その時知朗(ともろう)から声が掛かった。

夏子(なつこ)、疲れたから変わってくれ」

「はーい!」

 夏子ちゃんは知朗の元に飛んで行く。そしてボウルの中を見て「わぁ!」と声を上げた。

「さっきまで黄色かったのに白っぽくなってる! 量も増えてる!」

「後少しだ。最後まで頼めるか?」

「任せて!」

 夏子ちゃんは意気揚々(いきようよう)と言うと泡立て器を動かし、また「わぁ」と驚いた。

「重くなってるね! 凄いね! これでもまだ混ぜるの?」

「おう。頑張れ!」

「おー!」

 夏子ちゃんは気合いの声を上げると泡立て器をがしがしと動かす。もう仕上がり間近の卵はもったりとボウルの中で揺れた。

「トモさん、これでどうかなぁ!」

 夏子ちゃんが差し出したボウルを、知朗が受け取って混ぜてみた。

「おう、ばっちりだ。夏子、サンキューな」

 言うと夏子ちゃんは嬉しそうにぱあっと笑顔になった。

「うん!」

「これに粉を入れるんだ。これは慣れてないと泡を潰しちまうな。謙太(けんた)、頼んで良いか?」

「分かった。じゃあトモにはこっちをお願いねぇ」

「これは?」

 謙太が渡したボウルを知朗は(のぞ)き込む。

「卵白とグラニュー糖が入ってるから、しっかりと角が立つまで泡立ててね」

「また卵か!」

「また卵やよ〜。よろしくね〜」

「トモさん! 私もやるよ!」

「はは、ありがとな。後で代わってもらうか」

「うん!」

 知朗が卵白を泡立て始めた横で、スポンジケーキを受け継いだ謙太は小麦粉を振るいながら入れ、ゴムべらでさっくりと切る様に混ぜて行く。

 粉っぽさが無くなったら溶かしバターを入れ、さらにさくっと混ぜる。

 そうしてできた種を、溶かしバターを塗り小麦粉をはたいた鉄板に流し込み、余熱しておいたオーブンに入れた。

「よし。次はっと」

 謙太は卵黄のボウルにマスカルポーネチーズを入れて、しっかりと混ぜ合わせる。そこに泡立てた生クリームを加えて、泡を潰さない様に混ぜる。

「トモー、メレンゲできたぁ?」

「おう。量が少ないからもうできるぜ。夏子、仕上げ頼んで良いか?」

「うん!」

「助かるわぁ。できたら教えてね〜」

「おう」

「はーい!」

 その間にスポンジケーキが焼き上がる。薄いのでアリスちゃんの時のスポンジケーキより短い時間で良いのだ。やけどをしない様に取り出し、ケーキクーラーに開けて冷ます。

「謙太、メレンゲできたぜ」

「最後私が混ぜたんだよ!」

「ふたりともありがとう」

 知朗からボウルを受け取って確認すると、しっかり角が立っていた。それを何度かに分けてマスカルポーネチーズなどと混ぜて行く。

 これは生クリームより泡が潰れやすいので注意が必要だ。ゴムべらに持ち替えて切る様にさくさくと混ぜた。そうして滑らかなマスカルポーネクリームが出来上がる。

 折に見て味見をしていたが、最後の味見をしてみると美味しく仕上がっていた。

 昨今の基準で見ると少し甘過ぎる感じもするが、夏子ちゃんが生きていたころには甘い菓子も多かったと思われるので、そこに合わせたのだ。これにコーヒーと純ココアの苦味が加わるのでちょうど良くなると思う。

「味見? 私もしてみたい!」

「夏子ちゃんには食べる時のお楽しみやでぇ。その方が美味しかった時の感動が大きいと思うな〜」

「そっか!」

 スポンジケーキが冷めるにはまだ早いかと思って触ってみたら、不思議なことにもう常温になっていた。

 毎度この様な現象を見ると本当に首を傾げてしまうのだが、便利だしそもそも空間の仕組みが生きていたころとは違うので、今は納得するしか無い。

 謙太はガラス製の器を取り出すと、適当にカットしたスポンジを敷き詰め、先ほど作ったエスプレッソのシロップを刷毛でたっぷりと塗って行く。

 その上にマスカルポーネクリームの半分を入れ、カートで平らにする。そこに残りのエスプレッソシロップを含ませたスポンジを乗せて、残り半分のマスカルポーネクリームを流して、表面をカートで綺麗に均した。

