アシュロンの森は、鬱蒼とした森林だ。「異なった」世界における、シュヴァルツヴァルトを思わせるような。
もっとも、そのような表現ができるのは、限られていたりする。
キリは勿論、表現できない側の人物だ。物心ついた時からトルシュ村で育ったキリにとって、世界とはトルシュ村だけなのだから。
故に、アシュロンの森は魔境だった。
「決して、入ってはいけないよ」
大人たちは、キリたち子供にそう言い聞かせた。
トルシュ村を隠すように広がるそこは、魔物が潜み、血も涙もない犯罪者のねぐらであると。
「じゃあ、なんでわたしたちは、そんな恐ろしい場所に囲まれて、息を殺すようにして暮らさないといけないの?」
キリの疑問に答えてくれる大人は、誰もいなかった。
でもキリは、つい先ほどその理由を身をもって知ることになった。文字通り、誰もいなくなってしまって。
風の流れに乗って、恐ろしいものが沢山流れてくる。鎧がガチャガチャ鳴る音、駆る馬が建てる蹄と呼吸音、鋼と血の臭い――
「亜人は見つけ次第、殺せ!」
「逃がすな、亜人は殺せ!」
「殺せ! 殺せ! 殺せ!」
「殺せ! 亜人は、殺せ!」
――そして、狂ったように放たれる罵声。
だから今、キリはアシュロンの森を走っている。走って逃げている。
捕まれば、文字通り殺されるからだ。トルシュ村のみんなのように。
正直、あの虐殺の場を、一体どうやって生き延びることができたのか分からない。
しかし、なんとか逃れたキリを待っていたのは、悪夢だった。
――悪夢なら、どれだけよかっただろう。悪夢なら普通、目覚めれば終わってくれるのだから。
「助けて」
キリが発した哀願を、聞き届ける者はいない。
「嫌、死にたくない……!」
黄金色の目から、涙が溢れ出る。もう、とっくに流しきったはずだったのに。
キリの怯えを嘲笑うかのよう、風に吹かれた枝葉が鳴った。
「誰か……助けて!」
それでもキリは、「誰か」の助けを哀願し続けた。
故に、キリが気付くことはなかった。ポケットに収まるものが、ぼぅっと青く光を発し始めたことに。
まるで、聞き届けてくれる「誰か」を、求めるかのように。
その「誰か」は、まだこの世界を知ることはなかった。
何故なら――彼はまだ、死んでいなかったのだから。