「キリ……」

 亜人の父は五年前、人間の母は三年前、流行り病で亡くなった。
 聞いた話によれば、父と母が結婚したのは、トルシュ村にやって来てからなのだという。

「わたしも、大人になったら……村の誰かのお嫁さんになれるのかな? わたし、純粋な亜人じゃなくて、半分人間だけどさ」












 おおよそ500年前まで、この世界は荒れ狂う魔王の脅威にさらされていたという。
 魔王は強靱な肉体を持ち、想像を絶する魔力を振るい、亜人と魔物の大軍勢を従えていた。
 この恐ろしい脅威に立ち向かうべく、人間と獣人とエルフは手を結び、同盟軍を結成。
 両勢力は激突し合い、戦争が幾度も起こった。それは何百年にもわたって繰り返され、多くの英雄譚が生まれたという。しかし、悲劇もまた多く繰り返された。

 ――このままでは、世界が魔王の手に落ちるか、世界そのものが破滅しかねない。

 終わりが見えない戦争に終止符を打つため、人間と獣人とエルフの高位魔術師たちは魔力の粋を結集した。そして、「異なる世界」から【転生者】――後にこの世界を救うこととなる勇者を呼び寄せる。
 チートスキルと「異なる世界」の知識を持った【転生者】は、仲間たちと共に魔王を討ち滅ぼした。
 主であり、力の象徴であった魔王を失った軍勢は、総崩れとなる。以降、亜人と魔物は憎悪の対象となった。
 戦後、【転生者】によって、全ての存在は「善」なる者と「悪」しき者に識別さ(わかれ)れることになる。

「善」なる者は、人間と獣人とエルフ。
「悪」しき者は、亜人と魔物。

 それが、あらましだ。【転生者】が救ったこの世界の現状、厳然たるルールが支配する。

 それらを知った時、キリはこう考えた。
「善」なる者でも「悪」しき者でもない自分は、一体なんなのだろう?
 以来、キリの思考は出口の見えない迷路の中を、ずっと歩き回っている。












「そんなの……かまうかよ! キリはキリだ」

 ロナーはそんなキリを叱るように声を荒げた。

「シヴァさんと瞳美(ヒトミ)さんの自慢の子供のキリだ。トルシュ村で一番かわいいキリだ。ベリーのジャムを作るのが得意なキリだ。上着に刺繍をするのが下手くそなキリだ。おれのかあちゃんが作るシチューが大好きなくせに、にんじんが苦手でおれの皿にいつの間にか押し付けてくるキリだ。トルシュ村の一員のキリだ!」
「ロ、ロナー?」

 そこまで言うと、ロナーはそっぽを向いてもじもじしてしまった。
 見たら、ダークエルフの亜人特有の、先端が短剣の刃みたく尖った形の耳まで真っ赤になっていた。心なしか、垂れてへにゃんとなっているように見えなくもない。
 わけもわからず首を傾げるキリに、ロナーは、自分のポケットに手を突っ込んだ。
 


 ――今思えば、だ。
 あの時、ロナーはキリへのペンダントを――青くきらきら光る石を加工して作ったそれを、プレゼントしようとしていたのだ。
 だけれども――

「だから、もしよかったら、俺と」

 ――結局、キリは最期までロナーに答えることができなかった。
 ロナーからキリへの気持ちも、キリからのロナーへの気持ちも、この直後、全部壊されてしまったのだから。

 がしゃーん! と、派手な破砕音が響く。
 キリはてっきり、調子に乗って飲み過ぎた誰かがお皿でも落として壊した音だと思った。
 実際は、そうじゃなかった。
 誰かが、悲鳴を上げた。絞め殺される千匹の猫の断末魔のような、人の口から決して上がってはいけないものだ。
 あとで思えば、それを上げたのはロロの母だったような気がする。酒場の窓を破るように投げ込まれた、ロロの亡骸を見た。
 村人たち全員が状況を理解する前に、酒場の扉が蹴り破られる。
 どかどかと、足音荒く乗り込んできたのは、鋼の鎧に身を包んだ集団。

「昼間からこんな所に集まってパーティーか、亜人ども!」

 彼らは、剣や槍を構えた。

「だが、好都合だ!」



 ――だからキリは今、アシュロンの森を走っている。
 覚めることが叶わぬ現実と化した、悪夢の中を。