「何がご用事でも?」

「用がないとダメなのですか」

「いえ、そういうわけでは……」

じっと見下ろしたまま、その人は動かない。

自分のしたいことがなかったわけでもないのだけれど……。

仕方なく立ち上がった。

「では、参りましょう」

先を歩く晋太郎さんの背中から、ぶつぶつと何かが聞こえてくる。

だけどそれは、はっきりとは聞き取れない。

「昨夜は寝ないで待っていてくださいと、お願いしていたのに……」

「はい? なんですか?」

「なんでもございません!」

どうしよう。

あんまり長くなるのは困るな。

お義母さんとの和歌も考えないといけないのに。

吹く風に涼しさが増した。

家の周囲を囲む庭に植えられた常緑樹の緑は変わらない。

そういえば、晋太郎さんに句を教えてもらおうとして、そのままになっていたっけ。

だったらついでに、考えてもらおうかな。

そんなこと、もうこの人は覚えてもいないのかもしれないけど……。

部屋に入ると、縁側に碁盤が用意されていた。

「碁を打ちたかったのですか?」

「再試合を申し込みたい」

どうしよう。

これでは句の宿題は出来ないな。

「では、繕い物を持ってきてもよろしいですか?」

「繕い物をしながらですか?」

「えぇ」

「……いいでしょう。ただし私が勝ったら、今日は一日、言うことをきいてもらいますよ」

部屋へ戻り、裁縫箱と秋物の小袖を取ってくる。

「置き石は?」

「なしで!」

晋太郎さんは、黒で初手を打った。

先手有利の碁で有利となる黒を晋太郎さんがとり、置き石もなしの真剣勝負だ。

桔梗はまだ遅い花を咲かせている。

きっともうすぐ、この景色も終わってしまうのだろう。

私は針に糸を通す。

パチンと碁石が鳴った。

「昨夜はどうして、遅くなったのですか?」

「父上ですよ」

すぐに打ち返した白石の隣に、その人は黒を置く。

「あなたのお父さまであらせられる岡田宗治どのは、大変な碁の名手とか。あなたに勝負を申し込む前に、兄上を呼んで指南を受けたようです」

「昨夜はそのために? ですが……、私がお義父さまと勝負するのは……。それは、困ります」

「えぇ、あなたのおかげで、大変な迷惑をしておりますよ。父は私を呼びつけ、あなたの打ち手のクセを探れと仰せだ」

縫い物をする手を止めた。

「そんなことを私に打ち明けては、お義父さまからのお役目をちゃんと果たしておられぬではないですか」

「よいのです。私はあなたの、忠実な間者ですので」

黒石を置いた。

それを見て、すぐに白石を置く。

「私も昨日は一晩中、あなたの兄上の講義を聞きました。先だってのように、簡単には負けませんよ」

そう言いながらも、黒をおかしな位置に置いた。

どうしたものかと迷いはしたが、そのままアタリに石を置く。

晋太郎さんの眉はピクリと動いた。

「なるほど。さすがは名手のご息女だけはある」

勝負はついた。

晋太郎さんの負け。

突然、その人は碁盤の石をぐしゃぐしゃとかき乱すと、盤上をきれいに片付け始めた。

私はムッと眉をしかめる。