翌朝、3人はダリア伯の屋敷を出発した。
ダリア伯は馬車やお供の提供を申し出たが、目立つと追手に足取りをつかまれる可能性があるため、バン爺は馬を2頭だけダリア伯に用意するよう頼んだ。
王都へ向かう3人の旅路、空には彼らを遮るものがないかのように、晴れ晴れとした蒼穹が広がっていた。秋口の風はまだ夏の余韻を残して、寒さはまだはるか遠くにあるようだった。
バン爺とシアンが同じ馬に乗り、その先に後ろにひとりで馬に乗るマゼンタがいた。
「……ねぇバン爺、ここから王都まではどれくらいかかるの?」
「ええ馬を借りたからのう。それにこれからはこの広い街道沿いにいくわけじゃから、なんの問題も起らんかったら、おそらく……3日じゃろうかなぁ」
バン爺の言うように、王都へと続く街道は広く整備されていた。馬も疲れることなく旅を続けられるだろう。
「3日かぁ……。」
「まぁ、子供とジジイの旅じゃから、何事もないと楽観するわけにはいかんが」
「……ジジイって、そんなに歳でもないでしょ」
バン爺はマゼンタをふり返った。
「どうしたの?」
「何じゃい、急に気を使うような物言いしおって」
「……そう? あたしはいつだって人に優しいよ?」
マゼンタはバン爺の後ろにいるシアンに「ねー」と言った。
陽が傾く頃、バン爺は「先を急ぎたいが、無理も禁物じゃ」と、街道沿いにある村を地図で探し始めた。
「……もう休む場所を探すんだ?」
「素直に受け入れてくれるかどうかも分からん。基本、どこの村もよそ者には厳しいと考えた方が良いじゃろうからな」
「まぁそうだね」
しかし運が良いことに、最初に訪れた村でバン爺たちは屋根を貸りることができた。その村は行商人がよく通るため、外部の人間が珍しくなかったのだ。村人に案内されたのは、住んでいた老夫婦が亡くなり、近々村で取り壊す予定のあった空き家だった。
「感じの良い村だね」
「ふぅむ」
のどかな風景だった。種まきが終わった村では早めの冬の支度が始まり、男たちは建物の整備を、女たちは糸巻き車で糸を紡いでいた。村の中央では、家の手伝いを終えた子供たちがボール遊びをしていた。
そんな村の子供たちを、夕日に照らされたシアンが遠くから眺めていた。元々、長い髪に真白い肌のシアンは見た目から他の子供たちとは違うが、今のシアンの姿はさらに、見えない壁で隔離されているかのようだった。
「行ってきなよ」
はっとしてシアンがふり返る。そこにはマゼンタがいた。
「……でも」
村の子供たちをうらやましそうに見ていたシアンは遠慮がちに目をそらす。
「ダリアのお殿様からもらったのがあるから食料の調達しなくていいし、特に明日の朝までやることないからね。あたしもバン爺もぶっちゃけ暇だよ。仕事があるとしたら、村の人たちに良い顔するくらいぐらいでさ。シアンくんも暇だったら遊んでおいでよ」
「……ぼくは、いいよ」
「もしかして、どうやって入れてもらったら良いか分からないとか?」
恥ずかしさと悲しさでうっすらと頬を赤らめてうつむくシアンは、夕日もさしている効果もあって実に絵になる姿だった。
そんなシアンに一瞬ほうっと見とれてしまっていたが、いかんいかんとマゼンタは首をふって子供たちのもとへ颯爽と歩いていった。
「ねぇ、おねえさんも混ぜてよ」
突然のよそ者に面を食らっていたが、遊びの人数は多ければ多いほど良いという子供ながらの原理が働き、リーダー格の子供の「いいよっ」という一言でマゼンタは遊びに加わった。
初めて訪れる村の遊びとはいえ、ただ単に鬼が逃げる相手にボールをぶつけ、ぶつかったらその子供が次に鬼になるという単純な遊びだった。年長のマゼンタは本気になることなく、適度にボールにぶつかったり、軽く投げるなどして彼らに程度を合わせていた。
頃合いを見て、マゼンタは遠くで見ているシアンの方へボールをわざと飛ばした。転がってきたボールをどうしたらいいか分からずに、シアンは足元のボールを見るばかりだった。
