ディパーテッド~最強魔術師は毒親育ち~

 ダリア伯の屋敷ではささやかな宴が始められていた。
 貴族の食事に招かれているということで、マゼンタはマナーが分からず苦労していたが、シアンはテーブルマナーをしっかりと身につけていた。
 そんなシアンを見ながら、ダリア伯は「感心な少年ですなぁ」と頬をゆるませる。シアンの美しい容姿に完ぺきなマナーが併せられると、大人は見てるだけで機嫌が良くなるようだった。
 しかし、そんなシアンをバン爺をダリア伯と同じようには見ていなかった。そのシアンの落ち着きぶりに不自然さを感じていた。

 ダリア伯はナプキンで口をぬぐって言った。
「……それで、これからローゼス卿はどちらまで向かうご予定なので?」
「うむ……そのことなんじゃが……。今回お前さんの所に足を運んだのは、ちぃとばかし頼みごとがあったからなんじゃ」
「……はて、何でしょうか?」
「実は……王室に口添えを頼みたくての」
 ダリア伯はテーブルの上のナプキンをたたみなおした。
「……どういった事をでしょうか?」

 バン爺はシアンを見る。それを合図に、食卓の視線が一斉にシアンに集まった。

「この子の後見人(こうけんにん)を王室の者に頼みたいんじゃ」
「……あえておうかがいしませんでしたが、この子とローゼス卿とはどういったご関係で?」
「……この子、シアンはアイリス伯の子息じゃ」

 バン爺がその名を口にしたとたん、部屋の雰囲気が一変した。後ろにいた執事の顔にも驚きの表情があった。

「……なんと、あのアイリス伯ですか?」
「そう“あの”アイリス伯じゃ」
「しかし……いったい、なぜローゼス卿とアイリス伯の子息が……?」
「ありていに言うと、まったくの偶然じゃ。たまたまこの子と知り合う機会があっての。言ってしまえば何の縁もゆかりもない。じゃが、この子は有望な魔術師での。このまま父親の下におったら将来をつぶされかねん。父親以外身寄りがおらんようじゃが、王室で後見人をたててしまえばこの子を守れると思うての」
「なぜ……その……赤の他人ともいえるような子にそこまで?」
「ワシの責務(せきむ)じゃろうて」
「責務ですと?」
「かつて、1級魔術師の職務を投げ出した……な。ワシはこの国の魔術師の未来に責任があったはずじゃった。それを自分の都合でやめてしもうたからのう」
「……。」
「なにより、ワシは父親としての仕事も投げ出してしもうた」
「……あれは、ローゼス卿のせいではありません」
「どうじゃろうな」

 バン爺は鼻で笑った。そんなバン爺を、マゼンタは白パンをかじりながら見ていた。

 ダリア伯は気まずそうに杯のぶどう酒を飲むと、口をぬぐって態度を改めた。
「ローゼス卿、そうお考えであるならば、1級魔術師に復帰なさってはいかがか? 王都には貴方の復帰を待ち望んでいるアカデミー会員も多いのです」
「もう、ワシの等級は失効になっとるよ」
「そこは特例で何とかしてみせます。私や他の、ローゼス卿の支持者が手を回せば……。」
「権威で黙らせるか。若い魔術師の中には不満を持つ者が出てくるだろうな。……アイリス伯のように」
「そ、それは……。」

 バン爺は両手を差し出した。老人らしい、細くしわが入った手だった。

「ジジイのこのちっぽけな手で何とか出来るのは、子供ひとりの人生がやっとじゃよ。それでも手に余るわい」
 ダリア伯は目を落とす。
「……分かりました。王室への書簡(しょかん)を用意させます」
「助かるよ、ダリア伯」
「その書簡を、今は退任されたといえ、ローゼス卿が直々に王室へ持っていけば、よほどのことがない限り、要望が通らないという事はありますまい」
「だと良いがの。……ああそれとダリア伯」
「なんでしょう?」
「ちょいと……後で話せんか?」
「……よろしいですが──」

 ダリア伯はどんな話をするのか問おうとしたが、バン爺の表情を見て、それは言及すべきではないと直感的に思った。しかし、テーブルにはもうひとり直観に優れた者がいた。


 食事が終わり3人は部屋に戻った。各々割り当てられた部屋に向かおうとしていたが、先ほどの会話で気にかかることがあったマゼンタはバン爺に訊ねる。

「ねぇバン爺」
「何じゃ?」
 バン爺は荷物を整理していた。
「バン爺が1級を放棄(ほうき)したのは聞いてたけど、父親の仕事も投げ出したってのはどういう意味?」
「……そんなこと、言うとったけな?」
「……とぼけてる?」
「いやいや、歳じゃからのう。あんまり会話の細かいところは覚えられんよ」
「……じゃあ、あたしの事を自分の情婦(じょうふ)だって言ったことも?」
「そりゃ言っとらん」
「覚えてんじゃん」
 バン爺の荷物を整理する手が止まった。
「……あまり詮索(せんさく)はせんといてくれ。ただ、王宮の仕事にかまけて、家庭をないがしろにしただけじゃよ。よくある話じゃ」
「ふぅん」
 その後、3人はダリア伯の用意した寝室へ移動した。
 しばらくしてシアンが寝ついたあと、用を足すためにマゼンタは部屋を抜け出した。しかし、トイレの場所を侍女(じじょ)に聞いていたものの、広い屋敷なうえに部屋からの道順ではなかったため、マゼンタは屋敷の中で迷ってしまった。ようやくトイレを見つけたと思ったら、次は戻り方が分からなくなっていた。
 ふと、通り過ぎようとした部屋の前でマゼンタは足を止めた。中からバン爺とダリア伯の会話が聞こえてきていた。

「……なんと、それは本当ですか?」
「あくまで、今のところはワシの見立(みたて)にしか過ぎんがのう……。」
「ローゼス卿がそう言われるならば、信用するには十分でしょう。……しかしあの男め、等級をはく奪されただけでもまだ温情ある処置だったというのに……。なんという奴だ」
「……ワシはあの子を王都に連れて行くのは、魔導医に見てもらおうとも思っとるからでな。あの子の体が心配じゃ」
「……ローゼス卿、私がすべて手配します。引退なされた貴方がそこまでなさる必要は……。」
「……老い先短いジジイの最後の未練(みれん)じゃ、ワシにやらせてくれんかの」
「ローゼス卿……その、ご子息は自ら命を絶ったとは……。」
「気休めはよさんか。そうとしか、思えんじゃろう……。」


 マゼンタはまわりまわって、宴が開かれていた広間に戻っていた。そこでは、執事が飲み残しの酒と食べ残りの料理で、役得(やくとく)とばかりに独り飲みをしていた。

「……独りで飲んでてつまんなくない?」

 突然のマゼンタの登場と、主人に内緒の息抜きを見られた執事は狼狽(ろうばい)する。丸メガネがズレ落ち、肘があたりテーブルの上の空の杯が倒れてしまった。

「あ、貴方様は……。なぜこちらに? お、お休みになられてのでは?」
「慌てなくていいよ、チクったりしないから」

 マゼンタは執事の横にどかっと座った。そして杯を執事の前に出した。

「あたしも飲み足りないの。注いでよ」

 堂々と隣に座る若い女性にたじろぎながら、執事は酒を注いだ。マゼンタはその酒を一気飲みする。
 主人の大切な客人、さらにその若い女性が豪快(ごうかい)に酒を飲む(さま)に、執事は恐縮しながらも呆気にとられる。

「ささ、おじさまも飲みなよ」

 マゼンタは執事の杯になみなみと酒を注いだ。

「あ、ありがとうございます……。」

 すでにかなり飲んでいた執事だったが、マゼンタの勢いにおされ、杯を大きく傾けて酒を飲む。

「へぇ、良い飲みっぷりだねぇ。やっぱり男は性格が飲みっぷりに出るよね」

 脚を組み、頬杖(ほおづえ)をついてマゼンタは(いろ)めかしい目で執事を見る。

「は、はは、恐縮でございます……。」

 さらにマゼンタは顔を執事に近づける。執事は息をのんで身じろぎをする。

「おじさまって、けっこうあたしの好みなんだよねぇ」
「へ?」
「あたしが食事中もずっとおじさまのこと見てたの、気づいてた?」
「そう……でございますか?」
「なぁんだ、けっこういけずなんだなぁ」

