長月は鉛のような重い体をやっとのことで山小屋まで動かした。

その場に長引いたらきっと自分の負けに決まったから。逃げてきたのは快く思ってはいないが、仕方がないことだ。負けて黒魂に力を奪われたら元も子もない。今はまず傷を治すことに集中しようと決めた。あの黒魂が追いかけてこなければと願った。

負ってる傷からみると、明日まで休まないと完全に癒されない。

時間がただ過ぎていくのがとても無念だけど、今はそうするしか方法がない。早く回復して、もっと力を上げないままあの黒魂に出会ったら、もう今日みたいにうまく逃げられないかもしれない。

山小屋に入り壁にもたれたら、瞼がだんだん重くなってきた。山小屋は木々の影にあるので、空気がとても涼しい。長月は気持ちよく眠りに入った。

山小屋の外から物音がしたので、長月は目を開けた。もうすっかり昼になったから、登山客ではないかと長月は思った。

案の定、山小屋のドアを開けて入ってきたのは、登山服を着こんだ老人二人だ。

「おや、先客がいるようだな」

お爺さんが言う。

「お邪魔してもよろしいでしょうかね」

お爺さんの問いに長月は縦に頭を振っただけだ。

老人二人は長月に近づかず、ドア近くの場所で腰を下ろした。お爺さんはザックからボトルとコップを取り出し、並々に注げてからお婆さんに渡した。

「お嬢さんも一杯いかがですか?」

「いいえ、結構です」

「そうですか」
少し間をおいてからお爺さんは話をつづけた。

「傷を負ったようですが、病院へ行かなくてもよろしいですかね?」

「えぇ、一晩休めばすぐ治りますよ」

「なら、その傷が治る前に、どうかしないといけないということですかね」

言葉が終わるとともにお爺さんの体から黒い煙がにじみ出て波のように揺れ始めた。

「お爺さん、私は確かに傷を負っているけど、あなたに負けるほど弱ってはいないよ」

「はっはっ、やはりそうですか。これは失礼しました。実は、戦うつもりはありません」

また戦う気がない黒魂かよ、と長月は心の中で舌打ちをした。

「でも、私は戦う気、満々ですけど。黒魂を食べて力を上げないと」

長月の言葉を聞いてお爺さんは苦笑した。

「戦わないといけない運命ということですかね。この山小屋にお嬢さんがあると気づいたけど、婆さんの体力が持たないから休もうと決めたのですよ。わしに気づいた瞬間、攻撃してこなかったから戦わずにすむと思って入ってきたけど、検討違いのようですね」

長月も正直のところ今は戦いたくないのだった。深い傷を負っているので戦って、勝つことはできるけど、簡単には勝てない。それに回復の期間がまた伸びてしまう。このお爺さんの黒魂は、傷が完全に治ってから吸収しに行ってもいいと思った。

「まぁ、別にここで戦いたいと思ってもないけど……」

「それはたすかりました」

お爺さんの声には安堵の気持ちが含まれていた。

「でも、見逃してはくれないですね」

「はい」

「お嬢さんが戦う気になった時まで、婆さんともっといられるってことですか。それも悪くないな」

「私が吸収しに行かなくても、もう寿命がそう長くないでしょう?」

「お嬢さんの言ってるとおりですよ。もう時間がそんなに残っていない。だから、最後まで一緒にいたいんだ。なのに、なのに……婆さんが先に旅立ってしまってね」

「だから黒魂で婆さんの命を伸ばしだっていうわけですか?」

お爺さんは軽くうなずいただけだ。

「目の前にあるのは婆さんの皮をかぶった黒魂だって知ってますよ。それでもいいのです。死ぬ時は婆さんと一緒に死にたいですから。昔からの約束です。一人きりであの世へはいきたくないって。だから、わしもお供しないと」