「おーいっ、ボールこっち持ってきて~」
マゼンタは手をふってシアンを呼ぶ。シアンはボールを拾うが、困惑した顔でただマゼンタたちを見ていた。
マゼンタは自分を遊びに入れるよう促したリーダー格の子供に目配せをする。その子供はシアンの方へ走って行ってボールを受け取った。言葉が通じない外国の子供でもあっても遊びに誘いそうなほどに人見知りの無い少年は、シアンの手を引いて仲間の輪に戻ってきた。
シアンが輪に入ってくると、子供たちは一斉にシアンに質問を浴びせかけた。歳が近いものの、見た目が明らかに毛並みの違うこの少年は子供たちの好奇の的だった。男なのか女なのか分からない中性的で美しい風貌に、生まれながらに漂う気品、例え子供だとしてもシアンが普通ではないことは直感で分かった。
シアンが質問攻めから解放されると、子供たちはボール遊びを再開した。どうやらシアンは遊ぶという行為そのものに慣れていないようで、ボールの投げ方もぎこちなく、投げれば避けられ投げられれば当たってしまっていた。
しかし、そこはまたこの少年の独特の気質がなせるものなのだろう、男の子たちはまるで少女に物を教えるかのように優しくなり、女の子たちはまるで王子様に仕えるように丁寧になった。
マゼンタはこっそりと子供たちの輪を抜けると、遠巻きからその微笑ましい光景を眺めていた。
やがて日が完全に沈むと、子供たちは解散し自分たちの家へ帰っていった。シアンはまだ遊び足りないようだったが、一緒に遊ぶ子供がいなくなってしまってはどうしようもなく、マゼンタたちのいる空き家に戻っていった。
夕食時、3人は寝床代わりにござを敷き、そこに座って食事をしていた。ダリア伯からもらった、パンや干し肉、果物に加えて、ダリア伯はシアンに気を使ってブリオッシュなどのお菓子も用意していた。
「ずいぶん楽しんどったようじゃの」
バン爺は数時間前のシアンの様子を思い出していた。
「……。」
しかし、シアンは村の子供たちと遊んでいた時が嘘であるかのように、大人しい表情になっていた。
「あ、ほらシアンくん。ブリオッシュがあるよ、あたし、これ、すごい好きなんだよね」
マゼンタはブリオッシュを手に取って一口かじると、「おいし~」と、感動のあまり目をうるませた。貴族の家で作られる菓子である。彼女がこれまで食べたブリオッシュに比べ、砂糖とバターの使用量が違っていた。甘い菓子に舌鼓を打つマゼンタは、本来の年齢の18歳よりも子供っぽく見える。
「ほらほら、腐らせたらもったいないよ。シアンくんが食べないと全部食べちゃうから」
「ブリオッシュはそんなに早く腐らんよ。意地きたない真似はやめんかい」
「……ぼくはいいから、ぜんぶ食べてよ」
「え?」
マゼンタはあくまでカマをかけただけだったので、さすがに全部食べて良いと言われると面を喰らった。
「おや、お前さん甘いものは嫌いかね?」
「あ、そうじゃないけど……。」
「じゃあ、遠慮はいらんよ。たぶん、ダリア伯はお前さんが食べると思うてこれを入れとるんじゃから」
「うん、でも……ぼくは……いいや。みんなで食べて」
「いや、あたしもこれ以上は太っちゃうから」
ふたりの視線は自然とバン爺に向かった。
「……そんなもん食べたら翌朝まで胃もたれをおこすわい」
「そうだよシアンくん、バン爺は体の半分が腐り始めてるんだから」
「お前さん、また口が悪くなっとるぞ……。」
「サービス期間は終わったから」
「なんじゃい。……シアンや、必要のないところで遠慮などしても美徳になりゃせんぞ。もし、お前さんが遠慮することでアイリス伯の機嫌を取っていたのなら、それはアイリス伯だけの事じゃ。ワシのようなジジイは子供がのびのびと自分の感情を見せとる方が嬉しいもんじゃよ。昼間のお前さんのようにのう」