 マゼンタは執事の膝に指を()わせた。執事の体がぴくりと反応する。

「ご、ご冗談を、こんな年寄りを……。」
「え? 知らなかった? あたし、バン爺のこれなんだよ?」
 マゼンタは小指をたてて見せた。執事は思わず目を丸くして「へぇ」と間抜けた声を上げる。
「でもさぁ、やっぱりお爺ちゃんだから、あんまり相手してくんないんだよねぇ」
「ま、まぁ、そもそもローゼス卿は、昔から身持ちの硬いお方でしたから……。」
「へぇ、おじさまもバン爺の事知ってるんだ?」
「それはもう、あの方は1級の魔術師でしたし……お、お?」

 マゼンタは再度、執事の杯になみなみと酒を注いだ。

「ねぇ、あの人の事、もうちょっと詳しく聞かせてくれない?」
「詳しくと……申しますと?」
「あの人ってさぁ、自分の昔のこと話したがらないのよぉ。1級の時どんな活躍してたとかぁ、家族の事とかぁ。なんだか曖昧(あいまい)な答えばっかりなの」
「あ、まぁ……。」

 執事がそそくさと顔をそらす。

「好きな男の事って、知りたくなるものでしょ?」

 マゼンタは執事の逸らした顔をのぞき込む。

「なっ」
「今は……おじさまの事を知りたいかも……。」
「ははは……。」
「さ、飲んで」

 執事はマゼンタに促されて執事は杯を傾けた。飲み干した執事の焦点が合わなくなり始めていた。頭髪の後退した頭は真っ赤になっている。
 マゼンタは横目でそんな執事を見ながら自分も杯を傾ける。そして大きくため息をついてうつむいた。急なマゼンタの消沈(しょうちん)ぶりに執事が困惑する。

「……どうなされました?」
「あの人ね……きっと昔の家族の事を気にかけてるから、あたしの相手をしてくれないんだと思う。……きっと息子さんの事よね」

 マゼンタが顔を上げ執事を見ると、執事は慌てて目をそらした。マゼンタは手ごたえを感じる。

「ねぇ、あの人の息子さんって、どうして亡くなったの?」
「あ、いや……それは……。」

 マゼンタは執事の手を取った。

「お願い、誰にも言わないから。好きな人が、どういう人生を送ってきたのか知りたいだけなの」
「は、はあ……。」

 マゼンタは執事の手を強く握る。目が少しうるんでいた。酔いの回った執事の頭は、こんなマゼンタの願いを無下(むげ)にした方が気の毒であろうという結論に至った。

「……誰にも言わないと約束していただけますかな?」
「もちろん」

 そう言ったものの、執事はのどに声が引っ掛かっているように、何度も語り出しそうにしてはためらい、マゼンタから目をそらしたりしてようやく話し出した。

「……あくまで聞いた話ですし、その話も噂話の域を出ないのですが……その、世間で言われているのは、ローゼス卿のご子息は自ら命を絶ってしまった……“らしい”という事でございます」
「……自殺? どうして?」

 そこまで大きな声でないにもかかわらず、慌てて執事はマゼンタの声のトーンを抑えるように両手をふった。

「あくまで噂です。……ご存じのように、ローゼス卿は1級魔術師でございました。しかし、ご子息はあまり才能がなかったと申しますか、まぁお父上が類まれな方だったということだったということなのですが、幾度(いくど)も等級試験を受けて、30近くにしてようやく受かったのが7級だったと……。」

 マゼンタはバン爺の腕にある、白い腕輪を思い出していた。

「1級のお父上をお持ちだというのに、自身が7級で限界だという事実がよほどショックであられたのでしょう、等級を受けてしばらくして……ローゼス卿のご子息は川に身を投げられてしまったのです……。」
「本当に? だって、事故で川に落ちたのかもしれないよ?」
「川辺に、脱ぎ捨てられたご子息の上着と靴が残されておりました。それに……。」
「それに?」
「川に身を投げる前に、自室にあった魔導書の(たぐい)に火をつけて燃やしていたという……。」
「……そりゃあ」
 身辺整理(しんぺんせいり)だな、とマゼンタは言いかけた。
「……それ以来、ローゼス卿は王室(づと)めを休むようになりまして……。とうとう最後には1級魔術師としての職をお辞めになられたのです……。」
「……そう、なんだ」
「人格者として名高いローゼス卿のことです、きっとご子息に厳しい言葉をかけたわけではないのでしょう。しかし、やはり偉大な親を持つと、子は苦労するものなのでございましょうな……。世間の目というものもございますし……。」

 酩酊(めいてい)していた雰囲気は今ではしらふになっていた。マゼンタは残った杯の酒を飲み干した。執事の杯にまた注ごうとしたが、執事は「結構です」と、杯の上に手を当てた。

「……ありがとう」

 マゼンタは立ち上がり部屋を後にする。

「くれぐれもこの話はご内密に……。」

 マゼンタはふり返った。
 
「大丈夫、すごく酔ってるから明日の朝には忘れるよ。……あなたもでしょ?」
 翌朝、3人はダリア伯の屋敷を出発した。
 ダリア伯は馬車やお供の提供を申し出たが、目立つと追手に足取りをつかまれる可能性があるため、バン爺は馬を2頭だけダリア伯に用意するよう頼んだ。
 王都へ向かう3人の旅路、空には彼らを遮るものがないかのように、晴れ晴れとした蒼穹(そうきゅう)が広がっていた。秋口の風はまだ夏の余韻(よいん)を残して、寒さはまだはるか遠くにあるようだった。
 バン爺とシアンが同じ馬に乗り、その先に後ろにひとりで馬に乗るマゼンタがいた。

「……ねぇバン爺、ここから王都まではどれくらいかかるの?」
「ええ馬を借りたからのう。それにこれからはこの広い街道沿(ぞい)いにいくわけじゃから、なんの問題も起らんかったら、おそらく……3日じゃろうかなぁ」

 バン爺の言うように、王都へと続く街道は広く整備されていた。馬も疲れることなく旅を続けられるだろう。

「3日かぁ……。」
「まぁ、子供とジジイの旅じゃから、何事もないと楽観するわけにはいかんが」
「……ジジイって、そんなに歳でもないでしょ」

 バン爺はマゼンタをふり返った。

「どうしたの?」
「何じゃい、急に気を使うような物言いしおって」
「……そう? あたしはいつだって人に優しいよ?」
 マゼンタはバン爺の後ろにいるシアンに「ねー」と言った。


 陽が傾く頃、バン爺は「先を急ぎたいが、無理も禁物(きいんもつ)じゃ」と、街道沿いにある村を地図で探し始めた。

「……もう休む場所を探すんだ?」
「素直に受け入れてくれるかどうかも分からん。基本、どこの村もよそ者には厳しいと考えた方が良いじゃろうからな」
「まぁそうだね」

 しかし運が良いことに、最初に訪れた村でバン爺たちは屋根を貸りることができた。その村は行商人がよく通るため、外部の人間が珍しくなかったのだ。村人に案内されたのは、住んでいた老夫婦が亡くなり、近々村で取り壊す予定のあった空き家だった。

「感じの良い村だね」
「ふぅむ」

 のどかな風景だった。種まきが終わった村では早めの冬の支度(したく)が始まり、男たちは建物の整備を、女たちは糸巻き車で糸を紡いでいた。村の中央では、家の手伝いを終えた子供たちがボール遊びをしていた。
 そんな村の子供たちを、夕日に照らされたシアンが遠くから眺めていた。元々、長い髪に真白い肌のシアンは見た目から他の子供たちとは違うが、今のシアンの姿はさらに、見えない壁で隔離(かくり)されているかのようだった。

「行ってきなよ」

 はっとしてシアンがふり返る。そこにはマゼンタがいた。

「……でも」

 村の子供たちをうらやましそうに見ていたシアンは遠慮がちに目をそらす。

「ダリアのお殿様からもらったのがあるから食料の調達しなくていいし、特に明日の朝までやることないからね。あたしもバン爺もぶっちゃけ暇だよ。仕事があるとしたら、村の人たちに良い顔するくらいぐらいでさ。シアンくんも暇だったら遊んでおいでよ」
「……ぼくは、いいよ」
「もしかして、どうやって入れてもらったら良いか分からないとか?」

 恥ずかしさと悲しさでうっすらと頬を赤らめてうつむくシアンは、夕日もさしている効果もあって実に絵になる姿だった。
 そんなシアンに一瞬ほうっと見とれてしまっていたが、いかんいかんとマゼンタは首をふって子供たちのもとへ颯爽(さっそう)と歩いていった。

