「私がこのようなことをあなたに言うのは、おかしなことかもしれません。ですがあなたが前に、食あたりで倒れた時、私に手を伸ばしてくれたことが、とてもうれしかったのです」

静かな夜だ。

熱に浮いた私の、荒い息づかいだけが聞こえている。

「好きでもない男と一緒になった苦しみは、好きな人と一緒になれなかった自分だから分かるのです。私は嫁など取るつもりはなかった。子供のことは気になさらなくてよろしい。養子に目星があるなら、あなたの好きなようにお探しなさい。ですがせめて、ご自分のお体は大切になさってください。それだけは約束願います」

その人は立ち上がった。

部屋を出て行くのかと思ったら、隣に布団を敷く。

「申し訳ないが、今夜はここで休ませてもらいます。あなたの看病をしたいという気持ちに、嘘はありませんので」

手を伸ばせばすぐ届く距離に、この人が寝ている。

だけどその手を、伸ばしてはいけない気がした。

「私の体は心配してくださるのに、気持ちまでは察してくださらないのですか」

その人は微かな笑みを浮かべた。

それはこの人自身が、自分を笑ったのかもしれない。

「気持ちなど、誰にも分かりません」

行燈の明かりが消える。

燃え尽きた芯の香りが闇に紛れた。

今ならば私にも、言えることがある。

「あなたは……、嫁をとるつもりはなくとも、私は嫁に来ました。あなたが私を好いていないことは、百も承知です」

熱でうなされた頭がぼんやりする。

目から涙があふれるのは、そのせいだ。

こんな手ぬぐいだなんて、いらない。

「ですがせめて、大切にしているフリをしていただけるだけでも、ありがたく思うております」

取り払った手ぬぐいを、たらいに放り込む。

それはポチャンと水音を立てて沈んだ。

「ですから私のことなど、どうかお気になさらぬよう、お願いします」

翌朝になっても、熱は下がらなかった。

晋太郎さんは頑として看病を他には譲らず、ずっと枕元についている。

手ぬぐいをまめに換え、起き上がった背を支えて粥を口に運び、薬湯を飲ませる。

義母が代わると申し出ても、それを決して譲らない。

枕元で座ったままうとうととしているその人を、私は見上げた。

「あなたに好かれた方は、幸せですね」

「えぇ。あの人にもそう言っていただけましたよ」

外には季節外れの冷たい風が吹いていた。

襖の向こうで見えない板戸がガタガタと揺れている。

「早くよくなってください。もうこれ以上、大切な人を亡くしたくはないのです」

次の夜になって、さらに熱は上がった。

食事も喉を通らず、蜂蜜を溶かした白湯を口にする。

頭が割れそうなほどの痛みに、歯を食いしばる。

こめかみに浮いた汗を晋太郎さんは拭った。

「苦しいのなら、薬を追加してもらいましょうか」

「いえ……大丈夫です」

このまま寝ていれば治る。

そんな気がする。

うずくまるように背を丸め、全身を固くしている。

この人がここにいるのは、私のためじゃない。

本当は苦しくて手をつないでいてほしいのに、そんなことすら口に出来ない。

布団の外へ腕を伸ばしたら、その人は手を握った。

じっと目を閉じて動かないでいるこの人を、ただ見上げている。

そっと握り返して、私も目を閉じた。