「お爺さんが死んだら黒魂は制御できなくなって、二人の体にのっとるんですよ。二人は黒魂に操られるはめになるんです」

「おや、体を離れるとばかり思ってたけど、それでは困りますね」

「そういうわりには困ったようには見えませんけど」

お爺さんはお婆さんの手からコップをもらい、水を注いで一口飲んだ。

「もしかしたら、お嬢さんに出会うために、今日ここへ来たのかもしれませんね」

長月は何も答えなかった。この行動が自分に話を進めという促しとお爺さんは理解したようだ。

「婆さんとはこの山で出会ったんだよ。同じ登山仲間の紹介でね。週末になると必ず登山したんだな。婆さんにあってから目的はもはや体を鍛えるというより、婆さんに会いたいから登山したのも当然のようになったんですよ。そんなある日、朝から小雨が降り出して今日は取り消しだなと思ったけど、万が一に備えて出発したんだな。すると……」

お爺さんはお婆さんをじっと見つめた。視線からは愛情が感じられた。

「婆さんが待っていたんだよ。駆け寄って待たせたと言ったら、はにかみながらいいえと答えたんですよ。小雨はすぐ止んで二人きり登山しましたな。下山した時婆さんが言ったんですよ、わしを待っていたんだと。わしはすぐ付き合いを申し出て、一緒になったわけです」

思い出に耽るようにお爺さんはしばらく無言のままにいた。

「婆さんと一緒にいた日々はわしにとっては一番の幸せな日々だったんです。今もそうですよ。だから、先立つのは、のは、耐えられんです」

「だから黒魂の力を借りたのですね」

「そんなわけです。息を引き取った婆さんの体に黒魂の力を入れたんです。長くはもたないようですな」

お爺さんの目は涙ぐんでいた。お婆さんは手を上げ、お爺さんの頬に手をそっとおいた。その手にお爺さんも手を上げ、握った。

「お嬢さん、黒魂を吸ってもいいですよ。おとなしく座れるかどうかはわからないですけどな」

「いいんですか?」

「いいとも、いつか心を決めなければならないと思っていたんですよ。今日だと思えれば気も楽になるですな」

長月は何も言わなかった。

お爺さんは何も言わずに長月が自分の黒魂を持っていかれるのを待っているようだ。

長月は髪を伸ばし、お爺さんとお婆さん二人を包み込んで、長月は黒魂を吸収し始めた。黒魂は抵抗した。煙の形をした黒魂は山小屋の外へ逃げようとしたが、長月はすぐ、髪を伸ばして、髪の檻を作り、逃げるのを防いだ。煙の形をしただけで、本当の煙のように、隙間を通れることはできなかった。黒魂を全部吸い込むとお婆さんは空気が抜けた風船のように、倒れた。

お爺さんは別に驚いた様子もなく、静かにお婆さんを抱きしめた。

「黒魂が抜けると、『月引症』とやらがあるみたいですね。わしが乗り越えられるように見えるかね?」

長月は何も言わなかった。

「そうか。いいんですね。すぐ婆さんのところへ行ってお供できるんですから。このザックはここに置いていくよ。食べ物とかが入ってるから食べなさいな」

こう言って、お爺さんはお婆さんを背負って外へ出た。

山小屋は静まった空気に包まれた。

体の中にある黒魂を感じながら、なるべき一秒でも早く自分の力にしようと努力した。あの、人を操る黒魂より強くなって、あいつの力を超えないと、この町で生き残るのが難しい。

目を閉じゆっくり休もうとした長月の頭にあるアイデアがよぎった。この町に巫女がいるから、黒魂消滅に協力し合うのもいいと思えてきたからだ。そのかわり、黒魂は自分が吸い込むことに。

こう決めた以上明日、傷が治ったらさっそく巫女を探しにいくと決めた。

巫女はかぐや姫の分身を好んでない人もいるらしいが、出会ってみないと分からない。話し合いのできない巫女なら、一人の行動に戻ればいい。長月は自分の体にだんだん溶け込む黒魂を力を感じながら、運命の人、マスオと暮すことを夢見た