「ねぇ、おねえさんも混ぜてよ」

 突然のよそ者に面を食らっていたが、遊びの人数は多ければ多いほど良いという子供ながらの原理が働き、リーダー格の子供の「いいよっ」という一言でマゼンタは遊びに加わった。
 初めて訪れる村の遊びとはいえ、ただ単に鬼が逃げる相手にボールをぶつけ、ぶつかったらその子供が次に鬼になるという単純な遊びだった。年長のマゼンタは本気になることなく、適度にボールにぶつかったり、軽く投げるなどして彼らに程度を合わせていた。
 頃合いを見て、マゼンタは遠くで見ているシアンの方へボールをわざと飛ばした。転がってきたボールをどうしたらいいか分からずに、シアンは足元のボールを見るばかりだった。

「おーいっ、ボールこっち持ってきて~」

 マゼンタは手をふってシアンを呼ぶ。シアンはボールを拾うが、困惑した顔でただマゼンタたちを見ていた。
 マゼンタは自分を遊びに入れるよう促したリーダー格の子供に目配せをする。その子供はシアンの方へ走って行ってボールを受け取った。言葉が通じない外国の子供でもあっても遊びに誘いそうなほどに人見知りの無い少年は、シアンの手を引いて仲間の輪に戻ってきた。
 シアンが輪に入ってくると、子供たちは一斉にシアンに質問を浴びせかけた。歳が近いものの、見た目が明らかに毛並みの違うこの少年は子供たちの好奇の的だった。男なのか女なのか分からない中性的で美しい風貌(ふうぼう)に、生まれながらに(ただよ)う気品、例え子供だとしてもシアンが普通ではないことは直感で分かった。
 シアンが質問攻めから解放されると、子供たちはボール遊びを再開した。どうやらシアンは遊ぶという行為そのものに慣れていないようで、ボールの投げ方もぎこちなく、投げれば避けられ投げられれば当たってしまっていた。
 しかし、そこはまたこの少年の独特の気質がなせるものなのだろう、男の子たちはまるで少女に物を教えるかのように優しくなり、女の子たちはまるで王子様に仕えるように丁寧になった。
 マゼンタはこっそりと子供たちの輪を抜けると、遠巻きからその微笑ましい光景を眺めていた。
 やがて日が完全に沈むと、子供たちは解散し自分たちの家へ帰っていった。シアンはまだ遊び足りないようだったが、一緒に遊ぶ子供がいなくなってしまってはどうしようもなく、マゼンタたちのいる空き家に戻っていった。
 夕食時、3人は寝床代わりにござ(・・)を敷き、そこに座って食事をしていた。ダリア伯からもらった、パンや干し肉、果物に加えて、ダリア伯はシアンに気を使ってブリオッシュなどのお菓子も用意していた。

「ずいぶん楽しんどったようじゃの」
 バン爺は数時間前のシアンの様子を思い出していた。

「……。」

 しかし、シアンは村の子供たちと遊んでいた時が嘘であるかのように、大人しい表情になっていた。

「あ、ほらシアンくん。ブリオッシュがあるよ、あたし、これ、すごい好きなんだよね」

 マゼンタはブリオッシュを手に取って一口かじると、「おいし~」と、感動のあまり目をうるませた。貴族の家で作られる菓子である。彼女がこれまで食べたブリオッシュに比べ、砂糖とバターの使用量が違っていた。甘い菓子に舌鼓(したつづみ)を打つマゼンタは、本来の年齢の18歳よりも子供っぽく見える。

「ほらほら、腐らせたらもったいないよ。シアンくんが食べないと全部食べちゃうから」
「ブリオッシュはそんなに早く腐らんよ。意地きたない真似はやめんかい」
「……ぼくはいいから、ぜんぶ食べてよ」
「え?」

 マゼンタはあくまでカマをかけただけだったので、さすがに全部食べて良いと言われると面を喰らった。

「おや、お前さん甘いものは嫌いかね?」
「あ、そうじゃないけど……。」
「じゃあ、遠慮はいらんよ。たぶん、ダリア伯はお前さんが食べると思うてこれを入れとるんじゃから」
「うん、でも……ぼくは……いいや。みんなで食べて」
「いや、あたしもこれ以上は太っちゃうから」

 ふたりの視線は自然とバン爺に向かった。

「……そんなもん食べたら翌朝まで胃もたれをおこすわい」
「そうだよシアンくん、バン爺は体の半分が腐り始めてるんだから」
「お前さん、また口が悪くなっとるぞ……。」
「サービス期間は終わったから」
「なんじゃい。……シアンや、必要のないところで遠慮などしても美徳になりゃせんぞ。もし、お前さんが遠慮することでアイリス伯の機嫌を取っていたのなら、それはアイリス伯だけの事じゃ。ワシのようなジジイは子供がのびのびと自分の感情を見せとる方が嬉しいもんじゃよ。昼間のお前さんのようにのう」
「まぁね、自分を押し殺してる子供を見てると不安な気持ちになるしね」
「自分の気持ちの出し方を子供の内に学んどらんとな、大人になってから自分の感情で自分を殺してしまうような人間になってしまうぞ」

 マゼンタはバン爺を見る。その言葉の意味の向こうに、マゼンタは川に身を投げたバン爺の息子の事を想像していた。

「……なんじゃい?」
「ううん、なんでもない……。じゃあシアンくん、あたしと半分こしようよ。それだったら良いでしょ?」

 シアンはうなずいた。
 マゼンタはブリオッシュを半分ちぎってシアンに渡した。シアンは手に取ったブリオッシュを最初はじっと見ていたが、やがておずおずとそれを口に入れ始める。

「……おいしい?」

 シアンは「うん」と返事をし、最初はゆっくりと食べていたが、やがてすぐに勢いよく平らげた。
 マゼンタはそのシアンの様子を見て微笑んで見ていた。そしてシアンと目が合うと、「はい」と自分が持っていた残りのブリオッシュを渡す。シアンは頬を赤らめてそれを受け取ると、ぱくぱくとそれも平らげた。

「シアンが美味そうに食べるから、ワシも食べたくなってきてしまったわい。まだブリオッシュはあるかね」
「おじいちゃん? ブリオッシュはさっき食べたでしょう?」
「バカにするでない、覚えとるわそれくらい」

 マゼンタは悲し気に小さく首をふった。

「……え? 本当かね?」
「……自信がなくなってきた?」

 マゼンタは手を叩いて笑った。

「ジジイ相手にその冗談はやめてくれ、最近心配になっとるんじゃ」
「ごめんって」
「だいたい、毎回その手の冗談を言いよるが、そもそも面白くもなんとも──」

 言いかけていたバン爺だったが、マゼンタの顔を見て喋るのをやめた。マゼンタの視線の方を見ると、そこには笑っているシアンの姿があった。

「……おお」
「シアンくん……。」

 3人が出会って、初めて見た少年の笑顔だった。その笑顔は、今までの少年の憂い顔よりも、はるかに人の心を打つものだった。
 次の日の早朝に3人は出発した。
 村を()つ前に、昨日シアンと遊んだ村の子供たちが見送りに来ていた。自分の宝物の騎士の人形を贈る子や、秋の花で()んだ首飾りを贈る子もいた。
 そんな人生で初めてできた友達に、少年は何と言っていいか分からなかったが、マゼンタは「ありがとうって言えばいいんだよ」と耳元で囁いたので、シアンはおぼつかない口調でその想いを口にした。
 そして出発し、見送る子供たちが解散した後も、それでもシアンは名残り惜しそうに村を見ていた。
 その後、昼頃になると、空はあいにくの雨模様になった。ダリア伯の用意した雨合羽(あまがっぱ)を着ていたが、秋の初めの雨は想像以上に人の体から体温を奪っていた。

「……シアンくん、もうちょっとくっつきなよ、寒いでしょ?」
 マゼンタは馬上で自分の前に座っているシアンに言った。
「……ダメだよ」
「……どうして?」
「……父さんが、女の人に近づくとオドが弱くなるって」
「そんなのは噓じゃよ」

 バン爺が即座(そくざ)に否定した。

「じゃあ気にすることないね」

 そうしてマゼンタは背後からシアンに身を寄せた。少年の長髪からのぞく両耳が真っ赤になっていた。


 それからほどなくして、3人は王都に到着した。そびえ立つ城門の前で、門番にダリア伯から手配された通行手形(つうこうてがた)を見せると、何のトラブルもなく王都への中へ通された。

「……すっご」

 ただでさえ、門構えから圧倒されていたマゼンタだった。王都の中に入ると、人生で3階建て以上の建物は見たことがなかった彼女は、まるで異世界とも思える都の様子にただただ驚くばかりだった。
 遠くから見える王の城は、まるで巨大な火山のようだった。あまりの現実離れしたその巨大さのせいで遠近感に支障(ししょう)をきたし、マゼンタは見ているだけで酔いを起こしそうになっていた。