「わぁ、綺麗!」

 夏子ちゃんが嬉しそうに表情を輝かす。

「これであとは冷やした後に仕上げやで〜」

「けど冷やすって冷蔵庫も無ぇのに」

「このまま置いておいたら冷えると思う。なんかそういうもんなんやって思うわ」

「まぁ……確かにな。カレーの時も火消してたのに全然冷めなかったし、そういうもんなんだろうな。便利っちゃあ便利だが気味が悪いとも言えるな」

「死んだあとの世界やからなんでもありなんかも知れへんで〜」

 知朗は顔をしかめるが、謙太はあっけらかんと言う。夏子ちゃんは意味がわからないのか、きょとんとした表情を浮かべていた。

「まぁ、生きてる時の常識で図れるものじゃ無ぇんだろうが」

「考えるのは後にして、次はトモやで。何作るん?」

「あ、ああ、そうだな。先にそっちだよな。作るか」

「え、トモさんも作ってくれるの!?」

「おう。気に入ってくれると良いけどな」

 知朗は言うとキッチンの引き出しを開けて材料を取り出した。

「これはお楽しみだ。あ、夏子、食物アレルギーはあるか?」

「ううん、無いよー」

「よし。じゃあ待ってな」

 知朗がそう言うので、謙太は夏子ちゃんを連れてテーブルに戻っていた。夏子ちゃんにアイスミルクティを入れてやり自分用にはジンジャーエールを用意する。ツルさんにも大吟醸を入れた。

「トモ坊は何を作るのかの?」

「内緒です」

「気になる気になる!」

 夏子ちゃんがその場でぴょんぴょん跳ねる。謙太はおかしそうに「あはは」と笑う。

「トモが作るものやから絶対に美味しいでぇ。楽しみやねぇ」

「うん、楽しみ! あ、でもね、あのね」

 夏子ちゃんは両手で頬を包み照れた様に身体を揺らす。

「私、彼氏とデートとかもしてみたかったなぁ」

「デート? 夏子ちゃんは彼氏おったん?」

「いなーい。いたことも無ーい。あんまり学校に行けなかったから、好きな人もできたこと無いんだー。でも少女漫画読んでたから恋愛って良いなーって。格好良い彼氏とか良いなーって」

「そっかぁ」

 謙太は少し考えて口を開く。

「じゃあさぁ、ここにおる人の中で、夏子ちゃんが格好良いって思う人と、ティラミスを食べるっていうのどうやろ」

「え」

 夏子ちゃんは驚いてぽっと頬を赤らめて俯いてしまう。

「えー照れる! でもそんなことしてくれる人いるかなぁ」

「夏子ちゃんのお願いやったら、皆聞いてくれると思うでぇ」

「そうじゃの。夏子ちゃんは可愛いからのう。わしが若ければ立候補したいぐらいじゃぞ」

 謙太とツルさんが笑顔で言うと、夏子ちゃんは「そ、そうかな」とまた照れる。そして俯いたまま目だけを謙太に向けた。

「じゃ、じゃあ謙太さん、もし良かったら一緒に食べてくれる……?」

 謙太は一瞬きょとんとし「え?」と声を漏らす。

「僕でええの?」

「も、もちろんだよ! 謙太さん凄っごい優しいし!」

 それならここにいる人は皆知朗も含めて皆優しい。だがその中でも夏子ちゃんは謙太を選んでくれた。それは応えなければ男が廃ると言うものだ。

「ありがとう。じゃあデートしよう!」

 謙太が明るく言うと夏子ちゃんは満面の笑みを浮かべた。

「ありがとう!」

 本当に嬉しそうな夏子ちゃんの笑顔に謙太もご機嫌になる。

 実際に交際しているわけでは無いので、彼氏らしいことがどれだけできるか判らないが、少しでも夏子ちゃんに楽しんでもらえる様にしたい。