謙太とツルさんは、戻って来た知朗を迎える。
「お帰りぃ。どうやったぁ?」
「あの子は喋ってくれたかのう」
「名前だけはなんとか教えてくれたぜ。吉村太郎、太郎ってんだ」
「おお……!」
ツルさんは驚いて声を上げる。
「そうか、応えてくれたか! 良かった、良かったのう」
ツルさんは今にも泣き出しそうに顔をくしゃくしゃに歪めた。
「ツルさん、泣くなって」
知朗が苦笑すると、ツルさんは「だって、だってなぁ」と鼻をしゃくり上げた。
「ツルさん、そんな大ごとなんですか?」
「それはそうじゃ。あの子は、太郎坊はここに来てから、飲み物をもらう時以外は全然口を開かんかったんじゃ。じゃから嬉しくてのう」
「そうやったんですねぇ。トモ、他に何か判った〜?」
「あーそれなんだけどよ」
知朗は気まずそうに首を掻く。
「俺も実際に見たこと無ぇし、こう、漫画とかドラマとかで見た作りもんぐらいだから、そもそも現実がそうなのかどうなのかは判らねぇんだけどよ」
「うん」
「なんじゃ?」
「あの坊主、太郎、大人が怖ぇんじゃねぇのかな」
「大人が怖い?」
ツルさんが首を傾げる。
「なんじゃ? 生前にこっ酷く怒られでもしたのかの?」
「子どもが大人を怖がる原因て、身体が大きいからとか、怒鳴られたことがあるとか……酷いことをされたって言うのがあるのかも知れへんねぇ。……あ、まさか」
謙太はひとつの結論に思い至り、困惑顔で口を噤んでしまう。
「ああ、俺もそれを考えた。だったら小さくてがりがりなのも説明がつく。けど本当だとしたら、俺らがなんかできるもんかってさ」
「なんじゃ、どういうことじゃ?」
ツルさんはますます首を傾ける。謙太と知朗は浮かない顔を見合わせた。
「虐待です」
「虐待、虐待じゃと?」
ツルさんは驚愕で大いに目を剥いた。
「どういうことじゃ。大人に虐げられていたというのかの?」
「大人っていうか、この場合は親だろ」
「親やろうねぇ」
「なんと!」
ツルさんが悲痛な声を上げた。
「親は我が子を無条件で愛するものではないのか?」
「それなぁ」
知朗は忌々しそうに、またぽりぽりと首を掻く。
「いるんだよ。親なのに子どもを愛せない人間が。親になれない人間が」
「あの子の、太郎坊の親がそうじゃったというのかの?」
「いくら怒鳴られても叱られても、相手が他人やったらあそこまでにならへんと思いますよ。親の暴力に長年晒されたから、あんな風になってもうたんや無いかなぁって」
「そんなことがあるのかの? 最近の生者の世界はそんなことになっておるのかの?」
ツルさんはすっかりと狼狽えてしまう。
「多分昔からあったんだよ。アナログ時代にはあまり表面に出てなかっただけで」
「やね。今は幼稚園児でも、タブレットとかで情報収取できる時代やしねぇ」
「じゃあわしらはどうしたら良いんじゃろうか。ここにいるということは、太郎坊にも何か心残りがあるということじゃ。それをできることなら叶えてやりたいのう。と言ってもこの通り飲み物をあげるぐらいしかできないんじゃ。ああ、どうしたら良いんじゃ」
ツルさんはすっかりと消沈してしまう。知朗はそんなツルさんの細い肩をぽんと優しく叩いた。
「まずは、大人は怖くないってことを知ってもらわなきゃな。他の人にも協力してもらって、優しく話し掛けてやったり、頭撫でてやったりよ。ま、少しずつやって行こうや」
「そうやねぇ。時間はたっぷりあるんやろうし、ゆっくり慣れてもらおうよ。ツルさん大丈夫ですよ。多分太郎くんは素直で優しい子なんですよ。多分ひねくれてたらあんな風にはならへんと思いますから」
「そ、そうか」
ツルさんはほっとした様な表情になって軽く息を吐いた。
「わしもまた話し掛けてみるかのう。あれぐらいの子はどんな話が好きなのかのう。どんなものが好きなのかのう」
「そういうのも聞けて行けたら良いな」
「そうじゃの」
ツルさんは弱々しいながらもようやく笑顔になった。
ツルさんが皆に呼び掛け、大人たちが時折太郎くんに話し掛けているのを見る様になった。
様子を伺っている限りまだ成果は出ていないみたいだが、ここは根気が必要だ。
完全に心を開いてくれないまでも、少しでも会話ができる様になればそれがきっかけになるのではないか。
皆に飲み物を用意する傍ら、謙太が太郎くんの元に行ってみる。
「太郎くん、こんにちは」