「お前さんたちは初めてかね」
「あたしはもちろんだけど……シアンくんも?」
「うん」
 シアンも好奇心を輝かせながら街の様子を見ていた。
「ほっほっ、シアンは等級試験を受けるなら、最終試験は王宮じゃから、今のうちに慣れとったが良いかものう」
「おお……。てか、1級魔術師だったってことは、バン爺も元々ここに住んでたんだよね? じゃあ、もうここは自分の庭みたいなもんだったりする?」
「そう言えればかっこええんじゃがのう。あいにくワシは出不精(でぶしょう)だったもんで、近所のことしかようわからんのじゃ。……ということで、宿に関してはワシが住んどったとこの近くになるが、問題ないかのう?」
「問題ないも何も、バン爺に任せるしかないしね」
「ほっ、そりゃそうじゃ」

 バン爺は繁華街をぬけて、住宅地に入っていった。しばらく歩いていると、とある川の前でバン爺は足を止めた。大きな川で、川幅は100メートルはありそうだった。その川を見ている間、バン爺の時間が止まったようだった。

「……どうしたの、バン爺?」
「……いや、なんでもない」

 それから、バン爺の見知った人間が営業している宿屋にたどり着いた。しかし、残念なことに、そこの主人はバン爺の知り合いではなくなっていた。数年前の川の増水で、近隣が流されてしまったのが原因だという。
 3人が部屋で荷物を下ろすと、シアンがトイレのために部屋を出た。

「……ねぇバン爺」
「なんじゃ?」
「これから、どうするの?」
「ダリア伯の所で言ったように、王室に援助を頼もうと思うてな」
「……シアンくんを医者に見せるみたいなことも言ってなかった?」

 バン爺が驚いてマゼンタを見る。

「ごめん、盗み聞きするつもりはなかったんだけど……トイレに行こうとしてる時にたまたま……。」
「……うむ。あくまで、もしかしたらその可能性もあるという事じゃ」
「シアンくんには何が起きてるの?」
「恐らく、アイリス伯が等級をはく奪された原因になった禁呪法じゃろう」
「……それってどういうものなの?」
「気の人為的(じんいてき)な操作じゃよ。外気(マナ)内気(オド)を結晶化する技術。そうやって水のマナで火をおこし、大地のマナを生き物に注入したり、|挙句(あげく)は生き物そのものを結晶化するという外道の術じゃった。奴はそれを魔術革命だと主張しておったがな。確かに、うまくやれば資源の乏しい土地に(うるお)いをもたらし、才能の無い人間を優秀な魔術師にすることもできるかもしれん。じゃが、自然の均衡(きんこう)で初めて抑えられるマナに人の手を加えたら、どんな予想のつかない暴走が起きるのか想像もつかんのじゃ。実際、アイリス伯と同じ研究をやっておった研究者の施設が山ごと吹き飛んで、周囲の町まで消した事件も起きてての。神をも恐れぬ所業(しょぎょう)じゃよ」
「じゃあ、バン爺が言ってた、シアンくんの不自然な力ってのは……。」
「ああ、その可能性が高いのう」
「……その、シアンくんは医者に見せれば何とかなるの?」
「……何とも言えん。研究を禁じられとる術なもんで、対処法があるかどうか……しかし王都の魔術師ならば、何らかの解決方法を見つけ出すかもしれん。一縷(いちる)の望みに賭けようと思ってな……。」
「そっか……。」

 そうこう話していると、シアンが戻ってきた。

「戻ってきたね、シアン。せっかく来たんじゃから、王都の見学とも行きたいが、事は急ぐ。さっそく出発しようか」
「はい」
「マゼンタや、お前さんはワシらが帰ってくるまでこの近辺でのんびりしといてくれ」
「なにさ、あたしは用済みだから置いてけぼりってわけ? ひどいよ、みんな一緒にここまで頑張ってきた仲間じゃん? 言っとくけどね、あたしだって、ちったぁ役には立つんだよ?」
「王都の堅苦(かたくる)しい連中とつまらん話を延々とするだけじゃよ? それでも来たいかね?」
「じゃあいいや」
「……行こうか、シアン」
「はい」

 バン爺はシアンを連れて「いってくるわい」と部屋を出ようとする。

「……マゼンタさん」
 部屋を出る前にシアンは言った。
「なぁに?」
「……その、いままで……ありがとう……ございました」

 マゼンタは微笑む。

「……ありがとう」
「……え?」
「ごめんなさい、何て言われるより、ありがとうって言われる方が、人ってずっとうれしいもんだからさ。……すごくうれしいよ」
「……はい」
「それに……。」
「はい?」
「シアンくん、はじめてあたしの名前を呼んでくれたね」

 シアンの顔が真っ赤になった。

「……行くぞい」

 シアンとバン爺は宿を出ていった。

 部屋の窓からマゼンタが手を振る。
「まっすぐ帰ってくるんだよぉ」

「……母親かいね」
 バン爺とシアンは馬車を借り、王宮へ行くよう頼んだ。
 シアンは馬車の外から見える風景を、身を乗り出して眺めていた。
 出会った頃は表情の乏しかった少年のそんな姿を見ながら、バン爺は久しぶりに到来した感情に心を潤わせた。バン爺は王宮へと続く道のりを見る。それはかつて失意(しつい)のうちに背を向けた道のりだった。

「……着いたの」

 城の前に到着したバン爺たちは例のごとく門の前で番兵に止められた。ダリア伯から預かった書簡を番兵に渡すと、それからほどなくしてバン爺たちは城の中に通された。
 応接間で待たされていると、そこに大臣が現れた。受け口の老人で、ロマンスグレーの頭を七三分けにしていた。詰襟(つめえり)の軍服を着てるため、老人だが背筋がしゃきっとしていた。

「ローゼス卿、お久しぶりです」

 ()()正しいお辞儀(じぎ)と折り目正しい声、折り目正しい微笑みの男だった。

「おお、お主が大臣になったのかね。たいしたもんじゃ」
「いえいえ、他に務まる者がいませんで……。」
「ほっほ、ワシだってそんなもんじゃったよ」
「またまた、ご謙遜(けんそん)を……。」
「ふむ、それで……書簡でも伝えておったと思うんじゃが……。」
「はい、陛下にお伝えしたところ、全面的に協力していただけるということでして……。」
「それはそれは、何だか注文が多くて申し訳ないのう」
「何をおっしゃいますか、陛下も若き日にはローゼス卿に導かれた者の一人、貴方様は陛下の師でもあらせられます」
「ほっほ、恩はあちこちに売っとくもんじゃ」

 ふたりの高齢者は上品に笑いあった。


 その頃、マゼンタは暇を持て余していたので、宿の周辺を探索していた。
 最初は買い物をしようと思っていたが、いざアーケードのくり出すと、王都の物価は建物と同じく天井知らずで、マゼンタの持ち金では手の出ないものばかりだった。
 仕方なく例の川の近くまで立ち寄り散歩をするマゼンタ、ふと川辺に花が()えてあるのに気づいた。

「……なんだろ?」

 近くに寄ってみると、それは(はち)に植えられた秋菊(ポットマム)だった。鉢に植えられているということは、栽培用に置いてあるのではなさそうだった。
 たまたま歩いてきた地元住民の男にマゼンタは訊ねる。

「ねぇおじさん」
「……ん、なんだい? 俺に何か用かい?」
「うん、ちょっと聞きたいんだけどさ、あそこに飾られてる花って何なの? この土地では川に花を捧げる風習があるとか?」
「ん、ああ……俺も良く分からんが、日暮れごろになると、あそこに献花(けんか)してる女がいるみたいなんだ」
「……誰かここら辺で亡くなったとか?」
「あ~そりゃあ分かんないなぁ。ここいらは一度増水で流されちまってね。だから今いる住民は、俺も含めて新しい人間ばかりなんだ」
「ああ、宿屋の人も言ってたね。……じゃあ、その人はその時に亡くなった誰かに花を捧げてるってことなのかな?」
 男は困った顔をして頭をかく。
「いやぁ、その時の慰霊碑(いれいひ)はきちんと建ててあるんだ。だから、その時に縁者(えんじゃ)が亡くなった人はそこに花を捧げるはずなんだよ。なのに何でその女があそこに花ぁ捧げてるのか、皆目見当(かいもくけんとう)がつかないねぇ……。」
「ふ~ん。とりあえず、その人はいつも夕暮れに来るんだね?」
「ああ、ここ最近はそうだ」
「“最近”?」
「そ、2週間前くらいかなぁ……突然、花が置かれるようになったんだよ。しかし妙なもんだ、献花なら命日とかで済みそうなもんだがな?」
「そうだよね……。」

