あなたの死に花束を。

 だがずっと、店主がその名前を見つけるたびに、なぞるたびに見せる苦しそうな表情が気になっていた。特別なのだろう、名前の女性は今どこにいるのか。
 しばらく沈黙が続く。彼は何も言わず、ただじっとなぞった名前を見つめている。
開けたままの扉から、時折吹いてくる夜風が、そっと私の短い髪と、店主の長い前髪を微かに揺らしていった。
 時計の短い針が、カチッと九時ピッタリをさした。店主がやっとハサミから顔を上げる。
「……君によく似た元従業員さ」
 そして彼は、クシャっと目を瞑るように、笑った。鼻の上にしわを作って、白く綺麗に揃った歯を見せて。子供みたいだった。
 でも、ずっとずっと、苦しく見える……作り笑いだった。

 シャラン、と耳に揺れるピアスが鳴った。そこでふと思い出す。
 そっと右耳につけていたイヤリングを外した。パチン、と小さな金属音と共に、片耳にかかっていた重みが消えた。
 それを、近くに置いていたアルコール消毒液で消毒して、未だにハサミを握りしめている彼に差し出す。
「……これ、返すから」
 最初に渡された、彼曰く従業員の証、というアクセサリーだった。
「ふうん。君の好みじゃなかったわけだねえ。残念だなあ」
 彼はハサミを作業台の引き出しにしまって、私からイヤリングを受け取った。
「……ねえ、もしかしてこれも――」
 河原さんのじゃあ、と言おうとしたが、それは舌の上で転がった。店主がすっと私の前に人差し指を立てたから。
 いつの間にか、完璧な営業スマイルに戻っていた彼は言う。
「誰しも暴かれたくない秘密はあるもんだよ。小種ちゃん」
 そう言って、握りしめたイヤリングを見ずにポイっと作業台に放り投げて、仕事に戻った。
「……もう咲いたんじゃなかったっけ」とじっとりとした目で私が言えば、彼は笑った。「名前で読んだら勿体ない気がしたんだよ」なんて、きざったらしくそう言って。
「……何それ」と返しながら、店の扉を今度こそ閉める。
パタン、と木目調のそれが音を立てて、店を外界から隔てる。その店の前に並んでいた花はない。入り込もうとしていた夜風も、扉の前でくるりと方向転換し、どこか遠くて、去っていった。

   終章

 鳥のさえずりで目が覚めた。窓のすぐ近くで鳴いているらしい。ひどくうるさくて、気だるげに身体を起こす。