「まぁね、自分を押し殺してる子供を見てると不安な気持ちになるしね」
「自分の気持ちの出し方を子供の内に学んどらんとな、大人になってから自分の感情で自分を殺してしまうような人間になってしまうぞ」
マゼンタはバン爺を見る。その言葉の意味の向こうに、マゼンタは川に身を投げたバン爺の息子の事を想像していた。
「……なんじゃい?」
「ううん、なんでもない……。じゃあシアンくん、あたしと半分こしようよ。それだったら良いでしょ?」
シアンはうなずいた。
マゼンタはブリオッシュを半分ちぎってシアンに渡した。シアンは手に取ったブリオッシュを最初はじっと見ていたが、やがておずおずとそれを口に入れ始める。
「……おいしい?」
シアンは「うん」と返事をし、最初はゆっくりと食べていたが、やがてすぐに勢いよく平らげた。
マゼンタはそのシアンの様子を見て微笑んで見ていた。そしてシアンと目が合うと、「はい」と自分が持っていた残りのブリオッシュを渡す。シアンは頬を赤らめてそれを受け取ると、ぱくぱくとそれも平らげた。
「シアンが美味そうに食べるから、ワシも食べたくなってきてしまったわい。まだブリオッシュはあるかね」
「おじいちゃん? ブリオッシュはさっき食べたでしょう?」
「バカにするでない、覚えとるわそれくらい」
マゼンタは悲し気に小さく首をふった。
「……え? 本当かね?」
「……自信がなくなってきた?」
マゼンタは手を叩いて笑った。
「ジジイ相手にその冗談はやめてくれ、最近心配になっとるんじゃ」
「ごめんって」
「だいたい、毎回その手の冗談を言いよるが、そもそも面白くもなんとも──」
言いかけていたバン爺だったが、マゼンタの顔を見て喋るのをやめた。マゼンタの視線の方を見ると、そこには笑っているシアンの姿があった。
「……おお」
「シアンくん……。」
3人が出会って、初めて見た少年の笑顔だった。その笑顔は、今までの少年の憂い顔よりも、はるかに人の心を打つものだった。
ダリア伯は馬車やお供の提供を申し出たが、目立つと追手に足取りをつかまれる可能性があるため、バン爺は馬を2頭だけダリア伯に用意するよう頼んだ。
王都へ向かう3人の旅路、空には彼らを遮るものがないかのように、晴れ晴れとした蒼穹が広がっていた。秋口の風はまだ夏の余韻を残して、寒さはまだはるか遠くにあるようだった。
バン爺とシアンが同じ馬に乗り、その先に後ろにひとりで馬に乗るマゼンタがいた。
「……ねぇバン爺、ここから王都まではどれくらいかかるの?」
「ええ馬を借りたからのう。それにこれからはこの広い街道沿いにいくわけじゃから、なんの問題も起らんかったら、おそらく……3日じゃろうかなぁ」
バン爺の言うように、王都へと続く街道は広く整備されていた。馬も疲れることなく旅を続けられるだろう。
「3日かぁ……。」
「まぁ、子供とジジイの旅じゃから、何事もないと楽観するわけにはいかんが」
「……ジジイって、そんなに歳でもないでしょ」
バン爺はマゼンタをふり返った。
「どうしたの?」
「何じゃい、急に気を使うような物言いしおって」
「……そう? あたしはいつだって人に優しいよ?」
マゼンタはバン爺の後ろにいるシアンに「ねー」と言った。
陽が傾く頃、バン爺は「先を急ぎたいが、無理も禁物じゃ」と、街道沿いにある村を地図で探し始めた。
「……もう休む場所を探すんだ?」
「素直に受け入れてくれるかどうかも分からん。基本、どこの村もよそ者には厳しいと考えた方が良いじゃろうからな」
「まぁそうだね」
しかし運が良いことに、最初に訪れた村でバン爺たちは屋根を貸りることができた。その村は行商人がよく通るため、外部の人間が珍しくなかったのだ。村人に案内されたのは、住んでいた老夫婦が亡くなり、近々村で取り壊す予定のあった空き家だった。
「感じの良い村だね」
「ふぅむ」