 マゼンタは男に礼を言って別れた。

──夕方か……。


 その頃、バン爺は城(づと)めの医師にシアンの容態を診せていた。シアンには体が頻繁(ひんぱん)に衰弱する理由を調べてもらうためだとはぐらかしていた。父親に体内に異物を埋め込まれているという事実を、12歳の少年が受け止められるという確信がなかった。

「……ふぅむ」
 医師は聴診器を当てながら、シアンの心音を注意深く探る。
「……まぁ、歳の割には発育が遅いようですが、特にどこか悪いところがあるというわけではなさそうですな。きちんと食事をとれば問題はありますまい」
「……そりゃよかったわい」
「……念のためにローゼス卿も診ておきましょう」
「ワシもかね?」
「どちらかというと、貴方様の方が不安ですよ。そのお歳でずいぶん無理をなさったのでしょう?」
「ん、まぁ……。ならばシアン、少し待っとってくれんかの? さっきワシらがおった応接間でな。多分大臣たちがお前さんから話を聞くこともあろうから」
「はい」

 そうして、シアンは診察室を出ていった。

 シアンの気配が完全になくなってから、バン爺は医師に訊ねる。
「……で、正直なところ、どうじゃったね?」

 医師は(うめ)いた。
「あの男、よくも自分の子供にあんな真似を……。」

 バン爺はシアンにまだ事実を告げなくて正解だと思った。

「ふむ……。で、処置できそうかい?」
 さらに医師は深く呻いた。
「アイリス伯が王宮を去ってからというもの、当然ながら我が国で禁呪法を研究することはありませんでした」
「そりゃあそうじゃろうな……。」
「……しかし、あくまで“表向きは”ということです」
「……お主、そりゃどういう意味じゃ?」
 バン爺の様子の変化に医師は慌てる。
「あ、いや、妙な意味ではありません。アイリス伯の研究は大変危険でしたが、あの研究から生まれた、マナの流動学は盛んにおこなわれておりまして。例えば炎のマナを調べ、火災の原因や燃え広がり方を研究して消防に役立てたり、人の病気をマナから探るという研究をやっております。平和利用ですよ」
「……ふむ、それをどうやってシアンのために?」
「今申しました研究の成果で、体内のオドの正常化というものがあります。生まれついてオドが乱れている人間のオドを、正しい方向に流して正常化させるやり方ですな。呪いの解除にも役立つ研究でして……。」
「ワシがおらん間に、魔術もずいぶんと進んだもんじゃ」
「はい、簡潔(かんけつ)に言ってしまえば、溜まったものを外に流すという理論ですが」
「なんじゃ、なんだかんだいって原始的じゃのう。……つまり、シアンの異常な魔力を作り出しとる原因のコア、その力をすべて外に出してしまおうという事かね?」
「さすがローゼス卿、お話が早い」
「確かに、無限のオドなどありえんからな……。じゃが、あの子に流れとるのは、そんじゃそこらの力じゃないぞ?」
「問題はそこです。あの子がどれだけ自分の力をコントロールできるか、またそのオドはどこに流されるべきかです。破壊のエネルギーに()えるわけにはもちろんいきませんが、かといって自然界に過剰にエネルギーを還元(かんげん)しては、どんな天変地異(てんぺんちい)が起こることやら……。」
「適切に、慎重に、さらに長い時間を使って、あの子の体を元に戻していく必要があるという事か……。」
「……まさに。長い……道のりですが」

 バン爺は深くため息をついて天井を見上げた。

「いっぺん辿(たど)ってきた来た道を変えるのには、何にせよ時間のかかるもんじゃ……。」


 バン爺が応接間に戻ると、大臣に加え、他の宮廷の高官たちもシアンの周りに集まっていた。シアンは待たされている間に見知らぬ大人たちと一緒にいたせいでかなり不安だったらしく、バン爺の顔を見ると、分かりやすく顔が明るくなった。マゼンタでなくても、この少年には庇護欲(ひごよく)が生まれそうだった。

「またせたのう、シアンや」
「バン爺さんっ」

 かつて、この国の最高の魔術師のひとりとして誰もが疑わなかったバーガンディ・ローゼスをあだ名で呼んだことに、一同はぎょっとした顔をする。
 バン爺はそれに対し気にするな、といった具合に手を小さく振った。
 バン爺がシアンのもとに行くと、高官たちは口々に挨拶をする。ある者は久しぶりの再会を懐かしみ、ある者は初めて会うかつての1級魔術師に敬意を表した。
 そんなバン爺の姿を、魔術師といえば父しか知らないシアンは尊敬のまなざしで見ていた。

「ええ子にしとったか?」

 シアンはうつむいた。しかし、表情が見えなくても少年が感情の出し方が未だ不器用なだけであることがバン爺には分かっていた。

「ローゼス卿、今回の件、我々も最大限の援助を惜しみません」

 バン爺がやめる直前に指導していた弟子のひとりが言った。今では、彼は2級魔術師として王宮に仕えていた。

「うむ、助かるよ、こんなジジイのために、こんなに大勢が集まってくれるとは……。」
「何をおっしゃいます。我々はまだローゼス卿に恩を返してはおりません」
「ほっほ、泣かせてくれるわい」
 バン爺はシアンを見る。
「シアンや、何も心配することはない。もう、ここまでくれば安全じゃ。お前さんの新しい道のために、これだけの人間が集まってくれとるんじゃから」
 バン爺は念を押す。
「ここは大丈夫なんじゃ」

 シアンはうなずいた。目から涙がこぼれているのを見て、バン爺は少年を抱き寄せた。
 日も暮れ始めた頃、マゼンタは川辺に再び足を運んだ。まだ、そこには例の女の姿はなかった。
 マゼンタは土手から降りて川辺を歩く。
 マゼンタには違和感があった。確かに外面(そとづら)の良い男が、家では家族に暴力をふるうという話はよく聞く。自分の父親もそうだった。しかし、バン爺が息子を自殺に追い込むような人間だとは思えなかった。仮に職務で手いっぱいで家族に構えなかったとして、子供が自ら命を絶ってしまう事があるのだろうか。
 バン爺が家族の話を無難な程度でしている時も、彼には後悔の色が見え隠れする。もしかしたら、マゼンタやその他の人間にも話していない真実があるのかもしれない。
 そういえば、とマゼンタは思う。バン爺は妻の話を一切しなかった。現在、独り身というのは先立たれたのか、それとも……。

──やっぱり、人って見かけにはよらないってことなのかなぁ……。

 マゼンタが石切りなどをして時間を潰していると、そこに(くだん)の女と(おぼ)しき人影が、土手から川辺に降りてきた。
 女は川辺に立つと花を捧げて祈り始めた。マゼンタはそんな女を遠巻きに見る。

──ほんとに来た……。

 用事を終えた女は立ち上がり、そのまま帰路につこうと土手に向かう。

「……ねぇっ」

 マゼンタに声をかけられ女はふり返る。二十代後半の女だった。

「……なにか?」
「ごめんね、突然話しかけて。ここの人たちに聞いたんだけど、おねえさんってここ最近、この川辺に花を捧げてるんだって?」
「……ええ」
「ちょっと気になってることがあって、あゴメン、迷惑なら別に答えてくれなくていいんだけど、もしかして、おねえさんってここで亡くなった人と関係ある人なの?」

 女は怪訝(けげん)な顔でマゼンタを見る。そして面倒に巻き込まれたくないとばかりに「あなたには関係ありません」と、背を向けた。

「そっか……ごめん。あたしの知り合いがここで死んじゃったもんだから、つい……。」

 女が驚いてふり返った。

「……え?」
「あなた、あの人を知ってるのっ?」

 女はマゼンタに駆け寄ってきた。


 シアンはビオラ伯のもとで保護されることになった。ビオラ伯の娘が、かつてバン爺の推挙(すいきょ)で2級魔術師になったこと、またアイリス伯の領地から一番遠いことが理由だった。
 その帰り道、馬車の中でふたりは上機嫌だった。

