通された先は仏間だった。
部屋に入って右を向くと、床の間の隣に金仏壇があった。
「座りなさい」
逢生ちゃんの祖父、一さんがそう言って、僕は「失礼します」と歩を進めた。
部屋の中央には座布団が二つ並べられていた。
僕は下座に腰を下ろすと、改めて仏壇の方を見た。
経机の上には花や果物が供えられている。
そして、その上方、天井付近には二人の男女の遺影が飾られていた。
「逢生の、両親だ」
僕の視線に気づいたのか、一さんは上座に#胡座__あぐら__#を掻きながら言った。
二枚ある遺影のうち、片方は四十代後半くらいの、どこか寂しげな印象のある男性だった。
そして女性の方は、まだかなり若い。
「我々の娘――橋子は、逢生を産んだ十九歳の冬に事故で死んだ」
唐突に告げられたその事実に、僕は何とも返事をすることができなかった。
たった十九歳での事故死。
その衝撃は、彼らの心に暗い影を落としているに違いない。
「君は、この二人の顔に覚えはないか?」
出し抜けにそんなことを聞かれて、僕は一瞬だけ身を強張らせたものの、素直に「いいえ」と答えた。
写真の中で微笑を浮かべている二人のことを、僕は知らない。
けれど一さんの言わんとしていることを、僕は肌で感じ取っていた。
この二人に、僕は関係がある。
そんな予感があった。
「……知らない、か。さすがは巴さんだね。君にはやはり、我々のことは一言も話さなかったようだ」
そう、一さんは冷ややかな笑みを浮かべながら言った。
そして、
「関わりを持つのなら、最後まで」
彼の口にしたそのフレーズに、僕はどきりとした。
「それは……」
「巴さんの言葉だ。中途半端な関係は持つなという、彼女の戒めだ。君も一度くらいは聞いたことがあるだろう」
一度なんてもんじゃない。
何度も、何度も、母は言っていた。
関わりを持つのなら最後まで。
それが出来ないのなら、最初から関わるべきじゃない、と。
「彼女はそれを徹底していたよ。だからこそ我々と縁を切った。我々との関係が中途半端に残っていると、君に悪影響を与えると判断したのだろうね」
「あなたたちは、一体……僕と、どういう繋がりがあったのですか?」
僕は恐る恐る尋ねた。
この質問をするということは、すなわち母の思いを踏みにじるということだ。
僕を護ろうとした母の思いを。
それでも。
「知りたいんだね?」
最後の確認といわんばかりに、一さんは低い声で言った。
はい、と僕は声にして返す。
「たとえどんな結果になっても、僕は後悔しません。逢生ちゃんと……逢生さんと会えなくなるくらいなら、僕は……」
言いながら、僕は胸の内で彼女のことを思い出していた。
僕たちはまだ出会ったばかりで、お互いのことを深くは知らないし、思い出も決して多くはないけれど。
それでも、忘れられない。
彼女の泣いた顔。
怒った顔。
困った顔。
笑った顔。
そして、その都度僕の目に映っていた、彼女の死顔。
そのすべてが愛おしい――なんて言うのは大袈裟かもしれないけれど。
それでも、失いたくないと思う。
「……君は、人の屍が視えるそうだね」
観念したように、一さんは目を伏せて言った。
僕の体質については、おそらく逢生ちゃんから聞いたのだろう。
彼は再びゆっくりと目を開くと、畳の上に視線を落としたまま続けた。
「私と家内には、そんな能力は備わっていなかった。生まれたときから、目に見えるものが世界のすべてだった。私たちの娘である橋子も同じだった。誰がいつどうやって死ぬのかなんて、予測することはできない。もちろん、娘の死期だって……」
そこで彼は一度、何かを堪えるように声を詰まらせた。
けれどすぐにまた口を開き、
「だが、逢生の父親――渡は違った。彼は君と同じで、数日以内に死んでしまう人間の、死んだときの姿が視えるのだと言っていた。……あの体質は、どうやら遺伝するようだね」
「遺伝?」
その指摘に、僕は首を傾げた。
遺伝する、ということはつまり、逢生ちゃんもまた同じ能力を引き継いでいるということだ。
けれど彼女は、それを否定していた。
少なくとも僕の前ではそうだった。
私には視えない、と確かに言ったのだ。
どういうことですかと僕が尋ねようとすると、それよりも早く、一さんが言った。
「逢生の父親……いや、育ての親である渡は、逢生とは血が繋がっていない。彼の実子はたった一人。守部巴さんとの間に出来た息子――守部結人くんだけだ」
思いがけない発言に、僕は目を見開いていた。
と、そのとき。
視界の端で、すうっと障子が動いたのがわかった。
見ると、数センチほど開いた隙間から、ぎょろりとした目が一つだけ、こちらを見つめている。
奥さんだった。
逢生ちゃんからすると祖母に当たる。
ここへ来たとき、最初に僕を出迎えてくれた人だった。
「どうした?」
一さんが聞くと、奥さんは瞬きもせずに、
「逢生がいないの」
と、無機質な声で言った。
「さっきまで二階にいたのよ。ずっと部屋に籠っていたのに。いきなりいなくなって」
淡々と言うその口ぶりからは、焦りのようなものはあまり感じられなかった。
僕の方はまだ心臓がバクバク言っている。
逢生ちゃんの父親だと思っていた人が、実は僕の父親だった。
以前から妙な偶然や予感めいたものはあったけれど、まさかそんな繋がりがあったなんて。
「逢生ちゃ……逢生さんは、僕のことを避けているのですか?」
できる限り平静を装って、僕は尋ねた。
僕が来たから、彼女は出て行ったのかもしれない。
一さんは何かを考えるように低く唸ると、
「遠慮はあるだろうね。我々の存在は、君の家庭を壊したことになるのだから」
「壊した?」
「君から父親を奪った」
「それは……」
そうかもしれない。
かつて母が言っていた。
父は、僕らを捨ててどこか遠くへ行ってしまったのだと。
そして向かった先が、この橘家だったということだ。
「でも……その選択をしたのは父本人なのでしょう? あなた方のせいではないはずです」
一さんは何も言わない。
僕は少しだけ身を乗り出して聞いた。
「逢生さんはどこまで知っているんですか?」
ここが重要だった。
つい最近まで自殺を考えていたような子のことだ。
場合によっては不必要に自分自身を追い詰めてしまうかもしれない。
「先日、すべてを話したよ」
すべてという言葉に、僕はひやりとした。
「先週だったか……。逢生の口から君の話が出てね。人の死体が視える子だと聞いて、すぐにピンときた。それで、お互いのためにももう会うなと言ったんだ。そのときに、なぜと聞かれたから……すべてを話した」
嫌な予感がした。
彼女はすべてを知っているという。
「それで、彼女は……何と言ったんですか」
恐る恐る、尋ねた。
すると一さんは小さく息を吸ってから、
「……全部私のせいだ、と」
その答えに、僕は目眩がした。
全部自分のせい――その思考は危険なものだ。
およそ自殺者の数割が最期に辿り着きそうな結論とさえ思える。
そこで僕はふと、壁に掛けられている時計を見上げた。
午後九時過ぎ。
こんな夜遅くに、逢生ちゃんはどこへ行ったのだろう?
嫌な予感がする。
(……迎えに行かなきゃ)
どこからともなく競り上がって来る焦燥感が、僕の胸を襲う。
このままでは取り返しのつかないことになると。
(彼女が、死んでしまうかもしれない)
僕はその場に立ち上がり、短い挨拶を済ませると、すぐさま部屋を出た。