のどかな風景だった。種まきが終わった村では早めの冬の支度が始まり、男たちは建物の整備を、女たちは糸巻き車で糸を紡いでいた。村の中央では、家の手伝いを終えた子供たちがボール遊びをしていた。
そんな村の子供たちを、夕日に照らされたシアンが遠くから眺めていた。元々、長い髪に真白い肌のシアンは見た目から他の子供たちとは違うが、今のシアンの姿はさらに、見えない壁で隔離されているかのようだった。
「行ってきなよ」
はっとしてシアンがふり返る。そこにはマゼンタがいた。
「……でも」
村の子供たちをうらやましそうに見ていたシアンは遠慮がちに目をそらす。
「ダリアのお殿様からもらったのがあるから食料の調達しなくていいし、特に明日の朝までやることないからね。あたしもバン爺もぶっちゃけ暇だよ。仕事があるとしたら、村の人たちに良い顔するくらいぐらいでさ。シアンくんも暇だったら遊んでおいでよ」
「……ぼくは、いいよ」
「もしかして、どうやって入れてもらったら良いか分からないとか?」
恥ずかしさと悲しさでうっすらと頬を赤らめてうつむくシアンは、夕日もさしている効果もあって実に絵になる姿だった。
そんなシアンに一瞬ほうっと見とれてしまっていたが、いかんいかんとマゼンタは首をふって子供たちのもとへ颯爽と歩いていった。
「ねぇ、おねえさんも混ぜてよ」
突然のよそ者に面を食らっていたが、遊びの人数は多ければ多いほど良いという子供ながらの原理が働き、リーダー格の子供の「いいよっ」という一言でマゼンタは遊びに加わった。
初めて訪れる村の遊びとはいえ、ただ単に鬼が逃げる相手にボールをぶつけ、ぶつかったらその子供が次に鬼になるという単純な遊びだった。年長のマゼンタは本気になることなく、適度にボールにぶつかったり、軽く投げるなどして彼らに程度を合わせていた。
頃合いを見て、マゼンタは遠くで見ているシアンの方へボールをわざと飛ばした。転がってきたボールをどうしたらいいか分からずに、シアンは足元のボールを見るばかりだった。
「おーいっ、ボールこっち持ってきて~」
マゼンタは手をふってシアンを呼ぶ。シアンはボールを拾うが、困惑した顔でただマゼンタたちを見ていた。
マゼンタは自分を遊びに入れるよう促したリーダー格の子供に目配せをする。その子供はシアンの方へ走って行ってボールを受け取った。言葉が通じない外国の子供でもあっても遊びに誘いそうなほどに人見知りの無い少年は、シアンの手を引いて仲間の輪に戻ってきた。
シアンが輪に入ってくると、子供たちは一斉にシアンに質問を浴びせかけた。歳が近いものの、見た目が明らかに毛並みの違うこの少年は子供たちの好奇の的だった。男なのか女なのか分からない中性的で美しい風貌に、生まれながらに漂う気品、例え子供だとしてもシアンが普通ではないことは直感で分かった。
シアンが質問攻めから解放されると、子供たちはボール遊びを再開した。どうやらシアンは遊ぶという行為そのものに慣れていないようで、ボールの投げ方もぎこちなく、投げれば避けられ投げられれば当たってしまっていた。
しかし、そこはまたこの少年の独特の気質がなせるものなのだろう、男の子たちはまるで少女に物を教えるかのように優しくなり、女の子たちはまるで王子様に仕えるように丁寧になった。
マゼンタはこっそりと子供たちの輪を抜けると、遠巻きからその微笑ましい光景を眺めていた。
やがて日が完全に沈むと、子供たちは解散し自分たちの家へ帰っていった。シアンはまだ遊び足りないようだったが、一緒に遊ぶ子供がいなくなってしまってはどうしようもなく、マゼンタたちのいる空き家に戻っていった。
夕食時、3人は寝床代わりにござを敷き、そこに座って食事をしていた。ダリア伯からもらった、パンや干し肉、果物に加えて、ダリア伯はシアンに気を使ってブリオッシュなどのお菓子も用意していた。
「ずいぶん楽しんどったようじゃの」