「さぁて、話もまとまったことじゃし、マゼンタに土産でも買うて帰ろうかのう。あの娘の事じゃ、待たされて機嫌をそこねとるじゃろう」
「自分が待つっていったのに?」
「そういうもんなんじゃよ」
 バン爺は奮発(ふんぱつ)してケーキなどを買って行こうと言った。
「……ねぇ、バン爺さん」
「なんじゃ?」
「その……ぼくがビオラ伯のところにお世話になることになったら、バン爺さんたちはどうするの?」
「……そうじゃのう、ビオラ伯が迷惑じゃなかったら、ワシは客人として世話になるかものう」
「……その、マゼンタさん……は?」

 バン爺はシアンを見る。からかうような笑いを浮かべていた。

「……なに?」
「あの娘と一緒に行きたいんか?」
「え、だって……これまで……。」
 シアンはしどろもどろ答える。
「もちろんそう思うじゃろうな。ワシもお前さんの立場ならそう思うじゃろう。じゃが、こればっかりは本人が決めることじゃて」
「……一緒に来てくれるかな」
「……難しいのう。あの娘は自分から根無し草を選ぶような女じゃ。思いつきで色々変わりよるし。こう言っちゃなんじゃが、どれだけお前さんが言葉を尽くして熱心に誘おうが、たまたま虫の居所が悪いというだけであの娘は断るじゃろう。じゃが、上機嫌なら仮にお前さんが断っても勝手についてくるじゃろうな」
 シアンは難しそうな顔をする。
「ほっほ、得てして、男と女は自分にないものを持った相手に()かれよる」
「え、惹かれるって、別に、そういう意味じゃ……。」
「照れんでええわい。あの娘に言うと図に乗るから言わんがな、ありゃあワシがあと何十年か若かったらほっとかんかったぞ」
 シアンが意外そうな顔でバン爺を見る。
「……今だから言える事じゃが、実はワシらがあの日あの森でお前さんと出会ったのは偶然じゃあない」
「……。」
「マゼンタとワシは、懸賞金目当てでお前さんに近づいたんじゃ。じゃが、すぐにあの娘はそれを放棄(ほうき)してお前さんを助けようと言い出した。ワシに関しては、お前さんの親父の処分にワシが関わっておったという、けじめみたいなもんがあったんじゃが、あの娘には何もなかった。それなのに、お前さんの境遇を知るや、自分の安全を(かえり)みずそう言い出したんじゃ。いっけん軽率とも見えるが、人並み外れて正直で勇気があるともいえる。なかなかおらん女じゃよ」

 バン爺のマゼンタ評を聞きながら、シアンは自分がほめられているかのように嬉しそうな顔になっていた。


 その頃、マゼンタは急いで宿に帰ろうとしていた。自分が女から聞かされた真実をいち早くバン爺に教えなければならない。マゼンタの目には涙も浮かんでいた。

「……ん?」

 マゼンタは立ち止まる。3人の子供たちが、橋の向こうの路地裏の入り口で泣いていた。奇妙な泣き方だった。ただその場に立ち尽くし、お互いに顔を合わせながら泣いているのだ。
 心配になったマゼンタは、橋を渡って子供たちに近寄った。

「……どうしたの?」

 しかし、答えずに子供たちは泣くばかりだった。

「どうしたの? こんな時間に? 何があったの?」

 子供たちが泣きながら、路地裏を指さす。

「……この向こうが、どうかしたの?」

 マゼンタは路地裏の暗闇を見る。しかし、日も落ちかけ、路地裏は闇におおわれて何も見えない。

「何も……見えないけど……。この向こうに友達がいるの?」
 マゼンタは子供たちに振り向く。
「……かったぁ」
 子供がようやく口をきいた。
「……え?」
「……いたかったぁ」
 泣きじゃくりながら子供が言う。
「痛い? あんたたち、どっか怪我してるの?」
「……いたかったぁ」
「どこ? おねえさんに見せてみな?」

 子供たちが一斉にぴたりと泣き止んだ。

「……どうしたの?」

 子供たちは視線の狂った目でマゼンタを見た。

「あいたかったぁ!」
「え?」

 マゼンタの口を、背後の路地裏の暗闇から伸びた手が抑えつけた。

「会いたかったでぇ、おねぇさん」
「むぐぅ!?」

 アッシュだった。
 アッシュはマゼンタの肩をつかむと、マゼンタを自分に振り向かせた。
 間髪入(かんぱつい)れず、叫ぼうとするマゼンタ。しかし……。

「黙らんかい」

 アッシュの瞳に睨まれ、マゼンタは言葉を発せなくなった。

「あ、あ……。」

 体をアッシュの術で拘束されたが、それでもマゼンタは意志の力で何とか(あらが)う。力の抜けた手でなぐり、さらにアッシュの体を押し返そうとした。
 そんなマゼンタの抵抗を、愛おしい彼女との(たわむ)れのように眺めるアッシュ。

「やっぱええわぁ、おねえちゃん。魔術師でもないのに俺の術にここまで逆らえるんは、あんたが初めてやで? なんでや?」
「ふ、ふざけん……なよ……。」
 マゼンタはアッシュの顔をつかみ爪を立てる。
「なんや、まだ抵抗する気かいな。可愛らしゅうおますなぁ、せやけど……。」
「ひっ?」

 アッシュはマゼンタを抱き寄せた。強い抱擁(ほうよう)。さらに耳を噛むほどの近い距離でマゼンタに囁いた。

(じか)はさすがに耐えられへんやろ?」
「……あ、く」

 マゼンタから、みるみる抵抗する力が失われていく。

「おねえちゃん、めっちゃ好みやねん。こういう時じゃあなかったら、じっくり楽しみたいところやけど、あいにく俺も仕事やねんなぁ」

 マゼンタの顔は完全に呆けていた。顔はたるみ、目はとろんと垂れて涙を流している。体は立っているのがやっというくらいに左右にふらふらと揺れていた。

「ほな、いこか?」
「……うん」
「悔しいけど、シアンくんとあのおじいちゃんを一緒に相手するんは俺でも無理や。せやけど、ちょうどいい弱点があって助かったわ」


 バン爺とシアンが宿に戻ると、部屋には誰もいなかった。用を足しに部屋を空けているわけではなさそうだった。ランプの灯はついておらず、部屋には長い時間人がいた気配がしない。

「……何じゃ? 出かけとるんか?」

 バン爺は部屋を出て廊下を見渡した。人影は見当たらない。
 シアンは机の上に、1枚の便せんが置いてあるのを見つけた。

「バン爺っ」

 バン爺が振り向く。

「……どうしたね?」
「……これ」

 バン爺はシアンにさし出された便せんを受け取る。書かれている内容を読むや否や、バン爺の手が震えた。

「……な、なんということじゃっ」

 便せんにはマゼンタの身をアイリス伯の下で預かっているということが書かれていた。そしてマゼンタの解放の条件として、シアンがアイリス伯の下へ戻ることとクリスタルの返還《へんかん》が要求されていた。
 バン爺は翌朝に諸侯(しょこう)に相談し、マゼンタの奪還(だっかん)助力(じょりょく)()おうとシアンに提案した。その時はシアンもそれに同意したが……。

「シアン、どこに行くんじゃっ?」

 夜が明ける前にシアンは宿を抜け出し、ひとりで父の下へ帰ろうとしていた。
 光のささない路地を追うバン爺、シアンはふり返ろうともしなかった。

「待たんかい、お前さん、ひとりでアイリス伯の下へ行くつもりかねっ?」

 シアンはバン爺の問いに答えない。

「待ちなさいと言うとるにっ」

 バン爺はシアンの手を取った。シアンはその手を振りほどく。

「……もう、ほっといてください」
「シアン……。」
「……最初から、分かっていた事なんです。父さんからは逃げられない、逃げちゃいけないって……。ぼくが何かをやろうとしても、結局はこうなるんだ……。最初から、何も望まなければ良かった……。」
「シアン、お前さんはまだ子供じゃ。人生の見切りをつけるには早すぎるぞ。たった一回や二回の失敗が何だというんじゃ。何べんでも挑戦したらええ、お前さんには時間も選択肢もいっぱいあるんじゃぞ」
「自分で何かやろうとした結果がこれじゃないですかっ。みんなに迷惑がかかってるっ。ぼくが我慢してれば済むことなんですっ。そうすれば最初から父さんは怒らなかったし、マゼンタさんもさらわれることはなかったっ」
「それは違うぞシアン。大人の都合でお前さんひとりを我慢させるなんてやり方は間違っとるっ」
「やめてくださいっ、バン爺は赤の他人でしょ? どうしてぼくの家族の事に首を突っ込むんですかっ? もう……もう迷惑なんです!」
「……うむ、そうじゃな。ワシは赤の他人じゃ」
「ならもう、ほっといてください。それとも、そんなに父さんのことが気に入らないんですか? まるで父さんが言ってた通りじゃないですか、自分の昇進を邪魔し続けたってっ」
「……そうじゃのう、確かに、かつての仕事のやり残しというところもあるかもしれん。……じゃが、それならば他の者に今回の件を任せれば良かった話じゃ」
「じゃあ、何なんですか」
「……ちょいと、ジジイの昔話につきあってくれ。ワシの……息子の話じゃ」
「……亡くなられた、息子さんですか?」
「うむ……。」



