敵を察知したスズメバチみたく、危険であることを仲間たちに伝播させていく兵士を、【名無し】の剣士は黙って見ていた。
弁明させてもらえば、黙っていたかったわけでは決してない。
「ふむ、声を失ったか」
『ディスコルディア……てめぇ、謀ったな!』
【名無し】の剣士は、激昂した。
だが、吐き出された悪態は形を成さなかった。
喉が、震えない。唇が、開かない。舌が痺れて動かない。
声を発するための器官、その全てが機能を失っている。
「フーフフフ♪ 分らんのかなぁ? 大いなる力を得るためには、それなりの代償が必要なのだよ」
正直、細工が施された秤に心臓を乗せたようなものだ。おかげで、不利を一方的に被る羽目になった。
とはいえ、甘言と疑わず信用しきった【名無し】の剣士にも問題がある。
――されど、時既に遅し。
「【魔神】との契約には、代償が伴う。騎士という強大な存在へ転生を遂げるのと引き換えに、その人間は己が身体の機能を一つ、供犠とするのだ」
『…………』
「解せぬという顔だな。それは、供犠が声であったことか? それとも、私と「こえ」で通じ合えていることか?」
『いや、お前……今、契約の代償で俺は声を失ったって』
「声ではない。絆だ。契約者たる騎士と【魔神】を繋ぐのは」
『…………』
「分からぬか? 人が人であるが故、決して理解などできぬ尊きものよ。だが、そうではありえぬ騎士であれば」
『……わけわからんことはさて置いてだ、ディスコルディア。これは、その代償とやらのオマケか?』
問答の最中、気づけば囲まれていた。
相手は複数。全員、武装している。
詳しい知識はないが、理解はできる。おそらくこいつらは、兵隊だ。
身体を覆う仰々しい鋼は、おそらく甲冑の類だろう。造りや形状は大きく違うが、手にするのは刀や槍の類である。
敵意からの注目を一身に浴び、しかし、返すことも振り払うこともできない。
【名無し】の剣士は嘆息した。
言葉が理解できるのはいい。ただ、返せなければちゃんと理解できていることにはならないのだ。
知己の仲ならなんとかなるだろう。だが、そうでなければ――
『つーか、どうすんだよ。相手と意思の疎通ができねぇぞ。洒落になんねぇよ。やべーよ、マジでやべーよ』
「案ずるな。減らず口など、あって百害だ。声などなくとも、この私が楽しませてくれる。この、楽しい楽しい【異世界】を楽しく導いてやる。お前は私の契約者、【魔神】ディスコルディアに選ばれし騎士。余計な不自由だけはさせぬ」
『見えてねぇからって、好き放題やりたい放題言いたい放題しやがって!』
浴びせられる悪態に、しかしディスコルディアは愉快そうに笑うだけ。
実際、愉快でしかないのだろう。現在直面中の苦境は、【名無し】の剣士を含む騎士たち以外に存在を認識されないという魔神にしてみれば。
――と、その時。
「なにをしている!」
兵隊の囲みを割って、一人の人物が進み出てくる。
見た瞬間、【名無し】の剣士は目を大きく見開いた。
『女!?』
「ガーネット大尉、お待ちください!」
ガーネットと呼ばれたその人物は、女だった。
雪のように白い肌、赤みがかった黄金色の長い髪、赤い貴石を思わせる目。日ノ本の国の人間が持てぬ美しさを持つ、絶世の美女。
正直、衝撃を受けた。女が、それも絶世の美女が甲冑を纏うなど。
「何者か知らないが」
驚く【名無し】の剣士に対し、しゃらん! と、ガーネットは腰から得物を抜く。
「軍務執行妨害だ。同行を願おうか」
その言葉で、悟る。おそらくこの女は、兵隊たちの大将だ。
あと、これはどうあっても引くに引けない状況だ。思い切り睨まれ、挙句、刃の切っ先を向けられているとなると。
『さて、どうするか』