序章

 感情の起伏には、時々嫌気が差す。
 怒りでも悲しみでも、好きでも嫌いでも。揺れ動く心が、ほんの少し疲れる。
 いっそ感情がなかったら、なんて思いたくもなる。
 だけど人間である以上感情がなくなることなんてない。少 なくとも、私が知る限り感情がない人間なんていない。
人の死を何とも思わない人は、いない。

 真夜中。ちょうど十二時を過ぎた頃。日付も変わり、終電も間近。
 さすがに駅前に人も数える程度しかいない。
 仕事帰りのサラリーマンが気だるそうに立つ自販機の前、 甘ったるい会話をしながら歩く男女の横を通り過ぎ、少し先にあるコンビニへ、ただ真っ直ぐと歩いていく。
 青白い街灯が不気味に揺らぐその下を、じっと下を見ながら歩いていると、ふいに目の前を誰かが立った。
 何か、と顔を上げたら、その人も同じようにこちらを見る。瞬間、見るな、とでも言いたげに鋭く光る瞳。逃げるように目を逸らして、すれ違った。
 こういう時、何故か少し緊張する。不思議なものだ。
 目を細め、歩く速度を上げた。なんとなく居心地が悪い夜だった。
 だが再び、前に人が立つ気配がした。
 通り過ぎるだけでいい、と分かっているのに。じっとりと手に汗がにじむ。断つつもりで、ぐっと握りしめた。巻き込んだ袖が引っ張られる。
 段々足音が近づいて来る。今度は顔を見ないようほとんど真下を、ひいては自分の足を見つめながら歩く。
 相手の足が視界に入って、反射的によけようと足を動かす。しかしその足は急にピタリ、と私の前で止まった。
「――バラの種」
 突然響いた声に、えっ、と顔を上げる。同時にふわり、と香った匂いは独特で、ずいぶんと甘ったるくて、頭がズキン、と痛んだ。
 そこには一人、背の高い男がひょろりと立っていた。平均よりも身長の高い私ですら見上げて、街灯の眩しさに目を細めるほど。
 ――英国紳士か。あるいはフランス人とのハーフか。
 そう思ってしまうほど、端正な顔がそこにあった。小さな丸眼鏡すらも、よく似合う。
 男は再び口を開く。
「罪の花が咲いている」と。
 意味が分からない。花なんて一体どこに咲いているというのか――。
 シャラン。
 無意識に触っていたピアスの鎖が鳴った。瞬間、ハッと目を見開く。
 そのピアスには、花が咲いていた。
 男の顔をもう一度見るが、彼はただ笑いながら見下ろしているだけ。