 バーガンディ・ローゼスが1級に任ぜられたのは、政治上の理由に他ならなかった。実力が横並びだった彼の世代、誰が1級に昇格してもわだかまりが残るだろうとされた中、人当たりが良かったこと、さらに土の術式という、ライバルの研究者のいない分野の出身の彼には政敵(せいてき)らしい政敵がいなかった。史上もっとも無難な1級魔術師、それが彼の自己評価だった。
 だが、例え彼がそう自分を評価しようと、周囲はそうは見なかった。王の横で国政に関わる彼の名を、王侯諸侯(おうこうしょこう)で知らない者はおらず、彼の一挙手一投足(いっきょしゅいっとうそく)が注目を浴びた。そしてそれは外だけではなかった。彼の家族もまた、1級魔術師の家族ということで世間の注目を避けられなかった。
 彼の妻のマルーンは家名に恥じぬよう、一流の家庭教師を息子のフォーンにつけ、ゆくゆくは父の跡を継げるようにと苦心した。しかし、父に運が向いたといえ、息子までそうなるわけではない。戦争が過去になり人口が増え、魔術師を志す者が増えたため、バーガンディの時代に比べ魔術師の倍率は年々上がる一方だった。フォーンは魔術師としての才能が突出しているわけではなかったため、一昔前ならば5級までならば取れたかもしれなかったが、彼はいくど等級試験を受けても、もう少しの所で結果を残せずにいた。父が裏で手を回せば息子に等級を与えることも可能だっただろう。妻もどこかでそれを期待していた節があった。
 しかし、それをバーガンディはしようとしなかった。性格上の問題も去ることながら、自分が1級魔術師として期待されている役割は波風を起こさないことであり、もし息子の等級に関与すれば、その役割を自ら放棄(ほうき)することになるという懸念(けねん)もあった。
 そして何より、バーガンディは自分の息子に自分と同じ道を歩んでほしいと思っていなかった。自身の評価が低かっため、バーガンディは職務に対しては苦労しか感じていなかった。加えて、先の大戦では多くの魔術師が戦場だけではなく、政治闘争の舞台で暗殺などで命を落としていたという事実もあった。再び大きな戦争が起こらないとは限らないのだ。
 息子にはもっと自分に見合った道を歩んでほしい。ただそれだけだった。もし、バーガンディに落ち度があるとしたら、それを適切に息子に伝えていなかったことだろう。
 30歳になり、最後の挑戦として受けた等級試験、フォーンは何とか7級を獲得した。喜ばしいことかもしれなかったが、父の存在があった。1級魔術師の息子が、努力の果てに7級どまりだった事実。フォーン自身が、そして周囲がそれを何も思わないはずがなかった。道は閉ざされた、誰でもない本人がそう思っていた。
 そんな失意の中にある息子に、久しぶりに顔を合わせた父は言った。

──魔術師ばかりが人生ではない

 その父の言葉を息子がどう受け止めたのかは分からない。少なくとも、遺体が川辺で発見されたのはその翌日の事だった。



「……何もしなければ、少なくとも傷つけることはない。そう思っとったわ。しかし、それは父の役割じゃあなかった……。妻はワシを責めたもんじゃ。ワシが息子を支えておればこんなことにならなかったとな……。」
「……。」
「息子のいない人生を生きることになるとは思いもせんかったよ。息子を失ってから、ワシには未来がなくなった。あれ以来、永遠に同じ日を生きとるような気分じゃ。……シアンや、これはジジイの手前勝手な我がままじゃ。じゃが頼む、またワシに歯がゆい思いをさせんでくれ。自分の人生を捨ててしまう若もんを、もう見たくはないんじゃ」

 シアンはすぐには答えなかった。朝日が昇り始め、路地を光が照らし始めた。

「……結局、自分のためじゃないですか」
「……そうじゃ、自分のためじゃ。自分のためと、お前さんのため……そしてマゼンタのためじゃ」

 シアンが顔をあげた。

「お前さんは自分の道を自分で決めればいい。それに関してワシには何も言う資格がない。じゃが、それはマゼンタを放っておくという意味かね?」
「それは……。」
「惚れた女じゃろう? ちったぁええとこ見せんかい」
──

 マゼンタはアッシュにアイリス伯の城に連れ去られていた。テンプテーションが効いているために、道中でマゼンタはいっさい抵抗することなく、それどころか周囲からは恋人同士であるかのように思われていた。

「……安心しとってやぁ、おねえちゃん。アイリス伯もシアンくんが戻ればあんたのことを解放するし、それに俺がおっさんには手ぇ出させへんから」

 しかしマゼンタは何も答えない。瞳にわずかに不安の色があるだけだった。

「その後で、ふたりで楽しみましょ」

 ふたりはアイリス伯の部屋の扉の前に着いた。

「連れてきましたでぇ」
 アッシュが言うと、扉の奥から声がした。
「……入れ」

 アッシュが扉を開けると、そこにはアイリス伯が腕を組んで立っていた。

「……その女か」

 アッシュは肩をすくめた。
 アッシュはマゼンタを椅子に座らせると、両手を後ろで(しば)り拘束した。そしてマゼンタの目の前でスナップを打つと、マゼンタにかけられた術が解除されマゼンタの瞳に光が戻った。

「あ、か……かふぅっ、ふうぅっ」

 体の自由を取り戻し、マゼンタは激しく呼吸をする。

「落ち着いてや、別に呼吸が止まっとったわけやないんやから」
「ふぅ、ふぅ、ふぅ……。」

 呼吸が整うと、マゼンタはアッシュを睨んだ。

「そんな顔せんといてやぁ。俺、おねえちゃんのこと好きなのに、ごっつ傷つくわぁ」
 アッシュは演技がかった様子で哀し気に胸に手を当てる。
「ふざけてんの?」
「ふざけてませんって。つか、そもそも、おえねちゃんたちが人んちの子ども誘拐したんでっしゃろ?」
「誘拐って、それは……。」
 アイリス伯が言う。
「あれが誘拐でないなら何だというんだ?」
「……あんたがシアンくんの親じ……え?」

 マゼンタは正面を見て息をのんだ。アイリス伯に驚いたのではない。その後ろの、壁にかけてある肖像画(しょうぞうが)だった。

「……シアン……くん?」

 巨大な肖像画、長い髪と美しい顔はシアンによく似ていたが、その絵の人物はドレスを着ていた。

「……妻のグレイスだ。……美しいだろう?」
 アイリス伯は、うっとりとした顔でその肖像画を見た。
 
 一瞬で流れ込んできた情報量に、マゼンタには理由の分からない嫌悪感がこみあげてきた。愛妻の肖像画を飾るのは理解できる、だが何故か目の前の男がそうすることが奇妙に見えた。

「……素晴らしい妻だった。王都を追放された後もこんな私に寄り添い、研究を共にしてくれた……。残念ながら、研究中に命を落としたがな……。」

 妻への想いを口にしながらも、そこには独善(どくぜん)さがあった。シアンの背中の傷を見ていたこともあったが、マゼンタはこの男の言葉の一つ一つに邪悪さを感じていた。

「貴様は……そんな妻の忘れ形見を……私のもとから奪ったのだぞっ!」

 アイリス伯はマゼンタにテーブルの上の燭台(しょくだい)を投げつけた。

「……ッ!」

 当てるつもりだったのだろうが、燭台はぎりぎりマゼンタの顔をかすめるにとどまった。

堪忍(かんにん)してくださいよぉ、おっちゃん。もうおねぇちゃんはこうして捕まえとるんですから、あとはシアンくんを待てばええでしょ? おねぇちゃんを傷もんにせんといてくださいよぉ」
「うるさい! 本来ならばクリスタルを失った失態の責任をお前に取らせるところだが、義理の弟だからという理由で許してやってるのだぞっ」