そう声を掛けながら横にぺたんと腰を下ろした。太郎くんは今日もオレンジジュースを手にしている。先ほど謙太が用意したものだ。なので謙太もオレンジジュースを自分用に入れた。
「ここのオレンジジュース美味しいよねぇ。ストレート果汁100パーセントなんて贅沢品やで。濃縮果汁のでも充分美味しいけど、ストレート果汁はもっと美味しいねぇ」
そう穏やかに話し掛けても、太郎くんは覇気の無い表情で無言のままだ。
およそ子どもらしくないその横顔を見て、それでも謙太は笑みを漏らす。
ろくな反抗もしないということは、生きている時はそれすらも許されなかったのかも知れないということだ。
言葉はもちろんだが、プラスであれマイナスであれ、感情を表に出せる様になって欲しいと思う。
「いつもオレンジジュースやんねぇ。他に好きな飲み物はあるん?」
そう聞くが、やはり太郎くんは口を開かない。謙太もまだ応えを期待していない。ただ少しでも、感情を揺り動かすきっかけになればとは思うが。
「じゃあ僕戻るね。飲み物無くなったらいつでも言うてねぇ」
謙太はそう言って立ち上がる。太郎はそこで小さく身じろぎし、軽く目を見開いた、様に見えた。そこで謙太は「もしかして」と気付く。
戻って知朗にそれを伝えると「ああ、そうかもな」と頷く。ツルさんは今はテーブルから離れていた。
「もしかしたら、話したりとか感情を出したりだとか、そのきっかけを掴めずにいるんかも知れねぇな。躊躇もしてるんだろうが。よっしゃ、ちと荒療治してみるかな」
知朗は言うと、にやりと口角を上げる。
「逆効果になってもうへん? 大丈夫ぅ?」
「俺も何度か話し掛けてるけどさ、口は開かねぇが、表情に少しだけど変化が出て来てる様な気がするんだよな。いやいつも無表情だけどよ、ちと頬が動いたり目が開いたり」
「あ、それは僕も思った。僕が戻ろうとした時に目が動いた様な感じがした。少しずつやけど変化してるんかも知れへんねぇ」
「なんか大きな動きがあったら、それがきっかけになるかも知れねぇ。次に太郎がジュース取りに来た時にでもやってみるか」
「うん、トモがそう言うんやったら」
「おう」
ふたりの視線が太郎くんに動く。太郎くんはやはりひとりで、ぼんやりと床を眺めていた。
「お帰りぃ。どうやったぁ?」
「あの子は喋ってくれたかのう」
「名前だけはなんとか教えてくれたぜ。吉村太郎、太郎ってんだ」
「おお……!」
ツルさんは驚いて声を上げる。
「そうか、応えてくれたか! 良かった、良かったのう」
ツルさんは今にも泣き出しそうに顔をくしゃくしゃに歪めた。
「ツルさん、泣くなって」
知朗が苦笑すると、ツルさんは「だって、だってなぁ」と鼻をしゃくり上げた。
「ツルさん、そんな大ごとなんですか?」
「それはそうじゃ。あの子は、太郎坊はここに来てから、飲み物をもらう時以外は全然口を開かんかったんじゃ。じゃから嬉しくてのう」
「そうやったんですねぇ。トモ、他に何か判った〜?」
「あーそれなんだけどよ」
知朗は気まずそうに首を掻く。
「俺も実際に見たこと無ぇし、こう、漫画とかドラマとかで見た作りもんぐらいだから、そもそも現実がそうなのかどうなのかは判らねぇんだけどよ」
「うん」
「なんじゃ?」
「あの坊主、太郎、大人が怖ぇんじゃねぇのかな」
「大人が怖い?」
ツルさんが首を傾げる。
「なんじゃ? 生前にこっ酷く怒られでもしたのかの?」
「子どもが大人を怖がる原因て、身体が大きいからとか、怒鳴られたことがあるとか……酷いことをされたって言うのがあるのかも知れへんねぇ。……あ、まさか」
謙太はひとつの結論に思い至り、困惑顔で口を噤んでしまう。
「ああ、俺もそれを考えた。だったら小さくてがりがりなのも説明がつく。けど本当だとしたら、俺らがなんかできるもんかってさ」
「なんじゃ、どういうことじゃ?」
ツルさんはますます首を傾ける。謙太と知朗は浮かない顔を見合わせた。
「虐待です」
「虐待、虐待じゃと?」
ツルさんは驚愕で大いに目を剥いた。
「どういうことじゃ。大人に虐げられていたというのかの?」
「大人っていうか、この場合は親だろ」
「親やろうねぇ」
「なんと!」
ツルさんが悲痛な声を上げた。
「親は我が子を無条件で愛するものではないのか?」
「それなぁ」
知朗は忌々しそうに、またぽりぽりと首を掻く。
「いるんだよ。親なのに子どもを愛せない人間が。親になれない人間が」
