
「立って歩いてみて」

 ザビは立ち上がった。そして恐る恐る左足を地面につける。

「……お?」

 ザビは最初はよろよろとしていたが、数歩あるくと、ケガなどがまるでなかったかのように、まっすぐに進み出した。

「お、おい、嘘だろ? 足が、足が治ったぞ? あ、ありがとう坊や!」
 ザビはシアンに駆け寄って手を握った。
「もしかしたら、もうダメかもしれないって思ってたんだ! それを……。」
「そ、そんなに(ひど)いケガじゃなかったよ……。」
「いやいや、酷いケガじゃないっても、こんなすぐに治せるもんかいっ」
「……うっそ」
 後ろで見ていたマゼンタも驚いていた。
「むぅ……。」
 しかし、バン爺はどこか難しい顔をしてその光景を見ていた。
「カミさんに見せてくるよ!」

 そう言って、ザビは走り出して豚小屋から出ていった。

「すごいじゃんシアンくん!」

 マゼンタはシアンに抱きついた。

「え? え?」
「もう、こんなに可愛くて動物と話せてケガまで治せるなんて、シアンくんマジ天使!」
「あ、いや……。」

 シアンは顔を真っ赤にして、マゼンタの胸の圧迫から顔を解放しようとした。

「……ヒーリングかね」
 バン爺が言った。
「あ……はい」
「ふぅむ、ヒーリングはそもそも術式の適性を持つ者が少ない。その上、お主はテイマーまで……。」
「つまり、シアンくんが大天才ってことなんでしょ?」
「いや、まぁ、そういうことになるが……。」

 バン爺が言いたかったのはそれだけではないようだった。

 するとザビが戻ってきた。
「おおい! なぁ、坊や来てくれないか!」
「なんじゃい?」

 シアンたちが外に出ると、そこには村の人間が集まってきていた。

「坊やの事を話したんだよ! そしたら、みんな居ても立っても居られなくなっちゃってさ!」
「なんと……。」

 村の住民たちは目を輝かせてシアンを見ていた。

「アタシは腰が悪いんだっ」
「胸の調子がおかしくて……。」
「ウチの牛の様子をみとくれよ!」

 村の住人たちは口々に体の悪い場所や、家畜の不調をシアンに告げ始めた。村人は、ざっとみただけでも20人以上はいた。

「ちょ、ちょっと待っとくれ」
 口をはさんだのはバン爺だった。
「何だいバン爺?」
 ザビが言った。
「ええか? 魔術を使うのはかなりの体力を消耗(しょうもう)するんじゃ。特に、ヒーリングやテイマーみたいな術式は、外気(マナ)を使えんから他の魔術よりも術者の内気(オド)を多く必要とする。こんな数の人間に対して魔術を使うたら、坊やがぶっ倒れてしまうぞ」
「え……そうなのかい?」

 住人たちは顔を見合わせる。

「申し訳ないが、一日で診てやれる数はせいぜい……。」
「大丈夫だよ」
 シアンが言った。
「……シアン」
「大丈夫、このくらいの数なら……。」
「シアン、無理はいかんぞ。ちょと寝たら回復するなんて生やさしいもんじゃないんじゃ。下手をしたら、後遺症を抱えることだってあるんじゃぞ」
「大丈夫、まかせて」

 シアンは村人の方へ行った。表情に(とぼ)しい少年は、やせ我慢をしているのか本当に平気であるのか読みづらかった。
 シアンの言うように、シアンは村人のケガや病気を治し、さらに家畜の容態も診察(しんさつ)し続けた。シアンが治療をしている間にも人は増えたが、それでもシアンはその全ての村人の相談を解決していた。シアンが治療を終える頃には、陽は傾きかけていた。

「……本当に平気かね?」
 バン爺はシアンを気づかって言った。
「うん」

 その言葉に偽りはなかった。シアンには疲労の色はなかった。

「マゼンタさんとバン爺さんにはどこか悪いところは無いの?」
「老いは病気じゃないしねぇ」
「性格の悪さばかりはどうにもならん」

 マゼンタとバン爺はほんの一瞬だけ沈黙した。

「え、バン爺、自分の性格悪いと思ってんの?」
「お前さんこそ、その歳でもう若返りたいんか?」

 ふたりは冷ややかに睨み合った。
 シアンはどういう顔をして良いか分からずに、その場に立っていた。