バン爺は数時間前のシアンの様子を思い出していた。
「……。」
しかし、シアンは村の子供たちと遊んでいた時が嘘であるかのように、大人しい表情になっていた。
「あ、ほらシアンくん。ブリオッシュがあるよ、あたし、これ、すごい好きなんだよね」
マゼンタはブリオッシュを手に取って一口かじると、「おいし~」と、感動のあまり目をうるませた。貴族の家で作られる菓子である。彼女がこれまで食べたブリオッシュに比べ、砂糖とバターの使用量が違っていた。甘い菓子に舌鼓を打つマゼンタは、本来の年齢の18歳よりも子供っぽく見える。
「ほらほら、腐らせたらもったいないよ。シアンくんが食べないと全部食べちゃうから」
「ブリオッシュはそんなに早く腐らんよ。意地きたない真似はやめんかい」
「……ぼくはいいから、ぜんぶ食べてよ」
「え?」
マゼンタはあくまでカマをかけただけだったので、さすがに全部食べて良いと言われると面を喰らった。
「おや、お前さん甘いものは嫌いかね?」
「あ、そうじゃないけど……。」
「じゃあ、遠慮はいらんよ。たぶん、ダリア伯はお前さんが食べると思うてこれを入れとるんじゃから」
「うん、でも……ぼくは……いいや。みんなで食べて」
「いや、あたしもこれ以上は太っちゃうから」
ふたりの視線は自然とバン爺に向かった。
「……そんなもん食べたら翌朝まで胃もたれをおこすわい」
「そうだよシアンくん、バン爺は体の半分が腐り始めてるんだから」
「お前さん、また口が悪くなっとるぞ……。」
「サービス期間は終わったから」
「なんじゃい。……シアンや、必要のないところで遠慮などしても美徳になりゃせんぞ。もし、お前さんが遠慮することでアイリス伯の機嫌を取っていたのなら、それはアイリス伯だけの事じゃ。ワシのようなジジイは子供がのびのびと自分の感情を見せとる方が嬉しいもんじゃよ。昼間のお前さんのようにのう」
「まぁね、自分を押し殺してる子供を見てると不安な気持ちになるしね」
「自分の気持ちの出し方を子供の内に学んどらんとな、大人になってから自分の感情で自分を殺してしまうような人間になってしまうぞ」
マゼンタはバン爺を見る。その言葉の意味の向こうに、マゼンタは川に身を投げたバン爺の息子の事を想像していた。
「……なんじゃい?」
「ううん、なんでもない……。じゃあシアンくん、あたしと半分こしようよ。それだったら良いでしょ?」
シアンはうなずいた。
マゼンタはブリオッシュを半分ちぎってシアンに渡した。シアンは手に取ったブリオッシュを最初はじっと見ていたが、やがておずおずとそれを口に入れ始める。
「……おいしい?」
シアンは「うん」と返事をし、最初はゆっくりと食べていたが、やがてすぐに勢いよく平らげた。
マゼンタはそのシアンの様子を見て微笑んで見ていた。そしてシアンと目が合うと、「はい」と自分が持っていた残りのブリオッシュを渡す。シアンは頬を赤らめてそれを受け取ると、ぱくぱくとそれも平らげた。
「シアンが美味そうに食べるから、ワシも食べたくなってきてしまったわい。まだブリオッシュはあるかね」
「おじいちゃん? ブリオッシュはさっき食べたでしょう?」
「バカにするでない、覚えとるわそれくらい」
マゼンタは悲し気に小さく首をふった。
「……え? 本当かね?」
「……自信がなくなってきた?」
マゼンタは手を叩いて笑った。
「ジジイ相手にその冗談はやめてくれ、最近心配になっとるんじゃ」
「ごめんって」
「だいたい、毎回その手の冗談を言いよるが、そもそも面白くもなんとも──」
言いかけていたバン爺だったが、マゼンタの顔を見て喋るのをやめた。マゼンタの視線の方を見ると、そこには笑っているシアンの姿があった。
「……おお」
「シアンくん……。」
3人が出会って、初めて見た少年の笑顔だった。その笑顔は、今までの少年の憂い顔よりも、はるかに人の心を打つものだった。