「あの子の、太郎坊の親がそうじゃったというのかの?」
「いくら怒鳴られても叱られても、相手が他人やったらあそこまでにならへんと思いますよ。親の暴力に長年晒されたから、あんな風になってもうたんや無いかなぁって」
「そんなことがあるのかの? 最近の生者の世界はそんなことになっておるのかの?」
ツルさんはすっかりと狼狽えてしまう。
「多分昔からあったんだよ。アナログ時代にはあまり表面に出てなかっただけで」
「やね。今は幼稚園児でも、タブレットとかで情報収取できる時代やしねぇ」
「じゃあわしらはどうしたら良いんじゃろうか。ここにいるということは、太郎坊にも何か心残りがあるということじゃ。それをできることなら叶えてやりたいのう。と言ってもこの通り飲み物をあげるぐらいしかできないんじゃ。ああ、どうしたら良いんじゃ」
ツルさんはすっかりと消沈してしまう。知朗はそんなツルさんの細い肩をぽんと優しく叩いた。
「まずは、大人は怖くないってことを知ってもらわなきゃな。他の人にも協力してもらって、優しく話し掛けてやったり、頭撫でてやったりよ。ま、少しずつやって行こうや」
「そうやねぇ。時間はたっぷりあるんやろうし、ゆっくり慣れてもらおうよ。ツルさん大丈夫ですよ。多分太郎くんは素直で優しい子なんですよ。多分ひねくれてたらあんな風にはならへんと思いますから」
「そ、そうか」
ツルさんはほっとした様な表情になって軽く息を吐いた。
「わしもまた話し掛けてみるかのう。あれぐらいの子はどんな話が好きなのかのう。どんなものが好きなのかのう」
「そういうのも聞けて行けたら良いな」
「そうじゃの」
ツルさんは弱々しいながらもようやく笑顔になった。
ツルさんが皆に呼び掛け、大人たちが時折太郎くんに話し掛けているのを見る様になった。
様子を伺っている限りまだ成果は出ていないみたいだが、ここは根気が必要だ。
完全に心を開いてくれないまでも、少しでも会話ができる様になればそれがきっかけになるのではないか。
皆に飲み物を用意する傍ら、謙太が太郎くんの元に行ってみる。
「太郎くん、こんにちは」
そう声を掛けながら横にぺたんと腰を下ろした。太郎くんは今日もオレンジジュースを手にしている。先ほど謙太が用意したものだ。なので謙太もオレンジジュースを自分用に入れた。
「ここのオレンジジュース美味しいよねぇ。ストレート果汁100パーセントなんて贅沢品やで。濃縮果汁のでも充分美味しいけど、ストレート果汁はもっと美味しいねぇ」
そう穏やかに話し掛けても、太郎くんは覇気の無い表情で無言のままだ。
およそ子どもらしくないその横顔を見て、それでも謙太は笑みを漏らす。
ろくな反抗もしないということは、生きている時はそれすらも許されなかったのかも知れないということだ。
言葉はもちろんだが、プラスであれマイナスであれ、感情を表に出せる様になって欲しいと思う。
「いつもオレンジジュースやんねぇ。他に好きな飲み物はあるん?」
そう聞くが、やはり太郎くんは口を開かない。謙太もまだ応えを期待していない。ただ少しでも、感情を揺り動かすきっかけになればとは思うが。
「じゃあ僕戻るね。飲み物無くなったらいつでも言うてねぇ」
謙太はそう言って立ち上がる。太郎はそこで小さく身じろぎし、軽く目を見開いた、様に見えた。そこで謙太は「もしかして」と気付く。
戻って知朗にそれを伝えると「ああ、そうかもな」と頷く。ツルさんは今はテーブルから離れていた。
「もしかしたら、話したりとか感情を出したりだとか、そのきっかけを掴めずにいるんかも知れねぇな。躊躇もしてるんだろうが。よっしゃ、ちと荒療治してみるかな」
知朗は言うと、にやりと口角を上げる。
「逆効果になってもうへん? 大丈夫ぅ?」
「俺も何度か話し掛けてるけどさ、口は開かねぇが、表情に少しだけど変化が出て来てる様な気がするんだよな。いやいつも無表情だけどよ、ちと頬が動いたり目が開いたり」
「あ、それは僕も思った。僕が戻ろうとした時に目が動いた様な感じがした。少しずつやけど変化してるんかも知れへんねぇ」
「なんか大きな動きがあったら、それがきっかけになるかも知れねぇ。次に太郎がジュース取りに来た時にでもやってみるか」
「うん、トモがそう言うんやったら」
「おう」
ふたりの視線が太郎くんに動く。太郎くんはやはりひとりで、ぼんやりと床を眺めていた。