一瞬、我を失いかける。
それほどの衝撃的だったのだ。彼を覗き込むようにして立つ、異様な存在というのは。
奇怪な風体の少女だった。
結うことも留めることもせず垂らした長い髪は、虹の光沢を持たない螺鈿の色。肌は、砂浜に打ち上げられた貝殻のように透き通った白。身に纏うのは、漆黒の布地を複雑に縫い合わせた衣。
少女は、異人だった。日ノ本の国の人間の色を持たぬ、外の人間だ。
目が合うと、少女は瑠璃色の目を細めた。――笑ったのだろうか?
否、嗤ったのだろう。
純粋な異人にしてみれば、彼はコウモリだ。獣でありながら翼を持ち、鳥でありながら牙を持つ中途半端な存在だ。
転びバテレン(※)が戯れに市井の女を孕ませ産ませた、異人でも日ノ本の人間でもない、彼という存在は。
「……悪くない。お前で良さそうだ」
その声は、ひどく優しい。キリシタンが崇める女というのは、もしかすればこのような声を持っているのかもしれなかった。
故に、彼は戸惑いを隠せない。桜貝を思わせる薄い色の唇から吐き出されたのは、剣士として名を馳せるまで、それこそ生まれ落ちた時から浴びせられ続けていた、いわれのない罵りではなかったのだから。
「このまま戦いに身を置き、武を極めん者として、無様に敗れ、ただ死んでいくなど、つまらぬと思わぬか? つまらぬ、と云うのならば……」
彼のそんな感情を、少女は無視する。そして、一方的に喋りたててくる。
「雛僧、わたしを受け入れろ」
一体、なにを、言っている? それよりも、お前は……お前は一体、なんなんだ?
直後、抱いた疑念は、直感に変容する。
この異人の少女は――否、そもそもこれは人間ではない。
死神、狐狸妖怪の類、火車(※)を引くという悪鬼――いずれにしろ、ロクな存在ではないに違いない。
「ここで散ることを、無様に終わることを拒むのなら、死の境界を踏み越えた先、安寧など許されぬ戦場に臆さぬというのなら、至高を渇望するというのなら……雛僧、わたしと契約し、騎士となれ。
わたしは【魔神】ディスコルディア。【英雄】たる資質を持つ人間を、騎士へと昇華させる者」
異人の少女の姿のそれは、ディスコルディアと名乗った。
紡がれた言葉は、彼を混乱に陥れるものばかりで構成されていた。
それでも、理解できることが、唯一つ。――これは、誘惑だ。
ディスコルディア――複雑なまじないのような名を持つそいつは、彼を誘いをかけている。肝心な詳細を、巧みに惑わして。
「強さを与えてやろう、とこのわたしは言っているのだ。それこそ、お前を打ち破ったあの剣士を超える」
その言葉が、引き金となる。彼の脳裏に、記憶に刻まれた光景が、断片的に浮かぶ。
独りあてもなく流離う幼少時。
刀を振るい殺すことを覚えた少年時代。
ただひたすら剣技を磨き、剣士の名声と悪名を広めた青年時代。
そして、最期を迎える今。
あの凄腕の剣士との決闘。
彼を打ち負かし、悠々と去って行く勝者の後ろ姿。
敗者である彼に、目をくれることはない。
――本当に、悔いのない人生、だったのか?
――このような最期のためだけに、俺の人生はあったのか?
彼は、今、揺らいでいた。彼を人間として保たせる理性と、彼が彼である前の一つのいきものが求める欲望の狭間で。
「迷うな。時間はあまりない。貴様の魂は、既に燃え尽きかけのろうそくだ。間もなく、死神の腕に抱かれよう。さあ、どうする?」
異変は、唐突だった。
ディスコルディアの背後で、煙が吹き上がる。
つん、と鼻の奥を強烈に刺激する硫黄の臭気に、思わずむせかけた。
言うなれば、それは扉だ。この世の存在ではない存在が、現れるための。
そいつは、髑髏だった。ぼろぼろの黒衣で全身を包み、手には馬鹿でかすぎる鎌を携えている。
その手の知識に疎くとも、あの世からの使いだと、彼は瞬時に理解した。
「の、ぞ……む」
「ほぅ……」
「渇望する、と……俺は、言った、のだ! でぃすこるでぃあ!」
故に、彼は堕ちた。
人間であることより、いきものであることを選んだのだから。
「契約だ! 俺を、この俺をどらうぐるに……そして、至高へと導け!
俺は契約を渇望するぞ! でぃすこるでぃあ!」
「契約、成立だ!」
ディスコルディアは、笑みを変えた。
「してやったり!」と嗤う、奸智に長けた悪党の笑みに。
それが、彼がこの世界で見た最後のものとなった。
✟✟✟✟✟✟
(※)転びバテレン
江戸時代に拷問や迫害によって棄教したキリシタン(キリスト教徒)のこと。
宣教師などの宗教指導者の場合、転びバテレンという。
キリシタンが棄教することを「転ぶ」と言う。
(※)火車
悪行を積み重ねた末に死んだ者の元に現れる、地獄からの迎えの車。