光の中、彼という存在は大きく変わろうとしていた。
 死に瀕していたもとの身体は既にほどけ、消滅してしまっている。
 残ったのは、魂だけ。
 不思議なことに、違和感も不安もなかった。
 繭のように彼を包む光が優しく、濁りなかったせいかもしれない。
 とくん、と――温かい鼓動を感じる。
 彼の魂、むき出しになったありのままの感覚に、それはじんわりと広がっていく。熱い力が内側から湧き立ち、やがて奔流となって駆け巡る。
 新たな身体が編み上がるまで、彼は生命の心地よさに存分に浸った。












 ――夢を、見る。


「貴様、何者だ!?」

 そう問うた相手を、青年の彼は容赦なく斬った。
 答えなかったのではない。
 答えたくとも、答えられないだけだ。
 そもそも、彼には名がなかった。





 ――或いは、遠い過去を思い出す。



 くしが通される都度、美しく長い髪はつやつやと黒く輝いた。
 まだ幼い彼が背後から見ていることに気づいたのだろう、母が振り向く。
 次の瞬間、その手にあったはずのくしは彼の額にぶち当たっていた。

()ね!」

 転びバテレンに戯れに孕まされ、望まず産み落とした我が子に、母は名をつけることはなかった。
 故に、彼には名がなかった。






 ――記憶と精神が、構成されていく。


 独りになった少年の彼が狩り場としたのは、決まって戦場跡の周辺だった。
 コウモリのように行き場のない彼は、落武者や合戦への復讐に燃える農民たちを殺し、食う糧を奪い得て生きるしかなかったのだ。
 出会いを果たしたのは、関ヶ原――日ノ本の国史上最大にして最後の大戦の地。
 西の勢力に付いたと思われる一人の武将の亡骸の下に、一振りの刀があった。
 それが持つ美しさと獰悪さに、彼は途方もなく惹かれた。
 以降、彼はその刀を生涯の得物とすることになる。
 刀には、東の勢力が忌み嫌うという名があった。
 だけれども、彼には名がなかった。





 ――そして、己という存在を思い出す。


 切っ掛けは忘れたが、青年の彼はさる流派の腕の立つ剣士を斬った。
 以降、彼は闘争と決闘を繰り返し、剣士として名声と悪名を上げていくことになる。

 あの凄腕の剣士との決闘に敗れ、終焉を迎える、その時まで。





 ぼんやりと、目を見開く。取り巻くのは、真っ暗な闇だけ。
 妙な浮遊感に包まれているのに気づく。それは重く、冷たい。
 ということは――ここは、水の中なのだろうか?
 なんとなく、思い出す。そういえばガキの頃、密航に失敗し、こっぴどい目に遭ったことがあった。
 居合わせた連中全員から死ぬほど殴られた挙句、「サメのエサにでもなっちまえ!」と、甲板から海に放り込まれたのだった。
 と、その時、視界の片隅の闇の中、青い光が爆発する。
 瞬間――彼は、意識を覚醒させる。











 松明を手にした兵士たちが、湖の周辺を走り回っていた。
 太陽は、もうとっくに沈んでいる。亜人の少女が落ちて、かなりの時間が経過していた。
 死体は、未だ見つかっていない。故に、生きている可能性がある。
 頼むから死んでいてくれよ――と、ハインツは思っていた。逃げる背中に向けて、スリングを投げた兵士だ。
 あの後、散々だった。仲間たちから「獲物を水ん中に落としちまいやがって!」と罵声を浴びせられたのだから。
 そもそもの元凶である亜人の少女を、ハインツは心の中で深く呪っていた。
 苛立つが故、気付けなかったのだ。ハインツだけではない。その場の兵士たち、全員。
 風が吹いてもいないのに、湖にさざ波が起こっていた。
 唐突に、轟音!
 湖から、水柱が、大きくド派手に噴き上がる!
 突然のことに、兵士たちは全員、仰天した。水柱にではなく、水柱を上げた存在に対して。

「貴様、何者だ!?」

 対し、そいつは――

『何者かって?』

 この世界に降り立った彼は、口端を歪め、ひどく楽しそうに笑った。

『俺は、剣士だよ。【名無し】のな』












 語り継がれる法則によれば、剣士を倒すのは力であり、力を宿すのは刀であり、刀は剣士を産むのだという。
 それは、彼という剣士を生誕させ(うみおとし)た。
 或いは、転生だったのかもしれない。人間(忌まれ生きる者)から、剣士(闘争と決闘に生きる者)への。
 名声と悪名、剣技と宿敵(とも)――そして、彼はついに名を得る。

【名無し】の剣士。


 それは、彼が剣士として得た唯一の誇り。
 そして、剣士である彼が生きるための、唯一の証。