 アッシュが首を傾けて笑う。口は笑っているものの、目はむき出しになっている攻撃的な笑いだった。

「へ~面白いこと言いはりますなぁ。俺かて、あんさんが義理の兄貴やなかったら、こないな汚れ仕事、受けようとも思いませんでしたけどねぇ」
「……なんだとぉ」
「どうやら、あたしはお邪魔みたいだから帰っていいかな?」
「ふざけるなっ」
「ふざけるなだって? ふざけんてんのはいったいどっちさ? シアンくんの背中にあんな傷つけて、大切な忘れ形見がきいて笑わせるよっ」
「……お前ら、そういう関係なのか?」

 アイリス伯がうろたえ、アッシュが小さく口笛を吹く。

「あ、いや、そういうわけじゃ……。」
「け、汚らわしい……!」

 アイリス伯はマゼンタにつめ寄り、髪をひっつかんだ。

「あいつの体に、お前の様な下賤(げせん)の女が触れたのかぁ……。」
「ふん、じゃあ高貴なあんたは子供を虐待する権利があるっていうわけ?」
「赤の他人が口を出すな! 教育だ! (しつけ)だ!」
「教育ですって?」
「そうだっ! 母親と動物にべったりだったふぬけのあいつを私が鍛え上げたんだ! 口を開けば泣き言と言い訳ばかりで、才能も無く(こころざし)などろくに持ち合わせていなかったあいつを、等級試験で成果を出せるくらいの魔術師にした! 私の人生を犠牲にさえしてな! なのに、あいつは私に感謝ひとつしない! 普通は光栄に思うはずなんだ! 私のような、このセレスト・アイリスを父に持てば! 私だって私のような父親が欲しかったくらいだ!」

 マゼンタの瞳から、一縷(いちる)の涙がこぼれていた。

「ふん! 自分の愚かさにようやく気付いたかっ」

 マゼンタは鼻をすすり、潤んだ赤い瞳でアイリス伯を睨みつける。

「……あんた、そうやってシアンくんの心を殺してきたんだね」
「なっ」

 アイリス伯はマゼンタの髪を両手でつかむ。

「何だとぉ……。貴様に、貴様ごときに親の苦労など分かるか!」
「あんたみたいなのを親に持つ、子の苦労だってあるさ」
「この小娘がぁ!」

 アイリス伯の体からオドが(あふ)れてきた。さりげなくアッシュがアイリス伯を制する。

「落ち着いてくださいよ、ここで人質殺してしもうたらどうしようもあらしまへんやろ? おっちゃん、シアンくんとあのおじいちゃん相手に独りで戦えますぅ?」
「……独り、だと?」
 アイリス伯がアッシュをふり返る。
「当り前やないですか。そこまでの義理はあらへんやろ?」
「ぬ、く……。」

 アイリス伯はマゼンタから身を引いた。

「しかしまぁ、驚きましたなぁ。おねえちゃん、シアンくんのこれだったんやね」
 アッシュは小指をたてた。
「だから、違うって……。」
「違うに決まってるだろう! その女がシアンの才能に目をつけてすり寄って来たに決まってるっ。赤の民の考えそうなことだっ。あいつにはまだ女など早いんだからなっ」
「そうでっか? 俺がシアンくんくらいの頃には、おねえさんの事で頭がいっぱいでしたけどねぇ」
「お前なんぞと一緒にするなっ」
「いちおう血は(つな)がっとるんですけどねぇ」
「だいたい、シアンの相手はグレイスのようなオールドブラッドに決めてるんだっ。優秀な血を残すためになっ」
「競走馬みたいに言いはりますなぁ」
「はんっ、良い事言ってるけど、結局は奥さんも道具だったわけだ」
 マゼンタは鼻で笑った。
「な!」
「ちょいちょい、おぇねちゃん。挑発せんといてください」
「何という生意気な娘だっ」
「まぁまぁ」

 アッシュはアイリス伯をなだめながら、「ええ()やわぁ」と笑っていた。

──
 その頃、バン爺とシアンはアイリス伯領に向けて旅路を引き返していた。
 道中の岩山でバン爺はシアンに言った。

「もしかしたら、穏便(おんびん)にいかんこともあるかもしれん」
「……。」
「お前さん、ヒーリングとテイマー以外には、何の術式を使えるのかね?」

 シアンは周囲を見わたすと目を閉じた。

「ふむ……。」

 シアンの術式はすぐに分かった。ふたりの周りを風が取り巻き始めた。風の術式だった。

「……親父さんにこれを身につけるようにと?」
「……うん」
「アイリス伯らしいのう。風の術式は応用すれば天候を操ることができる。あくまで理論上はじゃがな。汎用性(はんようせい)も可能性も高い、戦前も今も志望者が絶えん分野じゃ」

 バン爺は空を見上げた。空を厚い雲が覆い始めていた。マナの異常な変動を感じた馬が、なき声をあげて騒がしくなる。

「……なんと」

 バン爺が“理論上は”と言ったその場でシアンは実践(じっせん)に移っていた。

「予想通りと言うか、図抜けた力じゃのう……。もうええよ」

 バン爺がそう言うと、シアンが術式を解除し、空の雲は生き物のように散っていった。

「凄まじい力じゃが、細かいコントロールがまだと見える」

 バン爺は周囲を見わたす。

「……お前さん、オドの放出でここの岩を、どれかひとつ破壊できるかね?」

 シアンはうなずくと、目についた岩に右の手のひらを向けた。
 シアンが目をつぶると、シアンの蒼色の長髪がなびき始めた。再び馬たちが騒がしくなる。

「……ふむ。見てるだけでオドのみなぎりが分かるわい」

 目を開き、オドを解放するシアン。すると、シアンから20メートルほど離れたところにあった、大人の背丈ほどの大きさの岩石が轟音(ごうおん)と共に砕け散った。小さな破片がバン爺の胸元を打った。

「ほっほ、たいしたもんじゃのう。……じゃが、ちぃと効率が悪いかのう」

 シアンは不思議そうにバン爺を見る。破壊力としては申し分なかったはずだ。
 バン爺もシアンのように目を閉じる。シアンと違い周囲に変化はなく、馬も大人しかった。
 バン爺は右手の人差し指をたてた。その指先が青白く光る。
 岩石を指さすバン爺。その方向、5メートル先にあったのは、シアンが破壊したものよりも大きい岩石だった。
 バン爺の人差し指から、一筋の光線が放たれた。光線が岩石を(つらぬ)く。
 岩石には小さな空洞(くうどう)がポッコリと空いていた。

「……ふむ」

 オドを放出し終えたバン爺を、キョトンとした表情で見るシアン。貫通力はすさまじいのかもしれないが、破壊とまではいかなかった。
 しかし、そんなシアンの困惑を気にする様子もなくバン爺は岩石を見ている。

「……バン爺さん、どうしたの?」
「そろそろかの」
「そろそろ?」

 すると、岩石がぴしりぴしりと音を立て始めた。

「え?」

 貫通した穴からひび(・・)が入り、やがてそのひび(・・)は岩石全体に広がり始めた。そして、岩石はがらがらと音を立てて崩壊した。

「……すごい」
「何がすごいかね?」
「えっと……何がって……。」
「ふむ。まずお前さんの壊した石よりも大きかったな。じゃが、それはワシが壊れやすい石の種類を選んだからじゃ。次に、お前さんよりずっと小さなオドを使うた。じゃが、ワシはオドを一点集中させたんじゃ。……ただそれだけの事じゃな」
「……。」
「じゃが、結果は結果じゃ。……シアンや、数日前にワシがアッシュとやりおうた時のことを覚えておるかね?」
 シアンはうなずいた。
「正直、オドの総量でいえば、奴はワシなど比べ物にならんほどの力を持っておった。じゃが、結果はあの通りじゃ。……天地人じゃの」
「てんちじん?」
「天の時、地の利、人の和、戦いの時にはこれを意識しなければならん。戦うべき時を知り、そうでない時は戦いを避ける。状況を知り利用し、相手には利を取られないようにする。相手を良く知り、自分の事は知られないようにする。三つそろえば勝利は確実、力量の差があっても二つがそろえば五分五分と言ったところじゃろう。……そうじゃなければ、とっとと逃げることじゃな」
 そう言って、バン爺はか細い声で笑った。

 説得力しかなかった。シアンはバン爺がアッシュを倒すのを目撃している。父親に命じられて目指しているだけだった魔術師。ただ恐怖から逃れたい一心だった。しかしこの瞬間、少年は初めて師というものを知ったように思った。

「じゃが、天の時も地の利も向こうに握られとる。せめて相性じゃが、アイリス伯はワシのことなど、もうとうに感づいとるじゃろうからなぁ……。」
「……どうするの?」
「人生ままならぬもんじゃなっ」

 バン爺は笑った。不思議な(おもむき)のある笑顔だった。