『この花を嫌いになればいい』と。あの頃にはもう、すっかり仮面みたいな笑顔になっていたけれど、この時だけ、彼はひどくぎこちない笑顔だった。
なんだから悲しくて、でも嬉しくて。また店に行くようになった。それこそお得意様になるくらい。普通に店主さんと、お客として、彼に接するべきだと思った。
だから本当は、私が知ることではなかったのよ。……香葉ちゃんと、その彼の事は」
一度そこで区切ると、彼女はバッグから一つ、取り出した。それを見た瞬間、ドクン、と心臓が飛び跳ねる。
彼の、耳にあったはずのピアスがそこに、揃っていた。
ほんの少し傷のついた透明な飾りを、そっと撫でるように指先で触れる橘さんは、苦しそうに息を吐く。
「……あの日も、偶然だったのよ。
宵花屋の歌を口ずさみながら、花束を抱えて家に帰る途中でね。大通りから、住宅街に入るところだった。
突然バイクに乗った若者たちが私を煽るように近づいてきて、バッグを掴んだの。持っていかれると困るから、必死に抵抗したわ。だけど力で勝てるわけがなくて……。
せめて、持っていたジャスミンと別の花で作られた花束だけは守ろうと、諦めた時に彼が来たのね。
自転車を乗り捨てながら、私と彼らの間に入って、それで――」
彼が昏睡状態に陥った時、私は一度だけ病室に来た。混乱と、微かな期待を胸に抱いていたことをよく覚えている。
だが病室で、静かに呼吸する彼の耳には、その日私に与えたピアスがなかった。お揃いのそれがなくて、私は彼を、笹波菖蒲という人間だと認識できなかった。
「橘さん、が」
彼は女性を助けようとしていた、と後から話を聞いた。誰だったか、もう顔も名前もわからないけど。その女性が、橘さんだった、と言うのか。
彼女は、ふっと眉根を寄せて、引きつらせながら口角を上げた。
「そう、私。ごめんなさいね、黙っていて」
隠すつもりはなかったのよ。
吐息と共に吐き出された言葉が、胸の辺りをそっと撫でるようだった。でもそれは、不快ではない。私は緩く首を横に振った。
一度こちらに向けていた目線を、手元に落とす彼女は、そのまま小さくなって、消えてしまいそうなくらい、はかなげな空気をまとっている。
彼女を守るように、また風が吹く。私のピアスがシャラ、と揺れた。
「……あなたと彼の事を、その後紫陽くんから聞いたのよ」
なんだから悲しくて、でも嬉しくて。また店に行くようになった。それこそお得意様になるくらい。普通に店主さんと、お客として、彼に接するべきだと思った。
だから本当は、私が知ることではなかったのよ。……香葉ちゃんと、その彼の事は」
一度そこで区切ると、彼女はバッグから一つ、取り出した。それを見た瞬間、ドクン、と心臓が飛び跳ねる。
彼の、耳にあったはずのピアスがそこに、揃っていた。
ほんの少し傷のついた透明な飾りを、そっと撫でるように指先で触れる橘さんは、苦しそうに息を吐く。
「……あの日も、偶然だったのよ。
宵花屋の歌を口ずさみながら、花束を抱えて家に帰る途中でね。大通りから、住宅街に入るところだった。
突然バイクに乗った若者たちが私を煽るように近づいてきて、バッグを掴んだの。持っていかれると困るから、必死に抵抗したわ。だけど力で勝てるわけがなくて……。
せめて、持っていたジャスミンと別の花で作られた花束だけは守ろうと、諦めた時に彼が来たのね。
自転車を乗り捨てながら、私と彼らの間に入って、それで――」
彼が昏睡状態に陥った時、私は一度だけ病室に来た。混乱と、微かな期待を胸に抱いていたことをよく覚えている。
だが病室で、静かに呼吸する彼の耳には、その日私に与えたピアスがなかった。お揃いのそれがなくて、私は彼を、笹波菖蒲という人間だと認識できなかった。
「橘さん、が」
彼は女性を助けようとしていた、と後から話を聞いた。誰だったか、もう顔も名前もわからないけど。その女性が、橘さんだった、と言うのか。
彼女は、ふっと眉根を寄せて、引きつらせながら口角を上げた。
「そう、私。ごめんなさいね、黙っていて」
隠すつもりはなかったのよ。
吐息と共に吐き出された言葉が、胸の辺りをそっと撫でるようだった。でもそれは、不快ではない。私は緩く首を横に振った。
一度こちらに向けていた目線を、手元に落とす彼女は、そのまま小さくなって、消えてしまいそうなくらい、はかなげな空気をまとっている。
彼女を守るように、また風が吹く。私のピアスがシャラ、と揺れた。
「……あなたと彼の事を、その後紫陽くんから聞いたのよ」
